第02話 危険な契約
レオンの呼吸は、壊れかけた古いふいごのようだった。
「――ゼェ……ゼェ……」
荒く、熱い息が喉の奥から漏れる。
身長二メートルにも達する巨体は、今やわずかに前かがみになっていた。
右半分の顔を覆う黒金色のバイオニック・スケイル。
その鱗の隙間から、心臓を鷲掴みにされるような紫紅色の光が、かすかに漏れ出している。
――S級獣化遺伝子の拒絶反応が、完全に暴走し始めた証拠だった。
「……ぐっ……」
レオンの喉から、押し殺したような低い唸り声が漏れる。
左目の赤い獣化義眼が、制御不能なほど激しく明滅していた。
背中の皮膚の下では、鋭利な炭素繊維製の骨刃が浮き上がったり沈んだりを繰り返している。
そのたびに、古びた和装の羽織が内側から切り裂かれ、裂け目から黒い布地が覗いていた。
レオンは突然、身体を翻した。
そして巨大な手のひらで、自分の顔を力いっぱい覆い隠す。
まるで――
今にも檻を破って飛び出そうとしている「獣」を、自分自身の手で押さえ込み、再び心の奥底へ封じ込めようとしているかのようだった。
「……近づくな……」
声はひどく掠れていた。
その響きには、死に瀕した獣が発するような、苦しげな哀鳴さえ混じっている。
「俺は……お前を……殺す……」
ヴィクトリアは退かなかった。
彼女はただ静かに、その場に立っていた。
銀白色の長い髪が、下層深淵の湿った風に揺れている。
視力を失った彼女には、普通の人間のような視界はない。
だが――
「盲眼心網」は、むしろ暗闇の中でこそ真価を発揮する。
ヴィクトリアには、レオンの体内を駆け巡る異常なエネルギーの流れが、はっきりと「見えて」いた。
まるで巨大な河川が堤防を破壊し、濁流となって身体の中を暴れ回っているかのようだった。
「自分自身すら制御できないあなたが――」
ヴィクトリアは一歩、前へ進んだ。
「どうやって私を守るの?」
冷たく澄んだ声だった。
それは凍った泉から流れ落ちる水のように静かで、けれど不思議なほどレオンの耳へ鮮明に届いた。
ヴィクトリアはゴシックドレスの隠しポケットへ手を入れる。
そこから取り出したのは、幽かな青い光を放つ小さな水晶製の試験管だった。
彼女は栓を抜く。
中には、わずかに粘り気のある液体が入っていた。
その液体を自分の白い指先へ少量塗りつける。
そして――
ためらうことなく手を伸ばした。
レオンが顔を覆っている巨大な手の甲へ、ヴィクトリアの指先がそっと重なる。
「手をどけて、レオン」
その指先から伝わってきた温度に――
レオンの全身が、ビクリと震えた。
「……っ」
無意識に力が抜ける。
巨大な手が、ゆっくりと顔から離れた。
その瞬間には、ヴィクトリアの少し冷たい指先が、すでにレオンの焼けるように熱い鱗へ触れていた。
ふわり。
奇妙な冷たい香りが、一瞬にして周囲へ広がった。
それは普通の香水ではない。
雪絵家に伝わっていたものの、すでに失われた遺伝子学の秘伝。
ヴィクトリアはそれを、下層の闇市場から手に入れた粗悪ともいえる素材と組み合わせ、独自に調合していた。
――「神経鎮静情報素」。
冷たい香りが鱗の隙間から皮下へ染み込んでいく。
そして、暴走していた神経回路へ正確に入り込み、遺伝子拒絶反応を引き起こしていた神経伝達を一つずつ遮断していった。
レオンの赤い獣化義眼から、徐々に殺気が消えていく。
背中の皮膚の下で暴れていた骨刃も、ゆっくりと身体の内部へ戻っていった。
「……はぁ……」
力を使い果たしたように、レオンはその場で片膝をついた。
「ゼェ……ゼェ……」
大きく肩を上下させながら、荒い呼吸を繰り返す。
冷たい汗が、黒いスーツをすっかり濡らしていた。
やがて彼は顔を上げた。
そして、自分の胸元ほどの身長しかない少女を見上げる。
この弱肉強食の新バビロンで――
誰も、彼を見下ろすことなどできなかった。
それどころか。
誰も彼に近づこうとすらしなかった。
なのに今。
この盲目の少女だけが、まるで何事もなかったかのように彼の前に立っている。
「お前……何をした?」
レオンの声は、いつもの低い声に戻っていた。
だが、そこから殺意は薄れている。
