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第03話 雲上の晩餐会に咲く迷夢

レオンは、血の付着した薔薇のチップを、拳の中で強く握りしめた。


そして次の瞬間――


それを自らの右胸へ押し当てる。


皮膚の下に隠されていた収納スペースが開いた。


「……ッ」


かすかな肉が裂ける音。


続いて――


「カチッ」


小さな金属音が響いた。


薔薇のチップは完全に、レオンの頑丈なバイオニック・スケイルの内部へ封じ込められた。


激しく打ち鳴らされる彼の心臓の鼓動は、ヴィクトリアの「盲眼心網」にまるで大太鼓のように伝わっている。


だが――


彼女は何も言わなかった。


ただ、ほんの少し顔を横へ向ける。


紙のように白い頬に、冷ややかな笑みが浮かんだ。


彼女は気づいていた。


それでも、あえて追及しない。


ヴィクトリアは、ゆっくりとヴィクトリア朝ゴシックドレスの裾を持ち上げた。


その声は、下層深淵を叩く酸性雨さえ溶かしてしまいそうなほど柔らかかった。


「行きましょう、レオン」


「成層圏の晩餐会が――」


「もうすぐ始まるわ」


反重力エレベーターが上昇を始める。


重厚な扉の向こうで、階層が次々と切り替わっていく。


地底の闇。


薄暗い工業区画。


そして――


分厚い放射線雲を突き抜ける。


エレベーターは、地上から遥か離れた成層圏へ向かって上昇していった。


足元には、一年を通して陽の光を見ることのない、ネオンに彩られた極道の深淵が小さくなっていく。


やがて――


「チン……」


静かな電子音とともに、エレベーターの扉が開いた。


瞬間。


眩しい太陽の光が差し込んできた。


それと同時に――


あまりにも豪奢な、古典的な空気が押し寄せる。


ここは――


成層圏に浮かぶ「エデン園」。


雲上貴族たちが支配する、この世界の権力中枢だった。


巨大なドーム状の天井には、ホログラムで投影された無数の星々が輝いている。


その下には、現実の成層圏を流れる雲海が広がっていた。


本物の雲海と、人工的に作り出された星空。


現実と仮想。


古代から続く貴族文化と、最先端のサイバー技術。


それらが、まるで異形の生物のように融合している。


広大な大広間では、純白の燕尾服をまとった男たちと、幾重にもレースを重ねたドレスを着た女たちが、優雅にグラスを掲げていた。


高い脚のグラスの中で揺れているのは――


ワインではない。


遺伝子レベルまで精製された、淡い青色の合成血液だった。


優雅。


華麗。


そして――


冷たい。


古典的な上流階級の美意識と、サイバー社会の無機質な冷酷さ。


それらが、この場所では異様なほど自然に混ざり合っていた。


ヴィクトリアは、この晩餐会に「首席調香師」として姿を現した。


銀白色の長い髪は滝のように背中へ流れている。


目元には、欧州風の精巧なレースが施された戦術用アイマスク。


肌は、光が透けてしまいそうなほど白い。


そして、何層にも重なったゴシックドレスの裾の下には――


高周波振動刃が仕込まれている。


そのかすかな駆動音は、ドレスの布地によって完全に隠されていた。


ヴィクトリアは、まるで壊れやすい陶器の人形だった。


片手には、先端に盲人用の探知端末を仕込んだ銀色の杖。


一歩。


また一歩。


彼女が歩くたびに、周囲の貴族たちが視線を向ける。


値踏みするような視線。


そして――


欲望の入り混じった視線。


「おや?」


甘ったるい声が、ホールに流れていた古典音楽を遮った。


「これはこれは……」


「目の見えない雪絵家の生き残りじゃないかしら?」


人混みの中から、一人の少女が歩いてくる。


セシリア・九条。


彼女は、まるで着飾った毒蜘蛛のようだった。


ロリータ風のサイバーパンクドレス。


ツインテールには青いホログラムが明滅している。


そして背中には――


六枚の「天使の翼」。


硬質光学素材によって形成された機械翼が、まるで本物の天使の翼であるかのように大きく広がっていた。


その動きには、隠そうともしない傲慢さがある。


セシリアは、アレクサンダーの熱狂的な信奉者だった。


