第04話 極道の残党、迫る殺意
「あなたの身体から漂う、その香り……」
セシリアの神経質な笑い声が、豪奢な大広間に不気味な余韻を残した。
「――あの死んだ女と、まったく同じよ」
彼女の背後では、破損した硬質光学翼が不安定な青い光を明滅させている。
「ジジ……」
今にも完全に機能停止しそうな、耳障りな電子音。
だが――
ヴィクトリアは動かなかった。
欧州風のレースをあしらった戦術用アイマスクに覆われた顔は、まるで水面のように静かだった。
白い唇の端には――
むしろ、かすかな憐れみすら浮かんでいる。
彼女は何も答えない。
ただ、指先でゴシックドレスの裾に施された暗い刺繍を、ほんの少し撫でた。
その瞬間だった。
「――ズンッ」
空気そのものが、落ちた。
大広間を押し潰すような、凄まじい威圧感。
レオンが、半歩前へ出た。
ただ、それだけだった。
だが――
彼の左目。
赤く輝く獣化義眼が、実体を持ったかのような殺気を放った。
「……」
黒金色のバイオニック・スケイルが、一枚、また一枚と逆立っていく。
空気中には、濃密なオゾンと血の臭いが広がった。
レオンを中心として、目には見えない重力場が歪む。
「ピシ……」
天井から吊り下げられた高価なクリスタル製シャンデリアが、耐えきれないように軋んだ。
「……パキッ」
小さな亀裂が走る。
セシリアの顔から、先ほどまでの冷笑が消えた。
生物としての本能が、理性より先に危険を察知したのだ。
「ひっ……」
膝から力が抜ける。
セシリアは、その場に崩れ落ちた。
硬質光で作られていたツインテールのホログラムも――
「シュッ……」
完全に消えた。
レオンは、彼女を見下ろした。
声は低かった。
まるで遠くで鳴る雷鳴のように重い。
「……あいつの香りを」
一歩。
「お前ごときが――」
もう一歩。
「値踏みするな」
それだけで、セシリアは息を呑んだ。
レオンは、それ以上彼女を見ることさえしなかった。
踵を返す。
そして、自分が羽織っていた古びた日本風の極道羽織を脱いだ。
大きな手で、それを丁寧に広げる。
そして――
ヴィクトリアの細い肩へ、そっと掛けた。
先ほどまで殺意を剥き出しにしていた男とは思えないほど、その動作は優しかった。
羽織は彼女の身体を包み込む。
周囲から向けられる好奇の視線も。
悪意に満ちた視線も。
その一枚が、すべて遮ってくれるようだった。
「帰ろう」
レオンの声から、殺気が消えていた。
低く、少し掠れている。
それでも――
どこか、幼い子どもを宥めるような響きがあった。
「……家に帰ろう」
ヴィクトリアは、ほんのわずかに頷いた。
レオンが差し出した腕にそっと手を添える。
二人は何事もなかったかのように、大広間を後にした。
残された貴族たちは――
ただ、二人の背中を見送ることしかできなかった。
◆
深夜。
雲上荘園――私設温室・調香室。
ここには、下層の街を彩る刺々しいネオンの光はない。
代わりに、ホログラムで再現された淡い青色の月光が、静かに室内を照らしていた。
大理石と炭素繊維を組み合わせた床。
透明な培養槽。
壁一面に並んだ香料瓶。
古典的な調香師の工房と、最先端の研究施設。
その二つが融合した、ヴィクトリアだけの空間だった。
室内には、彼女自身から漂う冷たい香りが残っている。
そこへレオンが近づくと――
かすかなモミの木の香りが重なった。
不思議なことに、その二つの香りはよく馴染んだ。
張り詰めていた神経を、ゆっくりと解きほぐしていく。
ヴィクトリアは、天鵞絨張りの背もたれの高い椅子に腰掛けていた。
細く長い指が、一本のスポイトを弄んでいる。
そのすぐ隣では――
レオンが静かにしゃがんでいた。
二メートル近い巨体。
分厚い肩。
無数の縫合痕。
見る者を威圧するはずの身体。
だが今の彼は、まるで忠実な大型の番犬だった。
