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第07話 ネオン深淵の掟

 

「それは……私の娘を生贄に捧げなければ、神は完全には降臨できないからだよ、雪絵」


 機械によって合成された声。


 それでも、その響きにはヴィクトリアが誰よりもよく知る、あの穏やかな温もりが残っていた。


 冷たい雨夜に響くその言葉は、毒を塗った刃となって、彼女の心に残された最後の温情を無慈悲に切り刻んだ。


 ヴィクトリアはレオンの広い腕の中で、はっと目を見開いた。


 戦術用アイマスクの下、視力を失った瞳に涙はなかった。


 そこにあるのは、底知れぬ極寒のような憎悪だけだった。


 白い指がゆっくりと握り締められる。爪が掌に深く食い込み、温かな血が指の隙間から滴り落ちた。


 その血は雨水と混じり合い、足元へ流れていく。


「雪絵……」


 レオンは、彼女の身体が強張ったのを敏感に察した。


 紅い義眼に、わずかな動揺が走る。


 彼は不器用に腕へ力を込め、自分の体温で彼女の冷え切った心を温めようとした。


「雑音なんか聞くな。何があろうと、俺はここにいる」


「大丈夫よ、レオン」


 ヴィクトリアの声は、触れれば壊れてしまいそうなほど柔らかかった。


 だが、その静けさには息を呑むほどの冷徹さが潜んでいた。


 血のついた指先を持ち上げ、レオンの冷たい機械の頬にそっと触れる。


「父の死は、嘘だった。父はAIの宿主になったのね」


 彼女の口元に、薄い笑みが浮かんだ。


「なら、あの偽りの神を……父もろとも地獄へ引きずり込んでやるわ。神様などというもののために、私を生贄に捧げるというのなら」


 ヴィクトリアはレオンの羽織を押しのけ、まっすぐに立ち上がった。


 ゴシックドレスが酸性雨の中ではためく。


 その姿は、深淵の縁で花開く、血に飢えた薔薇そのものだった。


「行きましょう。底層深淵へ」


 * * *


 耳障りな金属摩擦音を立てながら、老朽化した貨物用エレベーターが成層圏を突き抜けた。


 そして、陽の光が永久に届かない「ネオン深淵」の底へ、轟音とともに叩きつけられる。


 扉が開いた瞬間、強烈な臭気が二人を襲った。


 機械油、粗悪な合成アルコール、そして血の臭いが混ざり合った、濁った空気だった。


 ここは新バビロンの排泄口。


 巨大なホログラムの錦鯉が、汚水の中を悠々と泳いでいる。


 日式サイバーパンク風の居酒屋、違法義体診療所、そして歓楽街が、狭苦しい鋼鉄のジャングルの中で入り乱れていた。


 ネオン管は不気味な紫色に明滅し、路地に溜まった水を照らしている。


 その水面は、まるで凝固しきらない瘀血のような色をしていた。


 ヴィクトリアはレースの戦術用アイマスクを装着した。


【盲眼心網】、展開。


 周囲数十メートルに存在する熱源、音波、電磁波の揺らぎが、彼女の脳内で瞬時に処理され、精緻な三次元立体図を構築していく。


『姐さん! 盲女! 底層に着いたんだな!』


 通信機から、ジャックの慌ただしい声が飛び込んできた。


 電流の混じったノイズがひどい。


『この辺りは通信信号が乱れすぎてる。基本的なナビゲーションしか送れねえ! くれぐれも気をつけてくれ。ここじゃ、掟がないことが唯一の掟だからな!』


 言葉が終わるより早く、前方の暗い路地から、いくつもの赤い義眼が不気味に光った。


 安物の重装義体を全身に埋め込み、サイバー般若の面を身体に刻み込んだ極道の男たちが三人、行く手を塞いでいた。


 先頭に立つのは、機械の顎を装着した傷だらけの男。


 彼は電子タバコをくわえ、ヴィクトリアの身体を舐めるように見回した。


「おやおや、こいつは誰かと思えば……目の見えねえ磁器人形じゃねえか」


 男が青い煙を吐き出す。


 機械の顎が、耳障りな金属音を立てた。


「そのヴィクトリア朝時代の骨董品みてえなドレスに、すべすべの肌……上層の変態貴族どもに肉便器として売り飛ばすか、九条のお嬢様に実験体として献上するか。どっちにしても、かなりの信用点になりそうだな?」