その代わり――
本人すらまだ自覚していない、かすかな「頼りたさ」が混じっていた。
ヴィクトリアは手を離した。
「ちょっとした小細工です」
彼女は指先をドレスの裾で軽く拭った。
まるで、先ほど触れた相手が恐れられている殺戮兵器ではなく――
大型犬か何かだったかのような、あまりにも自然な仕草だった。
「これで三時間ほど、あなたの拒絶反応による痛みを抑えられます」
そして彼女は、静かに問いかけた。
「これで――私たちの取引について、話ができますか?」
レオンはゆっくりと立ち上がった。
二メートル近い巨体が起き上がると、再び巨大な影がヴィクトリアを覆う。
彼はレースのアイマスクで目を隠した少女の顔を見つめる。
そして、口元を不敵に吊り上げた。
「俺に、お前の犬になれっていうのか?」
ヴィクトリアは、ほんの少し顔を上げた。
「犬は尻尾を振るだけです」
淡々とした声。
だが、その言葉には鋭い意志が宿っていた。
「あなたに必要なのは――」
「雲上貴族の喉笛を斬り裂くための刀でしょう?」
そして彼女は、凍るような笑みを浮かべた。
「私は復讐のために、あなたの力が必要」
「あなたは生き延びるために、私の情報素が必要」
一拍。
「レオン・龍馬」
「私の刀になって」
ヴィクトリアの声が、静かに響いた。
「私があなたを――」
「成層圏まで連れていく」
レオンは黙った。
しばらく、目の前の少女を見つめる。
白く、儚げな顔。
けれど、その表情には決して揺らぐことのない意志があった。
そして――
また、あの香りが鼻先をかすめる。
母親の香り。
十年間、心の奥底に封じ込めていた、あの冷たい香り。
レオンは突然、低く笑い始めた。
「……ククッ」
その笑い声が、大きな胸の奥を震わせる。
「いいだろう」
そして、獣のような笑みを浮かべた。
「もし俺を騙したら――」
「先に、お前の首を噛み千切る」
ヴィクトリアは表情を変えなかった。
「その機会は、あなたにはありません」
その瞬間――
二人の間で、契約が成立した。
だが。
次の瞬間。
ヴィクトリアの「盲眼心網」が突然、異常な反応を示した。
三つ。
非常に強い圧力を持った熱源が、高速でこちらへ近づいている。
ヴィクトリアの表情が変わる。
「隠れて」
その声と同時に――
彼女は一瞬で雰囲気を変えた。
先ほどまでの冷静な表情を消し、弱々しく、怯えきった少女の姿を演じる。
身体を小刻みに震わせる。
呼吸まで不安定にする。
まるで、何が起きているのか何も分からない盲目の少女。
レオンは一瞬で察した。
赤い獣化義眼が鋭く光る。
そして――
巨大な身体が、まるで幽霊のように動いた。
安全室の隅にある暗闇へ、音もなく溶け込んでいく。
呼吸さえ完全に消した。
「――ドンッ!」
重厚な合金製の扉が、力任せに吹き飛ばされた。
直後、眩しいほどの純白のホログラム光が暗い部屋へ流れ込み、室内を一瞬で照らし出す。
入ってきたのは三人。
欧州風の純白の燕尾服を身にまとった、貴族の執行官たちだった。
その先頭に立っていた男を――
ヴィクトリアは知っている。
雲上貴族社会で、彼女に「指導」を施している教師。
クレイン。
几帳面に撫でつけられた金髪。
その手には、AIコアの宝石を埋め込んだステッキが握られている。
クレインは絹のハンカチで鼻を覆った。
まるで腐ったゴミでも見るように、下層深淵の汚れた室内を見回す。
床にこびりついた油。
錆びた機械。
薄汚れた壁。
その一つ一つを、虫けらを見るような目で眺めていく。
そして最後に――
ヴィクトリアへ視線を向けた。
「雪絵さん」
クレインの声には、露骨な失望と上から目線の傲慢さが込められていた。
「君には本当に失望したよ」
彼はステッキを軽く回した。
「議長閣下は、私に君へ貴族としての礼儀作法を教えるよう命じた」
「それなのに君は――」
「こんな鼠の巣のような下層深淵へ、こっそり入り込んでいる」
クレインの目が細くなる。
「しかも、つい先ほど、この周辺でS級エネルギー反応が検知された」
「さあ――」
「私が納得できる説明をしてもらおうか」
ヴィクトリアは小さく頭を下げた。