できるだけ身体を小さく見せようとしている。
自分の粗暴な輪郭や傷だらけの身体が、この古典的で静かな空間を壊してしまわないように。
「レオン」
突然、ヴィクトリアが口を開いた。
静かな夜の中で、その冷たい声がよく響く。
「今夜の晩餐会は――」
一拍。
「ただの始まりよ」
レオンは迷わなかった。
「お前を不快にさせる奴がいるなら――」
赤い獣化義眼が暗闇の中で光る。
「俺がそいつを引き裂く」
「……」
ヴィクトリアは、思わず小さく笑った。
だが――
その直後だった。
彼女の脳の奥深くにある「盲眼心網」が――
激しく波打った。
「……?」
警報はない。
電子的な侵入痕跡もない。
それなのに。
熱画像。
音波探知。
周囲の微細な空気振動。
それらすべてが――
異常を捉えていた。
三つ。
巨大な高熱源。
しかも――
あり得ない速度で接近している。
ヴィクトリアの「盲眼心網」が、三つの熱源を正確に追跡する。
成層圏の外壁。
そこから――
垂直落下。
重力に従うだけなら説明のつかない速度で、三つの物体が温室へ向かって一直線に落下している。
「……」
ヴィクトリアの表情から、わずかな笑みが消えた。
「頭を下げて」
声に動揺はなかった。
その直後――
「ドォォォンッ!」
温室の防弾・一方向ガラスで造られた巨大なドーム天井が――
爆発した。
無数のガラス片が、まるで猛烈な雨のように降り注ぐ。
「――!」
しかし。
ヴィクトリアの頭上、わずか数十センチ。
そこでガラス片が――
見えない壁にぶつかったように弾かれた。
重力障壁。
レオンだった。
三つの巨大な黒い影が、室内へ叩き込まれる。
「ドンッ!」
床が震える。
粉塵が舞い上がる。
先頭に立っていた男は――
身長二メートル半を超えていた。
全身を重厚な日本式極道用重装甲が覆っている。
左腕は異様なほど大型の機械義手。
そして、その手の甲には――
般若の面。
しかも普通の刺青ではない。
感情に応じて色を変える、サイバー般若だった。
室内へ流れ込んできた油臭。
粗悪な合成タバコの臭い。
それらが、温室を満たしていたヴィクトリアの冷たい香りを一瞬で塗り潰した。
「雲上貴族に飼われてる――」
男の声が響く。
ボイスチェンジャーを通しているため、金属を擦り合わせたような粗い音になっていた。
「盲目のカナリアか?」
男は笑う。
「ヴィクター総長がお前の命を一つ、借りたいそうだ」
言い終わるより早く。
男の左腕が変形した。
「ガチャガチャガチャッ!」
機械義手が展開する。
六連装の小型電磁砲。
青白い光が銃口に集まり始めた。
「……充填完了」
無数の砲口が、ヴィクトリアへ向く。
「死ね!」
その瞬間。
「……死にたいらしいな」
それまで床にしゃがんでいたレオンが――
ゆっくりと立ち上がった。
頭をわずかに下げている。
乱れた前髪が、その顔の大半を隠していた。
だが。
彼の周囲に漂うものだけは――
隠しようがない。
S級実験体。
その存在そのものが放つ、圧倒的な威圧感。
温室全体の空気が、一瞬で凍りついた。
「轟ッ!」
電磁砲が一斉に火を噴いた。
装甲車すら撃ち抜く威力の弾幕が、ヴィクトリアへ殺到する。
だが――
レオンは避けなかった。
ただ右手をゆっくりと上げる。
五本の指を開く。
そして――
三人の刺客へ手のひらを向けた。
「――重力圧壊」
低い声。
その瞬間。
レオンの掌を中心に――
空間そのものが歪んだ。
まるで目に見えない巨大な手が、世界そのものを握り潰したかのように。
「……なっ――」
先頭の刺客が声を上げた。
だが、その声は最後まで続かなかった。
「ギギギギ……」
重装甲が軋む。
「な……なんだ、これは……!」
男の誇る重装甲は、対装甲弾さえ防ぐ合金製だった。
それが――
紙細工のように内側へ押し潰されていく。
「ミシッ」
