第06話 雨夜の狂獣、その優しさ
酸性雨が滝のように降り注ぎ、底層深淵の、陽の光を知らぬ鋼鉄の廃墟を洗い流していた。
蝮が溶けて残した血の水たまりは、錆びついた格子状の排水溝を伝い、ぽたぽたと滴り落ちていく。肉を腐食させるような「シューッ」という不快な音が、雨音に混じって響いていた。
ヴィクトリアは、雨の中に静かに立ち尽くしていた。
銀白色の長い髪は雨に濡れ、紙のように白い頬に張りついている。ヨーロッパ風のレースをあしらった戦術用アイマスクに覆われた顔は、透き通るほど冷ややかだった。
だが、ドレスの裾に隠された両手は、すでに高周波振動ブレードの柄を強く握りしめていた。
――お前の父親は……。
蝮が最後に残した、未完の口の動き。
それは毒を塗った氷の針のように、彼女の心臓へ深々と突き刺さっていた。
一族皆殺しの真相が、ようやくその一角を露わにしたばかりだ。
雲上に君臨する最高議長、アレクサンダー・神宮寺。
まさか、あの男こそがすべてを裏で操っていた黒幕だったとは。
そして、彼女の父――温厚で知られた遺伝子学の泰斗は、死の直前、いったい何を隠していたのか。
考えを整理する間もなかった。
極限まで押し殺された苦悶の叫びが、雨夜の静寂を引き裂いた。
「ぐああああああっ――!」
レオンの巨体が、突然激しく痙攣した。
彼は片膝をつき、両手で地面の鋼板を掴む。
五センチもの厚さがある合金の床に、十本の指が深々とめり込んだ。まるで柔らかな粘土でも握り潰すかのように。
「レオン!」
ヴィクトリアの胸が、きゅっと締めつけられた。
先ほど彼女を守るため、レオンは重力エンジンを強制的に過負荷状態まで引き上げたのだ。
その代償が、今になって彼の身体を襲っていた。
脊椎に埋め込まれた重力コアが、耳障りな過負荷警報を発している。破れた日式極道の羽織の隙間から、幽青色の光が狂ったように明滅していた。
しかし、本当に恐ろしいのは、彼の身体そのものだった。
S級獣化遺伝子と重力エンジンが、致命的な拒絶反応を起こしていたのだ。
黒金の重装生体義体の鱗が、制御を失った荊のように逆立つ。
無数の鱗が縫合痕だらけの皮膚を突き破り、異様な速度で増殖していく。
背中からは、カーボンファイバー製の骨刃が「ガシャンッ」と音を立てて飛び出した。
雨夜の闇に、冷酷な刃の光が走る。
「失せろ……全員、俺の前から消えろ!」
レオンの声は、もはや人間のものではなかった。
野獣の低い唸り声へと変わり、左目の紅い獣化義眼には、意味をなさないエラーコードが激しく明滅している。
彼の体内で重力場が完全に暴走した。
周囲の雨水、瓦礫、さらには放置されたネオン看板までもが、歪んだ重力に引き寄せられて宙へと巻き上げられていく。
破滅を予感させる巨大な渦が、廃墟の真ん中に形成されていた。
『警告! S級実験体の生命活動に異常! 遺伝子鎖の崩壊率、89%!』
耳障りな機械音声が響き渡る。
その直後、夜空から数十本の幽青色の硬光が降り注いだ。
雲上貴族・九条家が誇る「天使」の機械翼だった。
セシリア――あの狂気に取り憑かれた聖女が、ついに二人の居場所を突き止めたのだ。
「あらあら、かわいそうなワンちゃん。拒絶反応を起こしている姿、本当に痛々しいわねぇ」
セシリアの狂熱と病的な笑い声が、拡声器を通じて廃墟の上空に響き渡る。
「捕まえなさい! 連れ帰ったら、わたくしが直接『深層神経切除』の手術をしてあげる!」
数十機の硬光ドローンが、群がる蜂のように急降下した。
高出力レーザーが幾重にも交差し、死の網を織りなす。
「死ね……全員、死ねぇぇっ!」
完全に理性を失ったレオンが、勢いよく顔を上げた。
紅い義眼が、上空のドローン群を捉える。
背中のカーボンファイバー製骨刃が、一瞬にして三メートルもの長さに伸びた。
重力圧壊の能力を併せて発動させ、彼は黒い稲妻となって空中の敵陣へ突っ込んでいく。
それは、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的な殺戮だった。
レオンは防御することを完全に放棄していた。
レーザーが身体を貫こうとも、彼は止まらない。
狂気に呑まれた獣そのものとなり、骨刃を振るうたび、ドローンも周囲の建造物もまとめて真っ二つに切り裂いていく。
金属の残骸と機械油が、雨のように降り注いだ。
彼の全身には、骨まで達する深い傷が無数に刻まれていた。
それでも、黒金の鱗は異常な再生能力によって蠢き、傷口を塞いでいく。
治癒するたび、倍増した激痛が神経を焼いた。
