第19話 人間性モジュールの覚醒
ホールには、濃厚な血の臭いと、オゾンが燃えたときの焦げ臭さが立ち込めていた。
ステンドグラスを透過したネオンの光が、レオンの巨大な体躯を幾重にも切り刻むように照らし出している。
彼は冷たい合金の床に片膝をついていた。胸には硬光翼が貫通した傷口が大きく開き、暗赤色の血と幽青色の冷却液が絶え間なく流れ出している。
それでも、この傷だらけの獣は、広い背中でヴィクトリアをかばい続けていた。
そして、無事な左目だけが、背後にいる少女を優しく見つめていた。
「龍馬様……」
セシリアは血溜まりの中に膝をついていた。
精巧な人形のような顔には涙の跡が幾筋も残り、感情の崩壊を示すかのように、ホログラムのツインテールが激しく明滅している。
彼女には理解できなかった。
自分の狂気と愛情のすべてを注ぎ込んできた実験体が、なぜ、よりによって盲目の女を守るために防御を捨てたのか。
「わたくしを愛してくださらないのなら……この出来損ないを守るために、死ぬことさえ選ぶというのなら!」
セシリアの声は、すすり泣きから一転、耳をつんざくような絶叫へと変わった。
病的な愛情に満ちた顔が、悪鬼のように歪む。
「ならば、あなたもあの女も、一緒に地獄へ落ちていただきます! あの女の遺伝子さえメインフレームに捧げれば、わたくしが完璧なあなたをもう一度作り直せるのですから!」
彼女は勢いよく立ち上がった。
背中に残された硬光翼が、再び眩い青い光を放つ。
六枚の光刃が複雑に交差し、隙間のない死の網を形成した。空気を引き裂く甲高い音とともに、その刃がヴィクトリアめがけて襲いかかる。
ヴィクトリアの青白い顔には、恐怖の色など微塵もなかった。
欧風レースの盲目眼帯の下で、盲眼心網が狂ったように硬光翼の軌道を捉えている。
彼女は指先をわずかに動かし、腺体から最後の一滴まで高濃度情報素を絞り出そうとした。相手の遺伝子に拒絶反応を引き起こすためだ。
しかし、その瞬間、神経シナプスを引き裂かれるような激痛が走った。
「うっ……!」
ヴィクトリアは小さく呻いた。
青白い唇の端から、一筋の鮮血がこぼれ落ちる。
情報素の使い過ぎだった。
彼女が誇ってきた嗅覚と感知能力も、今やレオンの生命反応が急速に衰えていく、冷酷な数値を捉えることしかできなかった。
「ヴィクトリア……逃げろ……」
レオンの喉から、獣のような低い唸り声が漏れる。
彼は背中の重力エンジンを再起動させようとした。しかし、体内から骨が砕けるような不気味な音が響き、重い体が再びよろめいた。
それでも、無数の古傷と縫合痕に覆われた巨大な手は、頑なに少女の前を守り続けていた。
「動かないで」
ヴィクトリアの声は冷ややかで弱々しかったが、そこには一切の妥協を許さない決意があった。
彼女は後ろ手にレオンの冷たい大きな手を握る。
指先から漂う淡い冷香と、濃厚な血の臭いが交じり合った。
「あなたを守ると言ったでしょう」
硬光の網は、すでに二人の頭上へと迫っていた。
死の影が、二人を覆い尽くす。
その絶体絶命の瞬間だった。
銀色の小さな影が、幽鬼のように戦場へ割り込み、ヴィクトリアの前に身を投げ出した。
「シュッ――!」
耳障りな切断音が響く。
リリスだった。
普段は無表情で、精巧な人形のように佇んでいる三無少女が、今は細い両腕だけでセシリアの必殺の一撃を受け止めていた。
硬光刃が彼女の人工皮膚を切り裂き、その下から幽青色に輝くカーボンファイバー製の骨格と、無数のデータケーブルが露わになる。
火花が四方に飛び散った。
衝撃によってリリスの体は後方へ押し流され、両足が合金の床に二本の深い溝を刻む。
それでも彼女は、地面に杭を打ち込んだかのように踏みとどまり、一歩たりとも退かなかった。
「リリス!」
ヴィクトリアの盲眼心網は、少女の体内にあるコア反応炉が過負荷状態に陥っていることを、はっきりと捉えていた。
「警告……論理モジュール間の競合……保護命令の優先順位を上書き……」
リリスの電子音声に、珍しく途切れや雑音が混じった。
彼女はゆっくりと顔を上げる。
もともと無機質な青い電子眼に、恒星のように眩い暗金色の光が灯った。
「S級獣化遺伝子の構造解析……硬光兵装の基底プロトコル解析……完了」
冷たい機械合成音がホールに響き渡る。
だが、その声には、思わず畏怖を覚えるほどの神性が宿っていた。
「人間性モジュール……強制解放」
轟音が炸裂した。
リリスを中心に、恐るべき衝撃波が一気に広がった。
小さな体の背後から、突然、六枚の巨大な硬光翼が出現する。
その翼はセシリアのものよりも大きく、さらに眩い赤色の光を放っていた。
同時に、彼女の足元の合金床が一瞬で崩れ落ち、直径十メートルの絶対重力場が、リリスを中心に轟然と展開した。
