第05話 情報素の罠
「なら、一緒に地獄へ落ちましょう」
ヴィクトリアの声は、風に溶けるほどかすかだった。だが、その言葉には誰にも覆せない決意が宿っていた。
彼女は振り返り、無数の凄惨な傷痕に覆われたレオンの大きな手を引き寄せた。白く華奢な指先と、黒金に輝く生体義体の鱗。その対照的な姿は、目にした者の心を否応なく揺さぶる。
レオンの紅い義眼が、わずかに揺れた。
やがて喉仏が上下し、低くくぐもった笑いが漏れる。
彼はヴィクトリアの小さな身体を広い背中で包み込むように庇った。背部のカーボンファイバー製骨刃がゆっくりと展開し、底層深淵に降り注ぐ、絶え間ない酸性雨から彼女を守る。
「仰せのままに、お嬢様」
新バビロンの底層深淵に広がる闇市――「浮世絵」。
そこは、日式極道の暴力美学と、サイバーパンクの歪んだ生態系が融合した、まさに人間をすり潰す巨大な肉挽き機だった。
狭い路地の頭上では、巨大な錦鯉のホログラムが悠然と泳ぎ回り、幽かな青い光を地上へと降り注いでいる。
両側に吊るされた日本風の提灯は、ネオン管の光を明滅させていた。安物の機械油、合成アルコール、そして血の臭いが混じり合い、鼻を刺すような悪臭となって街を満たしている。
ヴィクトリアは、ヴィクトリア朝様式を現代風に改造したゴシックロングドレスに身を包んでいた。
歩くたび、長い裾がかすかに揺れる。その裏側には、高周波振動ブレードがいつでも起動できる状態で隠されていた。
両目を覆うのは、ヨーロッパ風のレースをあしらった戦術用アイマスク。
修羅場に迷い込んだ、今にも壊れてしまいそうな磁器の人形――傍目には、そうとしか見えないだろう。
だが、その嗅覚はすでに、この街に張り巡らされた複雑怪奇な臭いのネットワークを瞬時に捉えていた。
「着いたわ」
ヴィクトリアが足を止めたのは、「八岐」と書かれた地下酒場の前だった。
ここはヴィクター・黒川の配下が運営する、最も中核的な盗品換金・取引拠点である。
彼女はレオンに物陰での警戒を命じると、携帯していた銀色のアタッシュケースを開いた。
中から取り出したのは、繊細な細工が施された数本のガラス製試験管。その中には、淡い紫色の粘稠な液体が満たされていた。
三日間を費やして調合した特製情報素――「黄泉の道標」。
脳の辺縁系に直接作用し、神経衝動と遺伝子レベルの拒絶反応を増幅させる、極めて危険な代物だった。
酒場の中では、重装義体を全身に埋め込んだ極道の暴徒たちが、テーブルを囲んで賭博に興じていた。
その中心にいるのは、ヴィクターの副官。
「蝮」の異名を持つ改造人間だった。
顔の半分は機械義眼と金属製の顎に置き換えられ、左腕に刻まれたサイバー般若の刺青は、感情の起伏に応じて危険な赤い光を放っている。
「おやおや。目の見えねえお貴族様のお嬢ちゃんか?」
蝮は一目でヴィクトリアに目をつけた。
電子タバコの濃い煙を吐き出すと、数人の手下を引き連れて彼女を取り囲む。
その貪欲な視線が、白い肌とゴシックドレスの上を舐めるように這った。
「ここは底層深淵だぜ。雲上貴族のお嬢様が、ごっこ遊びをする場所じゃねえ。箱を置いていきな。そうすりゃ、死体くらいは綺麗なまま残してやるよ」
ヴィクトリアは一歩も退かなかった。
わずかに首を傾ける。レースのアイマスクに隠された顔は、月のように冷ややかだった。
「新しく調合した香水なの。『極楽』という名前よ。極限の快楽を、神経の末端まで直接届けてくれるわ」
彼女は薄く微笑んだ。
「あなたたちも、試してみたくない?」
言い終わると同時に、指先を軽く弾く。
一本のガラス試験管が優雅な弧を描き、蝮の足元へと落下した。
パリンッ!
ガラスが砕け散り、淡い紫色の霧が一瞬にして周囲へ広がった。
「舐めやがって!」
蝮は激昂し、腰のプラズマ拳銃に手を伸ばした。
だが、その動きが突然止まった。
ヴィクトリアの指先が、虚空をそっと撫でる。
【情報素操作】、発動。
紫色の霧はまるで生き物のように蠢き、暴徒たちの呼吸器や義体の放熱口から、次々と体内へ侵入していった。
「ぐっ……頭が……熱い……!」
機械腕を装着した暴徒の一人が、突然頭を抱えてうずくまった。
彼の義眼が狂ったように明滅する。
体内に埋め込まれた粗悪な遺伝子強化薬が、情報素によって急激に活性化したのだ。
男は勢いよく顔を上げ、隣にいた仲間を睨みつけた。
その瞳には、歪みきった殺意が浮かんでいた。
「てめえ……! 俺の抑制剤を盗みやがったな!」
「ふざけんな! 殺してやる!」
ドンッ!