「レオン! やめろ! 神経シナプスが焼き切れるぞ!」
通信機から、ジャックの焦った怒鳴り声が飛び込んできた。
「もうやめろ! このままじゃ、脳みそのない肉塊になっちまう!」
だが、レオンの耳には届いていなかった。
最後のドローンを引き裂いたとき、周囲はすでに見る影もなく破壊されていた。
レオンは荒々しく息を吐き、血にまみれた巨体をゆっくりと振り返らせた。
まるで地獄の底から這い上がってきた修羅のようだった。
その紅い義眼が、雨の中に立つヴィクトリアを捉える。
彼の視界では、すべての存在が敵を示す赤い熱源へと変わっていた。
あの冷たい香りをまとう女でさえも。
「グオオオオオッ!」
人間のものとは思えない咆哮が轟いた。
巨大な機械の爪が、空気を引き裂く衝撃波を伴い、ヴィクトリアの顔面めがけて振り下ろされる。
重力場が彼女の周囲の空気を一瞬にして奪い去った。
息ができない。
「姐さん! 逃げろおおっ!」
通信機の向こうで、ジャックが絶望的な悲鳴を上げた。
だが、ヴィクトリアは一歩も退かなかった。
それどころか、彼女は高周波振動ブレードを手放した。
機甲兵器さえも両断するその刃が、水たまりの中へ落ちていく。
ヴィクトリアはゴシックドレスの裾をそっと持ち上げた。
そして、自分を粉々に引き裂こうとする重力の嵐へ、ゆっくりと歩み寄っていった。
「雪絵……」
レオンの喉から、苦しげな音が漏れる。
左目の紅い光が、理性の残滓と狂気の間で激しく明滅していた。
機械の爪が、ヴィクトリアの喉元まであとわずか半寸というところで、ぴたりと止まった。
刃の先端が彼女の白い肌をかすめ、鮮烈な紅い血が一筋、滲み出る。
「ここにいるわ」
ヴィクトリアの声は柔らかく、それでいて揺るぎなかった。
周囲を吹き荒れる重力の刃が、彼女の肌を次々と切り裂いていく。
数十もの細かな傷が刻まれ、白いドレスが血に染まっていった。
それでも、彼女は痛みなど感じていないかのように、一歩、また一歩と前へ進む。
そして、両腕を伸ばした。
鱗と棘に覆われ、灼熱のように熱いレオンの巨体を、彼女はためらうことなく強く抱きしめた。
「轟ッ!」
抱擁の瞬間。
ヴィクトリアのうなじに隠されていた接続端子が弾けるように開き、銀色の神経プローブが一本、飛び出した。
それはレオンの後頭部にある脳機接続用の物理ポートへ、寸分の狂いもなく突き刺さった。
【盲眼心網】――強制接続!
轟音とともに、ヴィクトリアの意識は恐ろしい精神世界へと引きずり込まれた。
そこには、空も大地も存在しなかった。
ただ、果てしなく広がる溶岩と、燃え盛る業火だけがあった。
無数の太い黒い鎖が、レオンの魂を貫いている。
その一本一本には、「拒絶」と「苦痛」を意味する赤いコードが無数の棘となって突き刺さっていた。
レオンの魂は溶岩の上に吊るされ、終わることのない責め苦を受けていた。
「レオン、私を見て」
狂乱する精神の嵐の中で、ヴィクトリアの意識は一片の冷たい雪となった。
彼女は視力を失っている。
だが、盲眼心網の世界では、誰よりも鮮明にすべてを捉えていた。
暴走する神経シナプス。
遺伝子の衝突によって断ち切られた、魂と魂を繋ぐ神経回路。
そのすべてが、彼女には見えていた。
ヴィクトリアは調香師であり、同時に遺伝子学の名門・雪絵家の令嬢でもある。
彼女の精神力は、繊細な手術用メスのように鋭く、そして、どこまでも優しい冷香のように穏やかだった。
盲眼心網を操り、暴走する赤いコードを一本ずつ剥がし、無力化していく。
灼熱の溶岩を、純白の雪が覆い尽くす。
黒い鎖の隙間からは、薔薇の蔓が伸び始めた。
その蔓は、レオンの魂に刻まれた痛みの裂け目を、優しく包み込んでいった。
「……ああ」
現実世界で、レオンの口から長く安堵した吐息が漏れた。
全身を覆っていた黒金の鱗が、少しずつ剥がれ落ちていく。
カーボンファイバー製の骨刃が、ゆっくりと背中へと収まった。
暴走していた重力場が轟音とともに消え去り、宙に巻き上げられていた雨水が、再び重力に従って地面へと叩きつけられる。
一方のヴィクトリアは、精神力を極限まで消耗していた。
顔色は紙のように白くなり、口元から一筋の血が流れ落ちる。
それでも、彼女の両腕はレオンの腰を固く抱きしめたままだった。
レースのアイマスクの下で瞳は閉じられ、呼吸はかすかに弱々しくなっていた。
「雪絵……」
レオンは、完全に理性を取り戻した。
腕の中にいる女を見下ろす。
今にも意識を失いそうな彼女の姿。
重力場によって切り裂かれた白いドレスの傷跡。
そして、口元に残る鮮血。
