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第08話 老剣客の導き

 酸性雨が無数の銀針となって降り注ぎ、第七区の錆びついた排水管を容赦なく打ちつけていた。


 ネオン管の残光は水溜まりの中で砕け、奇怪な色彩の塊となって揺らめいている。


 廃棄された下水処理場へと続く裏路地は、まるで冥府そのものだった。


 レオン・龍馬の巨体は、鉄壁の黒金の城壁のように、風上に立ってヴィクトリア・雪絵を庇いながら歩いていた。


 右半面を覆う生体鱗片が、薄暗い光の中で冷たい金属光沢を放っている。


 古びた和風極道の羽織は雨に濡れ、隆々とした筋肉へぴったりと張りついていた。


 つい先ほどまで凄惨な殺戮を繰り広げていた男とは思えないほど、今のレオンは意図的に足音を殺していた。


 重い軍靴で水溜まりを踏み抜き、泥水を跳ね上げて、隣を歩く少女の優雅で複雑なヴィクトリア朝ゴシックドレスを汚してしまうのが怖かったのだ。


「あなたの心拍数が上がっているわ、レオン」


 ヴィクトリアがわずかに顔を傾ける。


 レースの盲目バイザーの下、その紙のように白い顔は、壊れそうな磁器を思わせた。


 彼女の指先から漂う淡い冷香が、湿った空気の中に静かに広がり、奇跡のように下水道から漂ってくる悪臭を遮断している。


「……君が寒いんじゃないかと思って」


 レオンの声は低く、掠れていた。


 野獣特有の粗さを帯びている。


 だが、少女へ向けられた左目の赤い光だけは、いつの間にか柔らかな色へ変わっていた。


 不器用に、まだ人間の形を保っている左手を持ち上げる。


 斜めに降り注ぐ雨を彼女から遮ろうとしたものの、途中で動きを止めた。


 自分の指の間に残っている血の臭いが、彼女を不快にさせるのではないか。


 そんなことを気にしていた。


 ヴィクトリアは、その不器用な言い訳を指摘しなかった。


 ただ、黒いレースの手袋に包まれた手を伸ばし、彼の粗い手の甲へそっと重ねた。


 冷たい指先だった。


 それだけで、レオンの身体が硬直する。


 呼吸さえ止まった。


「ヴィクターの実験室は、もうすぐそこよ」


 ヴィクトリアの口調は相変わらず淡々としていた。


 しかし、レオンには彼女の指先に込められた力が、わずかに強くなっているのが分かった。


「あの機械百合……アレクサンダー・神宮寺の最高機密の紋章」


 彼女の声が、冷たく響く。


「今日、私はあの高みから人を見下ろしている雲上貴族も、底層の汚水溝に巣食う鼠どもも……まとめて地獄へ引きずり込むわ」


 レオンが何か言葉を返そうとした、その時だった。


 前方の雨幕の向こうから、妙に規則正しい下駄の音が響いてきた。


「カツ、カツ、カツ……」


 大きな音ではない。


 それなのに、激しい雨音を奇妙なほど鮮明に突き抜け、二人の鼓膜を直接叩いた。


 路地の入口に設置された接触不良のホログラム広告が、二度ほど明滅する。


 そして、完全に消えた。


 闇の中から、一人の男が透明な和紙傘を差して、ゆっくりと歩いてくる。


 男は古風な趣を残した濃紺の和服を身にまとい、その上から防弾繊維で編まれた羽織を着ていた。


 左目には旧式の単眼型戦術ゴーグル。


 そして右腕は肘から先が完全に交換されており、そこには古めかしい機械美学を漂わせる真鍮製の義体が装着されている。


 歯車と連結棒が雨に濡れ、鈍い光を放っていた。


 そして最も目を引くのは、腰に差した一本の古流太刀。


 刃はあえて潰されている。


 鞘には色褪せた注連縄が巻きつけられていた。


「極道の古株……アーサー・源氏」


 レオンの獣化義眼が、瞬時に男を捉えた。


 左目の赤い光が一気に強まる。


 背中のカーボンファイバー製骨刃が、耳障りな金属音を立てた。


 いつでも肉体を突き破って飛び出せる状態だ。


 レオンは一歩踏み出し、ヴィクトリアを完全に背後へ隠した。


 喉の奥から危険な唸り声が漏れる。


「老いぼれ、そこをどけ。今日はお前と極道ごっこをしている暇はない」


 アーサー・源氏は足を止めた。


 単眼ゴーグルの奥にある片目が、冷たくレオンを見つめる。