そして今夜の晩餐会を取り仕切る女主人の一人でもある。


彼女はヴィクトリアの目の前まで歩み寄った。


そして、まるで取るに足らない存在でも見るように、盲目の少女を見下ろす。


真っ赤な唇が、病的なほど甘く歪んだ。


「あなた、自分で両目を潰したんですって?」


「本当に可哀想」


その声音には、同情など一欠片もない。


「でもね」


セシリアは笑った。


「この雲上では――」


「目なんて必要ないのよ」


「必要なのは――」


「服従することだけ」


その言葉が終わるより早く。


セシリアの首の後ろにある神経インターフェースが――


「……ピッ」


不気味な緑色の光を放った。


次の瞬間。


無色透明。


無臭。


肉眼では決して捉えられない、高濃度の情報素が、セシリアを中心に一気に広がった。


その名は――


「狂乱」。


それは、雲上貴族たちが下層の人間をいたぶるために使う、下劣な手段だった。


吸い込んだ者は、瞬時に神経系を破壊される。


極度の恐怖。


錯乱。


狂気。


そして――


人前で失禁し、泣き叫び、醜態を晒す。


貴族たちは、それを見て笑う。


それが彼らにとっての「娯楽」だった。


周囲の貴族たちは、すぐさま後ろへ下がった。


顔には、残酷な笑み。


これから目の前の「盲目の美女」が壊れていく様子を、見物するつもりなのだ。


だが――


ヴィクトリアは、ほんの少し眉を寄せただけだった。


彼女の「盲眼心網」には、「狂乱」の情報素分子が空気中をどのように移動しているのか、その軌跡まで鮮明に捉えられている。


何一つ見逃してはいない。


混乱するどころか。


ヴィクトリアは心の中で、冷たく鼻で笑った。


「九条さん」


声は相変わらず穏やかだった。


わずかに震えている。


今にも泣き出しそうな、弱々しい少女の声。


「あなたの体香――」


ヴィクトリアは少しだけ首を傾げる。


「少し刺激が強いようですね」


そう言いながら、手にしていたバッグへ手を入れた。


そして、一本の透明な水晶試験管を取り出す。


「これは――」


栓を抜く。


「私が特別に調合した『迷夢』です」


ヴィクトリアは微笑んだ。


「少し、リラックスしていただけると思います」


その瞬間。


試験管の口から――


極限まで淡く、冷たい香りが漂い始めた。


それは普通の香水ではない。


雪絵家に秘匿されていた、最高機密の調香技術。


その技術を使って作り出された――


神経逆転剤だった。


「迷夢」の分子は、精密な外科用メスのように、「狂乱」の情報素へ瞬時に侵入する。


そして――


次の瞬間。


空気中で、化学反応が一気に弾けた。


「――っ!?」


セシリアの顔から、得意げな笑みが消えた。


「な……」


目が大きく見開かれる。


瞳孔が激しく収縮する。


彼女の視界が――


一瞬で変わった。


ついさっきまで、上品な燕尾服や豪華なドレスに身を包んでいた貴族たちが。


そこにはもう、人間の姿はなかった。


醜く歪んだ顔。


血走った目。


異形の身体。


まるで怪物の群れだった。


「いや……」


セシリアが震える。


そして――


自分の背後へ意識を向けた。


自慢の六枚の機械翼。


それが――


「……ジュウウウッ」


溶けている。


まるで熱で焼けたプラスチックのように、翼の表面がどろりと崩れ落ちていく。


その痛みは、翼だけではない。


脳機械インターフェースを通じて、神経そのものへ伝わってくる。


「いやああああっ!」


「やめて!」


「お父様!」


「アレクサンダー議長!」


「助けてえええっ!」


セシリアが絶叫した。


両手で自分の顔を狂ったように掻きむしる。


爪が頬を裂く。


白い肌に赤い線が走る。


そして――


鮮血が流れ始めた。


「いや……いや……!」


背中の硬質光翼も、脳機械インターフェースの過負荷によって激しく明滅する。


「バチッ!」


「バチバチッ!」


閃光。


火花。


そして小さな爆発。


セシリアは、まるで油の煮えたぎる鍋に放り込まれた生き物のように、ホール中央で転げ回った。


「助けて!」


「誰か……!」


先ほどまで人々を見下していた貴族令嬢。