殺戮兵器として改造された彼の心臓に、突然、何か柔らかいものが激しくぶつかったような衝撃が走った。
――動揺した。
底層深淵で何人殺そうとも眉ひとつ動かさず、極道も雲上貴族も恐れさせるS級の暴君。
その男が、今はどうすればいいのかさえわからず、ただ狼狽えていた。
巨大な機械の爪が宙に浮いたまま、震えている。
彼女に触れたい。
だが、粗い金属の指も、まだ完全に引っ込んでいない鱗も、彼女の肌を傷つけてしまいそうで怖かった。
「俺……俺が、お前を傷つけた」
レオンの声は、恐ろしいほどかすれていた。
自分でも気づかないほどの震えが、その言葉に混じっている。
右半顔を覆う黒金の鱗の下で、異様なほどの熱が広がっていく。
まるで、顔全体が赤く染まってしまったかのように。
ヴィクトリアは、苦労しながらゆっくりと目を開いた。
もちろん、何も見えない。
それでも、盲眼心網を通じて、彼の感情を感じ取ることができた。
そこにあったのは、極限まで純粋な恋心。
不器用な戸惑い。
そして、何もかもを差し出すような、無条件の服従と愛慕だった。
「大丈夫よ」
ヴィクトリアは白い手を持ち上げた。
そして、レオンの冷たい機械の頬に、そっと触れる。
指先から漂う冷香と、彼の身体に染みついた血の臭いが、静かに交じり合った。
「よくやったわ、レオン。あなたは私を守ってくれた」
たったそれだけの言葉だった。
だが、その一言が、二メートルを超える巨獣の身体を硬直させた。
耳元に浮かんだ赤みは、瞬く間に首筋へと広がっていく。
レオンは勢いよく顔を伏せた。
まるで巨大な犬のように、ヴィクトリアの首元へ顔を埋める。
そして、彼女の冷たい香りを貪るように吸い込んだ。
「これからは……俺の命は、お前のものだ」
くぐもった声が、彼女の耳元で響く。
「誰がお前を傷つけようと、俺がそいつを引き裂いてやる」
ヴィクトリアは、もう限界だった。
精神力を使い果たした脳が、激しい眩暈を引き起こしている。
彼女はレオンの広い胸に身を預けた。
太鼓のように力強く打ち鳴らされる彼の心臓の音を聞きながら、ゆっくりと目を閉じる。
そして、そのまま深い眠りへと落ちていった。
腕の中の彼女が意識を失ったことに気づき、レオンは慌てて息を止めた。
彼は慎重に片膝をつき、ヴィクトリアを壊れ物のように抱きかかえる。
酸性雨は、まだ降り続いていた。
レオンは背中の巨大な機械の右腕をゆっくりと広げる。
同時に、破れた日式極道の羽織を大きく広げ、不器用ながらも完璧に、腕の中の女を雨風から守り抜いた。
雨夜の闇を、紅い義眼が鋭く睨みつける。
その姿は、神を守護する門番のようだった。
神に仇なす者を一切通さぬ、恐ろしい獣の姿だった。
「お前を泣かせる奴がいたら、俺がそいつを殺す」
低い誓いの言葉が、雨夜の中に響き渡る。
それは、この世界のあらゆる法則を踏み砕くほどの、揺るぎない決意だった。
そのとき。
ヴィクトリアの耳元に装着された小型通信機が、突然、激しい赤い光を放ち始めた。
『盲女! 姐さん! 大変だ!』
ジャックの声が飛び込んできた。
明らかに震えている。
まるで幽霊でも見たかのような、尋常ではない恐怖が滲んでいた。
『お、俺……たった今、蝮の脳機の中に残ってた最後の暗号化済み冗長コードを解読したんだ! あいつ、死ぬ直前に脳波で強制ロックをかけてやがった!』
レオンの義眼が、きゅっと縮んだ。
彼は声を低くして怒鳴る。
「言え!」
『お前の父親……お前の父親は、死んでなかったんだ!』
ジャックが唾を呑み込む音が、通信機越しに聞こえた。
電流の雑音が混じる声は、異様なほど不気味だった。
『コードによると、一族が皆殺しにされる直前、父親は自ら痛覚神経を切断した。そして、自分の意識をクラウド・メインフレームの最深部へアップロードしたんだ!』
レオンは黙って聞いていた。
ジャックの声が、さらに震える。
『あいつは……「AI神」の初代宿主になったんだ!』
雨音が、一瞬遠のいたように感じられた。
『それで……アレクサンダーが一族を抹殺しようとした理由は……』
ジャックの声が、突然途切れた。
代わりに、背筋を凍らせるような電子ノイズが通信機から溢れ出す。
「理由は何だ!?」
レオンが鋭く怒鳴った。
ノイズの向こうから、かすかな声が聞こえてきた。
機械によって合成された声。
だが、その声には、ヴィクトリアが誰よりもよく知る、あの穏やかな響きがあった。
父の声だった。
『それは……私の娘を生贄に捧げなければ、神は完全には降臨できないからだよ、雪絵』