 まるで未完成品でも査定するかのような視線だった。


「レオン・龍馬」


 乾いた声。


 だが、その奥には金属のような硬質さがあった。


「雲上にも極道にも見捨てられた雑種。底層深淵の狂犬」


 アーサーは続ける。


「最近、お前が盲目の調香師を護衛して、あちこちで噛みつき回っていると聞いてな」


 わずかに口元を歪める。


「この老骨も、少しばかり骨が疼いてきた。お前という獣の器量を試してみたくなったのさ」


「彼女のために、命を張る価値がある男なのかどうかな」


「死にたいらしいな!」


 レオンの逆鱗に触れた。


 咆哮と同時に、【S級獣化遺伝子】が完全に覚醒する。


 右半面を覆っていた黒金の鱗片が、瞬く間に首筋へと広がった。


 左目の赤い光が、実体を持つかのような光輪へと変わる。


「ドンッ!」


 重い轟音とともに、右腕の重装カーボンファイバー製骨刃が射出された。


 一・五メートルにも及ぶ刃が、高周波振動による青い殺意の光を放つ。


「【重力圧壊】!」


 レオンの体内で重力エンジンが狂ったように回転を始めた。


 周囲十メートルの雨粒が一瞬にして歪み、空中で静止する。


 そして次の瞬間、レオンを中心に凄まじい重力崩壊が発生した。


 両脚が地面を蹴る。


 路面が轟音とともに砕け散った。


 巨大な身体が黒い稲妻へと変わり、装甲さえ引き裂くほどの破壊力をまとってアーサーの顔面へ一直線に振り下ろされる。


 その一撃なら、重装ホバータンクですら真っ二つにできる。


 だが――


 アーサー・源氏は退かなかった。


 骨刃が鼻先に触れる寸前。


 アーサーの右手が、腰の刀柄へ静かに添えられた。


 サイバー義体のオーバークロック音もない。


 派手なホログラム演出もない。


 そこにあったのは、ただ純粋な、余計なものをすべて削ぎ落とした抜刀術だった。


「――キィン」


 雨夜に、霜のように冷たい刀光が咲いた。


 時間が、この瞬間だけ引き延ばされたように感じられた。


 レオンの視界を、美しくも儚い銀白色の閃光が走り抜ける。


 次の瞬間。


 彼が誇りにしていた重装カーボンファイバー製骨刃が、根元から乾いた音を立てた。


「カチッ」


 断面は鏡のように滑らかだった。


「な……」


 巨大な身体がバランスを失う。


 レオンは前方へよろめき、そのまま水溜まりへと激突した。


 大量の水飛沫が舞い上がる。


 彼は呆然と自分の右腕を見下ろした。


 そこには、何もなかった。


 赤い義眼に、信じられないという色が浮かぶ。


 アーサーは静かに刀を鞘へ収めた。


 その動作には一切の無駄がない。


 刀身には、一滴の雨水すら付着していなかった。


「お前の力の源は怒りだ」


 アーサーは淡々と言った。


「だが、お前の身体に宿っているのは、人間には属さない異物だ」


 一歩、レオンへ近づく。


「重力エンジンの排斥反応が、お前の神経を蝕んでいる」


 その声には、わずかな哀れみが混じっていた。


「お前が誇っている獣化遺伝子など、その体内にいる『怪物』を隠すための薄っぺらな仮面にすぎん」


「このままでは……敵に殺されるより先に、自分自身で自分を引き裂くことになるぞ」


「クソ野郎……!」


 レオンは身体を起こそうとした。


 左目の赤い光が、怒りによって不規則に明滅する。


 体内の重力エンジンが限界を超えて回転し始め、危険な唸り声を上げた。


「俺がお前を殺す!」


「レオン、やめて」


 その時だった。


 冷たい手が、そっとレオンの肩に置かれた。


 ヴィクトリアが彼の背後から歩み出る。


 ゴシックドレスの裾が泥水の上を滑り、優雅な弧を描いた。


 両目はレースに覆われている。


 それでも、その顔は正確にアーサーの方向を向いていた。


「彼の身体にある異物を、あなたが裁く必要はないわ」


 柔らかな声。


 だが、そこには逆らうことのできない威厳があった。


 その言葉とともに、奇妙な冷香が静かに広がっていく。


 殺戮のための毒ではない。


 極めて繊細な【情報素】だった。


 アーサーの瞳孔が、わずかに縮む。