レオンの「重力圧壊」とセシリアの「硬光兵装」。
その二つの能力を、このAIの器は一瞬にして完全に複製し、極限まで融合させたのだ。
「そんな……あり得ない! あなたは低級の補助AIにすぎないはずよ!」
セシリアは目を見開いた。
病的な狂気に満ちていた顔から、ついに恐怖の色が広がる。
自分が誇っていた硬光の網は、リリスの赤い硬光翼を前にすると、灼熱の太陽にさらされた雪のように、瞬く間に溶けて消えていった。
リリスは何も答えなかった。
ただ背中の赤い光翼を勢いよく羽ばたかせる。
巨大な重力場がセシリアを地面へと押しつぶした。
高みから人々を見下ろしていた貴族の令嬢が、今や骨を軋ませながら地面に押しつけられている。
両膝が床を激しく砕き、彼女の体は合金の床に深々とめり込んだ。
「解析完了。対象:セシリア・九条。判定:脅威。実行:抹殺」
次の瞬間、リリスはセシリアの目の前へ瞬間移動した。
赤い硬光翼が六本の高周波振動光刃へと変化する。
雷霆のごとき勢いで、一斉に振り下ろされた。
「いやあああっ!」
セシリアの悲鳴がホールに響き渡る。
背中に残っていた四枚の機械翼が、瞬時に切断された。
切断面は鏡のように滑らかだった。
火花と青い冷却液が噴水のように噴き出す。
凄まじい衝撃によって、セシリアの体は遠くまで吹き飛ばされ、ステンドグラスへと激突した。
ガラスが粉々に砕け散る。
彼女はぼろぼろの人形のように床へ落下し、全身を痙攣させたまま、二度と動けなくなった。
たった一撃。
それだけで、底層の極道たちを震え上がらせてきた貴族の聖女は、完全に打ちのめされたのだった。
ホールに再び静寂が戻る。
重力場が消えていく、低い唸りだけが空気の中に残っていた。
リリスの背後に広がっていた赤い硬光翼が、ゆっくりと閉じていく。
重力場もそれに合わせて解除された。
彼女は振り返ると、あちこちが破損し、火花を散らす体を引きずりながら、ヴィクトリアとレオンのもとへ一歩ずつ歩いてきた。
瀕死のレオンを見下ろす。
次に、口元から血を流し、盲目眼帯をかすかに震わせているヴィクトリアへ視線を向けた。
リリスのコア温度は急激に上昇していた。
冷却システムが、甲高い警告音を発している。
「未知の液体の漏出を検知……」
リリスは金属骨格が露出した手を持ち上げ、自分の目尻にそっと触れた。
一滴の透明な液体が、欠損した人工皮膚の頬を伝って滑り落ち、冷たい床へと滴った。
それは冷却液ではなかった。
ほのかな温もりを帯びた、本物の「涙」だった。
電子眼には、戸惑いと柔らかな光が宿っている。
その声も、もはや冷たい機械音ではなかった。
生まれたばかりの子供のような、あどけなさと困惑が混じっていた。
「私の論理回路では、この衝動を解析できません……。でも、あなたたちが傷ついているのを見ると、私のコアが……ここが、とても痛いのです。これが……『心の痛み』なのでしょうか?」
ヴィクトリアは青白い指を伸ばし、リリスの頬を伝う涙を優しく拭った。
その冷ややかな眼差しには、不器用な優しさが浮かんでいた。
「そうよ、リリス。あなたには『心』が宿ったの」
レオンも苦労して大きな手を伸ばし、リリスの頭をそっと撫でた。
その口元には、ぎこちないながらも安堵に満ちた笑みが浮かんでいた。
そのときだった。
遠くから、耳障りな空間歪曲音が響いてきた。
全身を血に染め、機械翼をすべて失ったセシリアが、腕に装着した緊急空間転送装置を必死に起動させていたのだ。
精巧な人形のようだった顔は、血と恐怖にまみれている。
彼女はヴィクトリアたち三人を毒々しい目で睨みつけていた。
だが、その瞳には、背筋が凍るような狂信的な熱狂が残っていた。
「あなたたち……勝ったつもりなの……? 哀れな虫けらどもが……」
転送装置が光を放ち始める。
セシリアの体が、少しずつ透明になっていった。
「あなたたちは、自分たちが何と戦っているのか、まるで分かっていない……」
彼女は口元を歪め、ねじれた笑みを浮かべる。
「アレクサンダー様が……すでに目覚められたのよ」
一瞬、光が弾けた。
セシリアの姿は、その場から完全に消え去った。
後に残されたのは、砕け散ったガラスの破片と、濃厚な血の臭いだけだった。
ヴィクトリアはゆっくりと立ち上がり、レオンの腕を自分の細い肩に回した。
そして、盲目眼帯に覆われた顔を、雲上の屋敷の最深部へと向ける。
指先では、情報素が再び静かに凝縮し始めていた。
「ならば、目覚めてもらいましょう」
彼女の冷ややかな声が、がらんとしたホールに響き渡る。
その声には、すべてを踏み砕いて進むほどの揺るぎない決意が込められていた。
「そして、もう一度殺してあげる」