その姿は今や――


完全に狂った人間そのものだった。


大広間が――


静まり返った。


誰も口を開かない。


誰も彼女に近づこうとしない。


ただ、恐怖と嫌悪の入り混じった視線を向けている。


やがて。


「……汚い」


「近づかないほうがいい」


「一体、何をしたの……?」


貴族たちは互いに顔を見合わせながら、セシリアから距離を取っていった。


ヴィクトリアは何事もなかったかのように、水晶試験管の栓を閉じた。


そしてバッグへ戻す。


レースのアイマスクの下で――


その唇が、ほんのわずかに笑った。


ヴィクトリアは首を傾げる。


声はあくまで優しい。


「九条さん」


「どうやら、あなたの遺伝子拒絶反応が悪化しているようですね」


「よろしければ――」


「もう一度、安らぎの香りを調合しましょうか?」


その瞬間。


誰もが理解した。


これが――


完璧な逆転だった。


声を荒らげることもない。


怒鳴ることもない。


自分から手を出すことすらない。


ただ一つ、香りを放っただけ。


それだけで、相手は自ら崩れ落ちた。


静かな圧倒。


声なき復讐。


そして――


完璧な屈辱。


貴族たちが「迷夢」の余韻に怯えながら、セシリアを遠巻きに眺め、陰でひそひそと囁き始めた、そのときだった。


大広間の天井。


その奥に設けられた換気ダクトの中で――


三つの黒い影が、音もなく滑り落ちてきた。


彼らは、セシリアが飼っている「猟犬」。


極道仕様の重装義体を身体へ埋め込んだ三人の暗殺者だった。


任務は一つ。


この混乱に乗じて――


ヴィクトリアの喉を切り裂くこと。


だが。


彼らは知らなかった。


自分たちが――


誰の領域へ踏み込んだのかを。


ヴィクトリアの背後。


わずか三歩ほど離れた場所にある暗がり。


そこに――


レオン・龍馬が立っていた。


赤く輝く獣化義眼が、すでに三人の存在を捉えている。


古びた日本風の羽織を肩にかけた巨体。


その姿は、黙したまま死を司る神――


死神そのものだった。


警告はない。


言葉もない。


「――ガキンッ!」


レオンの右腕。


バイオニック・スケイルが一斉に逆立った。


「重力圧壊――!」


発動。


瞬間。


三人の暗殺者の頭上へ、見えない巨大な重力が叩き落とされた。


「ぐっ――!?」


「な、なんだ……!」


三人は、まだ影から飛び出すことすらできていなかった。


まるで山そのものが頭上から落ちてきたような圧力。


強烈な局所重力場が、三人の身体を天井へ叩きつける。


「――ドンッ!」


三人の身体が天井に貼りつく。


「ぐあああっ!」


骨が耐えきれずに軋む。


「ミシッ」


「バキッ」


次々と骨が砕ける音が響いた。


そして――


レオンの背中から、炭素繊維製の骨刃が静かにせり出した。


「……シュッ」


古典的なクリスタル製シャンデリアを通り抜けた光が、骨刃を照らす。


銀色の光が――


三本の美しい弧を描いた。


「――ヒュッ!」


一閃。


次の瞬間。


三つの頭部が、音もなく落ちていく。


だが――


血は飛び散らなかった。


レオンは刃を振るった瞬間、重力場を精密に操作していた。


切断された傷口から流れ出ようとする血液を、すべてその場に押し留めていたのだ。


血液は傷口の周囲に圧縮され――


一滴たりとも外へ飛び散らない。


三つの頭部が、床へ転がった。


そして遺体は――


さらに強い重力によって押し潰され、原形を失っていく。


肉も。


骨も。


義体も。


すべてが圧壊していく。


やがてレオンは羽織の裾を使い、残骸をまとめる。


そして――


誰にも気づかれないよう、より深い影の中へ引きずり込んだ。


すべての処理が終わるまで――


わずか三秒。


あまりにも速い。


あまりにも正確。


そして――


あまりにも残酷だった。


だが同時に、極限まで抑制されていた。


ヴィクトリアの真っ白なゴシックドレスには――


血の一滴すら付いていない。


処理を終えると、レオンは暗闇から姿を現した。


全身から漂っていた凶暴な殺気を、意識的に抑え込む。


背中の骨刃も身体の中へ収納する。