 残りの二人も、下卑た笑い声を上げた。


 重装義体の脚が左右から迫り、重い機械の足音とともに水しぶきが飛び散る。


 レオンの呼吸が、瞬時に荒くなった。


 紅い義眼が危険な光を放ち、背中のカーボンファイバー製骨刃が、血を求めるように低く唸った。


「レオン、動かないで」


 しかし、ヴィクトリアは彼の太い腕をそっと押さえた。


 わずかに首を傾け、冷ややかな声を雨夜に響かせる。


「そこをどきなさい。さもなければ、死ぬわよ」


「目の見えねえガキが、俺に指図してんじゃねえ!」


 傷顔の男が激昂した。


 一歩踏み込むと、錆びついた機械の手を伸ばし、ヴィクトリアの白い頬を掴もうとする。


「大人しくしやがれ!」


「お前には、彼女に触れることすらできない」


 低い咆哮が爆発した。


 次の瞬間、レオンの姿がその場から消えた。


 S級獣化遺伝子が、完全に覚醒したのだ。


 黒金の重装生体義体の鱗が、生き物のように全身へと広がっていく。


 左目の紅い光が、凄まじい勢いで膨張した。


 背中の重力エンジンが轟音を上げる。


 局所重力場が展開され、周囲の重力が瞬時に十倍へと跳ね上がった。


「ドンッ!」


 傷顔の男の機械の手が、まだ宙にある。


 その瞬間には、すでにレオンが魔神のごとく眼前に立っていた。


 片手で男の手首を握り締める。


 恐るべき握力が加わり、高強度合金製の骨格が、一本一本砕け散った。


「ぎゃあああああっ!」


 悲鳴が最後まで上がることはなかった。


 レオンのもう片方の手が、男の胸腔へと深々と突き刺さったのだ。


 金属が捻じ曲がる音。


 肉が引き裂かれる音。


 耳を覆いたくなるような凄惨な音とともに、重装改造人間の胸が、文字どおり両側へと引き裂かれた。


 熱い血と青い冷却液が飛び散り、レオンの黒金の鱗を濡らす。


 その姿は、凶暴さと殺意の塊だった。


「撃て! 殺せ!」


 残された二人の改造人間は、恐怖に魂を抜かれたように叫んだ。


 腕に装着されたプラズマ機関砲を、一斉に持ち上げる。


「遅い」


 レオンが冷たく言い放った。


 重力エンジンが全開になる。


 恐ろしい重力圧壊が二人を襲い、彼らは一瞬にして汚水の中へと押しつぶされた。


 膝の骨が砕ける音が、はっきりと聞こえた。


 レオンは重い足取りで二人の前へ歩み寄った。


 背中からカーボンファイバー製骨刃が勢いよく飛び出す。


 二本の黒い稲妻が、暗闇を切り裂いた。


 振り上げ、振り下ろす。


 一瞬のことだった。


 機械義眼を埋め込まれた二つの頭部が宙を舞う。


 切断された首から火花と鮮血が噴き上がり、まるで鮮やかな花火のように雨夜を彩った。


 三体の無残な死体が、血の水たまりに崩れ落ちる。


 周囲の物陰に潜んでいた極道の下っ端たちは、息をすることさえ忘れたように固まっていた。


 彼らは慌てて義体の電源を切り、この恐ろしい獣に自分の存在を悟られまいと、身を潜める。


 レオンは荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。


 全身から、凄まじい殺気が立ち上っている。


 ゆっくりと振り返り、ヴィクトリアを見つめた。


 紅い義眼には、まだ暴虐の余韻が残っている。


 だが、それはすぐに不安へと変わった。


 彼女に、自分を怪物だと思われたくなかったのだ。


 しかし、ヴィクトリアは水たまりを踏みながら、優雅に彼のもとへ歩み寄った。


 血にまみれた身体を気にする様子もない。


 彼女はそっと背伸びをすると、白く柔らかな指先で、レオンの頬についた血の一滴を拭い取った。


「よくやったわ、私の騎士様」


 その声は、溶けた水滴のように優しかった。


「でも、ひとりは生かしておく必要があるわ」


 レオンの身体が、ぴたりと硬直した。


 耳元の赤みが、黒金の鱗を透かすように一気に広がっていく。