「グシャッ!」
装甲が歪む。
骨が砕ける。
機械義手がひしゃげる。
そして――
「ドンッ!」
巨大な装甲兵が、一瞬で圧縮された。
二メートルを超えていた巨体は――
わずか五十センチにも満たない鉄屑の塊へと変わっていた。
金属の隙間から、暗赤色の血液がじわじわと滲み出る。
残る二人の刺客は――
目を見開いた。
「……化け物……」
後退しようとする。
だが――
遅い。
重力場は、すでに二人の足元を完全に封じていた。
「逃げられると思うか?」
レオンの赤い獣化義眼が――
獰猛に光った。
次の瞬間。
「バンッ!」
大理石の床が蜘蛛の巣状にひび割れた。
レオンの巨体が――
黒い稲妻と化す。
一瞬で敵陣へ飛び込んだ。
「――ガキンッ!」
背中から炭素繊維の骨刃が飛び出す。
「ヒュンッ!」
一閃。
一人の重装甲が――
頭から足元まで、滑らかに二つへ切り裂かれた。
切断面から高熱が走る。
内部の神経接続は、一瞬で焼き切れた。
「……!」
最後の一人が、義体の超過駆動を起動しようとする。
だが――
もう目の前にレオンがいた。
大きな手が、正確に機械化された頭部を掴む。
「……やめ――」
「ギシィ……」
金属が歪む。
レオンの五本の指に力が込められる。
「ギャリッ!」
「バキィッ!」
頑丈なはずの機械頭部が――
握り潰された。
レオンは、何の感慨もなくその残骸を放り捨てた。
まるで――
不要なゴミを捨てるように。
すべてが終わるまで――
十秒にも満たなかった。
下層深淵で血の雨を降らせることができる極道の精鋭三人。
その誰一人として――
レオンの衣服に触れることすらできなかった。
残されたのは、温室の床に散らばる残骸だけ。
レオンは、その中央に立っていた。
胸がわずかに上下している。
「……フゥ……」
深く息を吸う。
体内では、獣化遺伝子がまだ激しく暴れていた。
痛み。
殺戮衝動。
そのすべてを、レオンは無理やり押さえ込む。
背中の骨刃を慎重に収納する。
そして――
自分の身体を確認した。
血は――
付いていない。
一滴も。
それを確認してから、ようやくヴィクトリアのもとへ歩いていった。
月明かりを遮るほど大きな身体が、彼女の前に立つ。
赤い獣化義眼から、凶暴な光が消えていく。
代わりに浮かんだのは――
わずかな不安。
そして、戸惑い。
「……怖くなかったか?」
声は、驚くほど小さかった。
まるで彼女を驚かせることを恐れているようだった。
だが――
ヴィクトリアは答えなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
ゴシックドレスの裾が、床に散らばった金属片を撫でる。
そして、ほんの少し顔を横へ向けた。
「盲眼心網」が、周囲を走査していく。
圧壊された刺客の残骸。
その内部。
「……」
ヴィクトリアの動きが止まった。
彼女はしゃがみ込む。
白く細い指先を、ひしゃげた装甲の隙間へ差し込んだ。
油。
血。
焼け焦げた金属。
鼻を刺すような臭いが充満している。
その中に――
ほんのわずかな異臭。
だが。
ヴィクトリアには分かった。
苦い杏仁。
それに混ざる――
高濃度オゾンの刺激臭。
「……」
指先が、何か硬いものに触れた。
冷たい金属。
ヴィクトリアはそれを取り出した。
暗紫色の薬莢。
表面には、極道特有の般若の花紋が刻まれている。
しかし――
その内部には、まだわずかに残っていた。
幽かな緑色。
粘つく液体。
ヴィクトリアの声が、静かに響く。
「冥河――VII型」
ほんの一瞬、間を置く。
「……神経毒弾」
その声には――
凍りつくような冷たさがあった。
知っている。
この薬莢を。
この毒を。
かつて――
雪絵家が滅ぼされた夜。
あのとき、顔を隠した暗殺者たちが使っていた特殊兵器。
この毒は、標的の遺伝子鎖を瞬時に溶解させる。