 感情中枢が、穏やかでありながら抗うことのできない力によって、ゆっくりと鎮められていくのを感じた。


 ヴィクトリアの【盲眼心網(ブラインド・マインドネット)】が、情報素の補助を受けて完全展開する。


 彼女の感知領域の中で、アーサー・源氏から殺意は感じられなかった。


 敵意もない。


 そこにあったのは、深海のように年月を重ねた灰青色。


 そして、その奥底に隠された、ほんのわずかな――


 レオンへの期待。


「あなたに悪意はないのね、アーサーさん」


 ヴィクトリアは軽く腰を折った。


 完璧なヨーロッパ式の貴族礼を見せる。


「彼の骨刃を斬ったのは、殺すためではなく、彼を冷静にさせるため」


「そして、あなたは私たちがヴィクターの実験室へ向かうことを知っていて、わざわざここで待っていた」


 アーサーは目の前の少女を見つめた。


 一見すれば、今にも壊れてしまいそうな盲目の少女。


 だが、その内側に宿るものは、そんな脆弱な存在ではなかった。


 単眼の奥に、かすかな賞賛が浮かぶ。


「……なるほどな」


 アーサーは小さく息を吐いた。


 そして腰から、注連縄の巻かれた古流太刀を外す。


 次の瞬間、それをレオンへ向けて無造作に放り投げた。


 レオンは反射的に受け止めた。


 ずしりと重い。


 刀柄を握った瞬間、奇妙な振動が掌へ伝わってきた。


 それはまるで、彼の体内にある重力エンジンそのものが呼応しているようだった。


 驚くほど完璧な共鳴。


「その刀の名は――『断水』」


 アーサーは言った。


「お前の重力場を、完全な形で伝導できる」


 そう言うと、再び透明な和紙傘を開いた。


「ヴィクター・黒川という狂人の体内には、新バビロン全体を滅ぼしかねないものが隠されている」


 アーサーの声が、雨音の中でひどく冷たく響いた。


「それは極道だけの秘密じゃない」


 一拍置く。


「雲上貴族が進める『AI神』計画。その核心を構成する、重要なピースだ」


 アーサーはそこで言葉を切った。


「行け。実験室へ向かうんだ、子供たち」


 透明な傘の向こうから、片目が二人を見つめる。


「ただし覚えておけ」


「お前たちが、あの機械百合の真実を暴く時――」


 低く、冷たい声が雨夜に沈んだ。


「地獄よりもさらに深い深淵と、向き合う覚悟をしておけ」


 そう言い残すと、アーサー・源氏は下駄を鳴らしながら、雨幕の奥へと歩いていった。


 一歩。


 また一歩。


 やがて、その姿は闇と完全に同化して消えた。


 レオンは『断水』の太刀を強く握り締めた。


 アーサーが消えていった方向をしばらく見つめる。


 そして、ヴィクトリアへと振り返った。


 先ほどまで荒れ狂っていた狂気は、完全に消えていた。


 そこに残っていたのは、より強く、より揺るぎない守護の意志だった。


「行きましょう、レオン」


 ヴィクトリアは再び彼の腕に手を絡める。


 冷たい香りが、二人を静かに包み込んだ。


「私たちのものを、取り戻しに行くのよ」


 二人は肩を並べ、廃棄された下水処理場へ向かって歩き始めた。


 ――だが。


 はるか後方。


 二人から遠く離れた暗い路地で、アーサー・源氏は足を止めた。


 ゆっくりと、真鍮製の義体の腕を持ち上げる。


 その胸部に埋め込まれた古びた真鍮製義体コアが、突然、微弱な青い光を放った。


 一定のリズムで。


 一度。


 二度。


 そして、また一度。


 同じ頃。


 前方を歩いていたヴィクトリアが、突然足を止めた。


【盲眼心網(ブラインド・マインドネット)】の最深部。


 そこに長い間潜伏していた、彼女の一族が滅亡した真相に関わる文字化けしたデータとAIコード。


 それらが今この瞬間――


 アーサーの義体コアから放たれた微弱な青い光と、凄まじい強さで共鳴した。


 ヴィクトリアの視界。


 光を失った暗闇の中に、一行の赤いコードが突然浮かび上がった。


【同源コアを検出……】


【プロトコル再構築中……】


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