 彼は勢いよく頭を下げると、大型犬のようにヴィクトリアの掌へ頬を擦り寄せた。


 すべての殺気を素直に引っ込める。


「……わかった。お前の言うとおりにする」


 ヴィクトリアはゆっくりと振り返り、路地の奥に広がる暗闇へ顔を向けた。


 指先がドレスの裾をかすめる。


 すると、幽かな冷気を帯びた不思議な香りが、雨の霧に紛れて静かに広がっていった。


【情報素操作】。


「出てきなさい、友達」


 ヴィクトリアの声が、闇の中へと落ちていく。


「あなたの心臓の音、私の頭の中でうるさくて仕方がないの」


 暗がりから、激しい咳き込みが聞こえた。


 やがて、痩せこけた老人が、転がるようにして這い出してきた。


 頭の半分は、透明な脳機インターフェースで覆われている。


 この街区で情報を売買する闇の情報屋、「鼠」だった。


 本来なら、極道の連中が二人を始末したあとで現れ、死体と所持品を漁って利益を得るつもりだったのだ。


 だが、彼は目の前で繰り広げられた恐ろしい殺戮を、すべて目撃してしまった。


 それだけではない。


 ヴィクトリアの放つ冷たい香りが、彼の鼻腔を通じて神経中枢へと侵入していた。


 大脳皮質に、「絶対服従」という恐怖信号が強制的に書き込まれていく。


 彼の目の前にいるのは、もはや盲目の少女などではなかった。


 生と死を自在に司る、深淵の女王だった。


「じょ、女王様……!」


 鼠は全身を震わせ、涙と鼻水を垂れ流した。


「何でも話します! だから、殺さないでください!」


「ヴィクター・黒川の地下実験室は、どこにあるの?」


 ヴィクトリアは、彼を見下ろすようにして尋ねた。


 もちろん、実際には何も見えていない。


 それでも、彼女の声は今日の天気を尋ねるかのように平坦だった。


「だ、第七区の廃棄された汚水処理場の地下です! 入口は……」


 鼠は支離滅裂に答えながら、震える手で懐から一枚の物理記録チップを取り出した。


 油にまみれた、古びたチップだった。


「こ、これが実験室の三次元構造図と、防御配置図です! 全部差し上げます!」


「ジャック、データを受信して」


 ヴィクトリアが淡々と告げた。


『了解! 今、解析してる……』


 通信機の向こうから、ジャックが猛烈な勢いでキーボードを叩く音が聞こえてきた。


『姐さん、この爺さん、嘘はついてねえ。データは完全なものだ。ヴィクターの実験室は……』


 そこで、ジャックの声が突然止まった。


「……待てよ!」


 声の調子が変わる。


 明らかな緊張が、その言葉に滲んでいた。


 ヴィクトリアの【盲眼心網】も同時に、チップのデータストリームの最深部に埋め込まれた隠しコードを捉えていた。


 彼女は、わずかに眉をひそめる。


「どうしたの、ジャック?」


 レオンが低い声で尋ねた。


『盲女……この地図に、ヴィクターの実験室の中核区域を示すマークがあるだろ? その横に、暗号化された小さなデータトーテムが埋め込まれてるんだ』


 ジャックは唾を呑み込んだ。


『たった今、復元できた。これは……血を滴らせた、満開の機械百合だ』


 雨脚が、さらに強くなった。


 ヴィクトリアの白い指先が、わずかに握り締められる。


 機械百合。


 それは雲上貴族の最高議長、アレクサンダー一族が使用する、最高機密の紋章だった。


 底層深淵の極道総長、ヴィクターの秘密実験室に、なぜ雲上貴族の紋章が存在するのか。


 水と油のように相容れないはずの二大勢力。


「AI神」の計画の裏で、彼らはいったい、どれほどおぞましい取引を重ねてきたというのか。


 ヴィクトリアはゆっくりと顔を上げた。


 レースのアイマスクに覆われた両目は、何も映していない。


 それでも、レオンにははっきりと感じ取れた。


 彼女のか弱い身体の奥底で、極寒の氷をも凌ぐ殺意が、静かに目覚めようとしていた。


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