生きたまま身体を内側から崩壊させ――
最後には、極度の苦痛の中で血液のような液体へ変えてしまう。
ヴィクトリアは、ずっとそう思っていた。
あの毒は――
雲上貴族たちが、禁断の実験の痕跡を消すために作ったものだと。
だが。
違った。
薬莢に刻まれているのは――
下層極道の紋章。
「……」
ヴィクトリアの指先が、かすかに震え始めた。
恐怖ではない。
怒りだった。
憎しみだった。
三年間。
いや――
家族を奪われたあの日から、胸の奥へ押し込め続けてきたもの。
その憎悪が――
今、ようやく出口を見つけた。
雲上貴族と。
ネオン極道。
あの夜――
二つの勢力は、手を組んでいた。
そして――
雪絵家を、この世から消した。
「……そういうことだったのね」
その瞬間。
ヴィクトリアの手の甲に――
大きな手がそっと重なった。
ごつごつしている。
硬い。
無数の古傷と縫合痕が残っている。
それでも、その手は驚くほど優しかった。
レオンが、彼女の前で片膝をついている。
赤い獣化義眼には――
心配そうな光が浮かんでいた。
彼は薬莢について尋ねなかった。
それが何なのかも聞かなかった。
ただ――
親指でヴィクトリアの冷たい手の甲を、ゆっくりと撫でる。
ぎこちない。
不器用。
それでも――
彼なりに、温もりを伝えようとしているのが分かった。
「……仇を討ちたいのか?」
レオンの声は低かった。
だが、迷いはない。
「名前を言え」
彼女の手を握る。
「そいつの首を――」
赤い獣化義眼が鋭く光る。
「俺が捻り取って、お前の灰皿にしてやる」
ヴィクトリアは――
一瞬、黙っていた。
やがて。
彼の指を、そっと握り返す。
殺戮兵器のような身体。
その奥から伝わってくる、焼けるように熱い体温。
それを感じながら――
ゆっくりと立ち上がった。
そして、手にしていた薬莢を袖の中へしまう。
月光を浴びた彼女の白い顔は――
美しい。
そして――
冷たい。
まるで、復讐の女神そのものだった。
「いいえ」
声は静かだった。
静かすぎるほどに。
「私が行く」
「私自身の手で――」
一拍。
「ヴィクター・黒川を追う」
レオンの獣化義眼が、わずかに細くなる。
「彼は下層深淵に潜んでいる」
ヴィクトリアは続けた。
「そこは極道の領域よ」
「雲上貴族の手は、簡単には届かない」
「だからこそ――」
彼女の白い指が、袖の中の薬莢を握りしめる。
「私は、あいつの巣を直接ひっくり返す」
「そして――」
「すべての真実を吐かせる」
レオンが、勢いよく顔を上げた。
「……」
その目に映るヴィクトリアは、いつものような弱々しい盲目の少女ではなかった。
見た目だけなら、小さな身体。
細い肩。
白い肌。
けれど――
その身体の奥には、炎が燃えている。
一度燃え始めれば――
新バビロンそのものを焼き尽くしかねないほどの、業火が。
レオンには分かっていた。
下層深淵がどんな場所なのか。
そこは貴族が遊び半分で踏み込める場所ではない。
極道。
変異獣。
闇市場の商人。
密輸業者。
違法改造屋。
そして、法も秩序も存在しない無数の人間たち。
それらすべてが絡み合い、互いを食い潰しながら生きている――
本物の地獄。
人間を肉塊に変える、巨大な食肉機械。
レオンは、ゆっくりと立ち上がった。
その巨体が生み出す影が、ヴィクトリアの身体をすっぽりと覆う。
彼は歯を食いしばった。
赤い瞳の奥に――
迷いが浮かぶ。
そして。
それを押し殺すように、決意が宿った。
「……下層は」
声が低くなる。
「貴族のお嬢様が遊びに行くような場所じゃない」
ヴィクトリアは黙っている。
レオンは、彼女を見つめた。
「一度降りたら――」
ほんのわずかに声が震える。
「二度と戻ってこられないかもしれない」
その言葉だけが、深夜の温室に静かに落ちた。