銃声が響いた。
酒場は一瞬にして、地獄絵図へと変貌した。
情報素は暴徒たちの理性を徹底的に破壊し、潜在意識に潜んでいた猜疑心と狂暴性を限界まで増幅させていく。
高周波振動刀が肉を切り裂き、プラズマ弾が義体を溶かす。
悲鳴と肉が引き裂かれる音が絡み合い、残酷な交響曲となって酒場に響き渡った。
ヴィクトリアは、ただ静かにその場に立っていた。
淡紫色の霧は、彼女のドレスの裾を避けるように流れていく。
【盲眼心網】が、酒場にいる一人ひとりの心拍と熱源を正確に捉えていた。
彼女は情報素の濃度を微調整しながら、まるで指揮者のように、暴徒たちが互いに殺し合う狂宴を操っていた。
「このクソ女……! てめえの仕業か!」
重度改造された神経遮断システムのおかげで、蝮だけはかろうじて正気を保っていた。
彼は怒号を上げ、拳銃を引き抜くと、ヴィクトリアに銃口を向けた。
だが、引き金を引くことはできなかった。
闇の中から、鉄塔のように巨大な手が伸びてきた。
その手が蝮の拳銃の銃身を、容赦なく握り潰す。
高熱によって銃身が瞬時に溶解し、赤熱した鉄が地面へと滴り落ちた。
いつの間にか、レオンがヴィクトリアの前に立っていた。
その巨体が蝮の視界を完全に塞ぐ。
右半身を覆う黒金の生体義体の鱗が、ネオンの光を反射し、氷のように冷たい殺意を放っていた。
「うるせえ」
レオンの声は、地の底から響く雷鳴のようだった。
左の紅い義眼が、ひときわ強く輝く。
体内の【S級獣化遺伝子】が、瞬時に覚醒した。
レオンを中心に、空気が耳障りな爆発音を立てる。
【重力圧壊】、発動。
蝮の周囲だけ、局所重力が一瞬にして十倍に跳ね上がった。
自慢の重装義体が、金属の悲鳴を上げながら歪んでいく。
膝が床を砕き、蝮の巨体はそのまま地面に押しつけられた。
身動きひとつ取れない。
背中から静かに展開したカーボンファイバー製の骨刃が、蝮のうなじにぴたりと突きつけられた。
「掃除は終わりました、お嬢様」
レオンは骨刃を収め、振り返った。
ヴィクトリアを見つめるその瞳からは、先ほどまでの暴虐な光が瞬く間に消えていた。
彼は不器用な手つきで、汚れていない袖口を使って手を拭う。
自分の身に染みついた血の臭いが、彼女を不快にさせるのではないかと気にしているのだ。
「血は……飛んでいませんか?」
ヴィクトリアは小さく首を横に振った。
口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「よくやったわ、レオン」
その微笑みを見た瞬間、レオンの心臓が大きく跳ねた。
彼は照れくさそうに頭を掻く。
その耳の先が、ほんのりと赤く染まっていた。
* * *
三十分後。
闇市の裏手にある、袋小路。
蝮は血まみれの身体を、錆びついた配管に後ろ手で縛りつけられていた。
路地の入口には、レオンが仁王像のように立っている。
紅い義眼が周囲を警戒し、彼の放つ凄まじい威圧感に、近づこうとする生き物は誰もが足を止めていた。
ヴィクトリアは蝮の前まで歩み寄ると、袖の中から精巧な銀色のアロマボトルを取り出した。
「ヴィクター・黒川は、あなたたちを底層に送り込んで、いったい何を探させているの?」
声は柔らかい。
だが、その奥には魂の芯まで凍らせるような冷気が潜んでいた。
「けっ! 俺は極道の人間だ。死んでも総長を売るような真似は……」
蝮が虚勢を張ろうとした、その瞬間。
ヴィクトリアはアロマボトルの蓋を開けた。
無色無臭の気体が、ゆっくりと蝮の鼻腔へ流れ込む。
彼女が特別に調合した情報素――「真言」。
【盲眼心網】による感知と組み合わせることで、理性を迂回し、潜在意識そのものを直接尋問することができる。
「う、うああ……やめろ……来るな!」
蝮の瞳孔が一気に開いた。
彼には、何か途方もなく恐ろしいものが見えているらしい。
身体が激しく震え始める。
情報素の作用によって、脳内の恐怖が際限なく増幅されていく。
極道幹部としての誇りも、忠誠心も、あっという間に崩れ去った。
「言う! 全部話す! だから、もうやめてくれ!」