そしてヴィクトリアのそばまで来ると――


少しだけ立ち止まった。


風下へ回る。


自分の身体に残っている火薬の臭いや血の臭いが、彼女を不快にさせないように。


まるで――


主人に褒めてもらうのを待っている大型の猛獣のように。


レオンは少しだけ頭を下げた。


「……汚いものがあった」


低く、掠れた声。


「片づけた」


ヴィクトリアには見えない。


だが――


彼女の「盲眼心網」は、先ほどの一部始終をすべて捉えていた。


レオンが三人をどう殺したのか。


そのすべてを。


しかし。


ヴィクトリアは怖がらなかった。


むしろ――


一歩、前へ出た。


自分から二人の距離を縮める。


そして、ほんの少し顔を上げた。


鼻先がかすかに動く。


「……」


彼女は、レオンの身体から漂う香りを感じ取った。


その白く冷たい顔に――


ごく淡い。


けれど、とても美しい笑みが咲く。


「レオン」


「あなた――」


「モミの木の香りがするわ」


そして、静かに続ける。


「……とてもいい香り」


レオンの身体が――


完全に固まった。


「……」


赤い獣化義眼が大きく見開かれる。


その傷跡と縫合痕だらけの頬に――


信じられないことが起きた。


ほんのりと赤みが差した。


レオン自身、それを自覚しているのかいないのか。


慌てたように顔をそむける。


「……」


喉仏が一度、大きく上下した。


そして、低い声で呟く。


「……お前のドレスを汚してないなら、それでいい」


あまりにも不器用な言葉だった。


先ほどまで三人の暗殺者を一瞬で葬り去った怪物と――


今、目の前で照れながら顔をそむけている男。


その落差は、あまりにも大きかった。


ヴィクトリアの胸の奥にあった、何年もの間、張り詰め続けていた「復讐」という名の糸が――


ほんの一瞬。


誰かにそっと弾かれたように震えた。


彼女自身にも、その感情が何なのか分からない。


だが――


確かに、何かが揺らいだ。


そのときだった。


「――バチィィンッ!」


大広間の中央から、激しい電子爆音が響き渡った。


ヴィクトリアもレオンも、そちらへ意識を向ける。


セシリアだった。


彼女の脳機械インターフェースが、ついに強制再起動を完了したのだ。


「……ハァッ……!」


「ハァ……ハァ……!」


セシリアは激しく息を切らしている。


全身が汗で濡れていた。


精巧な人形のようだった顔は、今や爪で引っ掻いた傷だらけ。


頬には血がこびりついている。


ツインテールに投影されていた青いホログラムも、今では弱々しい光を残すだけだった。


「……何……が……」


セシリアは周囲を見回す。


その目に最初に浮かんだのは――


困惑。


そして次の瞬間。


その困惑は――


憎悪へ変わった。


恐怖へ変わった。


彼女の視線が、ゆっくりと動く。


そして――


陰影の境界に立つヴィクトリアを捉えた。


「……あなた……」


胸が激しく上下する。


「……あなたのせい……」


突然。


セシリアの表情が変わった。


まるで、幻覚の中で何か恐ろしいものを思い出したかのように。


身体が神経質に震え始める。


唇が引きつる。


そして――


泣いているようにも。


笑っているようにも見える。


異様な笑みが浮かんだ。


彼女はヴィクトリアを睨みつけた。


周囲の誰にも聞こえないほど小さな声。


二人だけに届く声で――


歯の隙間から、呪いのような言葉を吐き出した。


「あなたの身体から漂う……その香り……」


一拍。


「……あの死んだ女と――」


「まったく同じよ」


ヴィクトリアの指先が――


ほんのわずかに止まった。


そして。


その隣に立つレオン。


彼の胸の奥――


バイオニック・スケイルの内部に封じられていた「薔薇のチップ」が。


まるで何かを感じ取ったかのように――


突然、熱を帯び始めた。


「……」


熱い。


異常なほど熱い。


そしてその熱は――


二人だけが知らない、過去の秘密が動き始めたことを告げていた。


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