蝮は涙と鼻水を垂れ流し、みっともなく泣き叫んだ。
もはや、先ほどまでの威勢のよさは欠片も残っていない。
「総長が……総長が探させていたのは、ただのブツじゃねえ! 雪絵家が当時残した『AI神』のコアデータの断片だ!」
ヴィクトリアの指先が、ぴくりと動いた。
蝮は恐怖に震えながら、言葉を続ける。
「ヴィクター・黒川のあのイカれた野郎は、極道の利益のために動いてるんじゃねえんだ!」
ヴィクトリアの呼吸が、わずかに止まった。
レースのアイマスクの下に隠された瞳が、虚空の彼方を見据える。
「……続けなさい」
「お、おう! あいつは当時、雲上貴族の実験助手にすぎなかったんだ! 技術を盗み出して、底層に追放されたが……それでも、ずっと上層と繋がっていた!」
蝮は狂ったように首を縦に振った。
「雪絵家を抹殺する『粛清』の指令を出したのは、ヴィクターじゃねえ! 雲の上にいる大物だ!」
その言葉に、ヴィクトリアの心臓が強く脈打った。
蝮は震える唇を開いた。
「最高議長……アレクサンダー・神宮寺だ!」
酸性雨の音が、遠くで響いていた。
「雪絵家は、AI神の覚醒に関わる禁忌に触れちまったんだ! アレクサンダーは計画の欠陥を隠すために、ヴィクターを利用した……!」
真実が、冷たい刃となってヴィクトリアの胸を貫いた。
雲上貴族。
アレクサンダー・神宮寺。
彼女は、極道こそが一族を滅ぼした黒幕だと信じていた。
だが、違った。
本当の黒幕は、雲の頂に君臨し、人類の進化を声高に説く、あの議長だったのだ。
「……ほかには?」
ヴィクトリアは、胸の奥で渦巻く殺意を必死に押し殺した。
その声は、氷よりも冷たかった。
「父は……父は死ぬ前に、何を残したの?」
蝮が一瞬、言葉を失った。
その目が、急に焦点を失い始める。
彼は口を開きかけた。
まるで、何か恐ろしい秘密を思い出したかのように。
「お前の父親は……実は、まだ……」
言葉が途切れた。
次の瞬間、蝮の身体が激しく痙攣した。
両目が、眼窩から飛び出さんばかりに見開かれる。
直後、鼻腔と目尻から、二筋のどす黒い液体が噴き出した。
幽緑色の粘液。
高濃度の冥河-VII型神経毒素だった。
「下がれ!」
路地の入口にいたレオンの瞳孔が、瞬時に収縮した。
彼は地面を蹴り、ヴィクトリアへと飛び込む。
その小さな身体を抱き寄せ、自分の胸の中へと庇った。
蝮の喉から、ゴボゴボという不気味な音が漏れる。
体内に仕込まれたナノ神経毒素が、遠隔操作によって起爆されたのだ。
毒素は蝮の遺伝子鎖と内臓を、内側から猛烈な勢いで溶解していく。
皮膚が目に見える速度で崩れ、悪臭を放つ血の水たまりへと変わっていった。
命が尽きるまでの、ほんの数秒。
蝮は必死にヴィクトリアのほうを見つめていた。
顔面の筋肉はすでに溶け落ち、露出した金属製の顎だけが、かすかに開閉している。
最後に残された力を振り絞り、彼はヴィクトリアに向かって、はっきりと唇を動かした。
――お前の父親は……。
言葉が途絶えた。
蝮の頭部は完全に溶解し、血だまりの中に、破損した機械骨格だけが力なく崩れ落ちた。
酸性雨は、今も降り続いている。
底層深淵に渦巻く罪と秘密を、洗い流すこともなく。
ヴィクトリアは、レオンの腕の中に立ち尽くしていた。
白い指先が、彼の羽織を深く握りしめている。
雨音を聞きながら、彼女の脳裏では、蝮が死の間際に残した口の動きが、何度も何度も繰り返されていた。
――お前の父親は……。
父は、どうしたというの?
死んではいなかったのか。
それとも、まさか父こそが、この一連の事件の……。
ヴィクトリアはゆっくりと顔を上げた。
レースのアイマスクが向いた先には、成層圏の遥か上空に浮かぶ、雲上の荘園がぼんやりと見えていた。
ネオンの光と酸性雨が交錯する中、彼女の白く冷たい顔は、今にも神罰を下そうとする美しい復讐の女神そのものだった。
「レオン」
その声は、風に消えてしまいそうなほどかすかだった。
だが、その奥には世界を焼き尽くすほどの決意が燃えていた。
「はい」
「準備して。私たち、空へ行くわ」