「先生……」
声は弱々しい。
今にも風に吹き飛ばされてしまいそうなほど、か細い声だった。
「私はただ、下層でしか手に入らない珍しい調香材料を探しに来ただけです」
「その途中で……」
「廃棄された義体の防衛システムを、誤って作動させてしまいました」
「そうか?」
クレインが鼻で笑う。
その目つきが変わった。
爬虫類のように冷たく、感情のない目。
「だが、私のAI補助脳は別のことを報告している」
「君の身体から――」
「極道の暴徒が持つ情報素が検出された」
ヴィクトリアは黙っている。
「雪絵家はもう滅んだ」
クレインの声が、さらに冷たくなる。
「君はただの盲目の孤児だ」
「余計なことを考えるな」
そして、ステッキを持ち上げる。
「今から君の短期記憶を強制的に読み取る」
「それで君の潔白を確認させてもらおう」
ヴィクトリアが答えるより早く――
クレインのステッキが、機械音を立てて変形した。
先端から一本の細い探針が飛び出す。
そして、電光石火の速さでヴィクトリアの後頭部へ伸びた。
「先生……やめて……」
ヴィクトリアは怯えた声を上げる。
身体を反射的に後ろへ引いた。
だが――
遅かった。
探針は彼女の首の後ろにある脳機械インターフェースへ、無慈悲に接続された。
「もう遅い」
クレインが笑う。
「下民は下民らしく、自分の立場をわきまえるべきなんだよ」
「さあ――」
「強制読み取りを開始する」
――ブゥンッ!
巨大なデータの奔流が、洪水のようにヴィクトリアの脳へ流れ込んだ。
しかし。
次の瞬間。
クレインの笑い声が――
突然、止まった。
「……何だ?」
顔から笑みが消える。
「どういうことだ……?」
「私のデータストリームが……」
クレインの顔に、初めて恐怖が浮かんだ。
「逆流している……だと!?」
彼が誇りにしていた脳機械インターフェースが――
今、巨大かつ精密な逆方向のデータ攻撃によって猛烈な勢いで侵食されていた。
「あり得ない……!」
ヴィクトリアが、ゆっくりと顔を上げる。
もちろん、その目はレースのアイマスクに覆われている。
それなのに。
クレインには――
自分が恐ろしい怪物に睨みつけられているように感じられた。
「先生」
ヴィクトリアの声が変わった。
先ほどまでの弱々しさは、もうない。
そこにあるのは、凍てつくような冷気だった。
「知っていますか?」
「なぜ、雪絵家の香水が――」
「『セイレーンの口づけ』と呼ばれているのか」
その瞬間。
ヴィクトリアの「盲眼心網」が――
完全に覚醒した。
視覚を失った脳は、余った処理能力を極限まで演算へと振り向けていた。
そこへ、指先から密かに放出された神経毒性の情報素が加わる。
脳機械インターフェースを伝い――
クレインの思考領域へ、直接侵入していく。
まるで一枚ずつ扉を破壊しながら、敵の脳内へ踏み込んでいくように。
「やめろ!」
クレインが叫んだ。
「接続を切れ!」
「早く切断しろ!」
「――切断できない!?」
悲鳴が響く。
彼は両手で後頭部を狂ったように掻きむしった。
だが――
もう遅かった。
ヴィクトリアから流れ込むデータは、鋭利な刃物そのものだった。
正確に。
一つずつ。
クレインの大脳皮質に存在する神経シナプスを切断していく。
「――バチィッ!」
次の瞬間。
クレインの脳機械インターフェースから、眩しい火花が吹き上がった。
「……っ!」
彼の目が白目を剥く。
口から泡を吹き出す。
そして――
ドサッ!
油にまみれた床へ、糸の切れた人形のように真っ直ぐ倒れ込んだ。
「……ガッ……」
身体が激しく痙攣する。
もう、立ち上がることはない。
完全に――
廃人と化していた。
「なっ……!」
残った二人の執行官が、顔面蒼白になる。
彼らは反射的に高周波ライフルを構えた。
「殺せ!」
「――撃て!」
「ドンッ!」
「ドンッ!」
銃声が完全に響き渡るより早く――
二つの黒い影が、側面から壁を突き破った。
「――ドゴォンッ!」
崩れた壁の向こうから飛び出してきたのは――
レオンだった。
ずっと暗闇に潜んでいた「野獣」が、ついに姿を現した。
その姿は、山から解き放たれた猛虎そのものだった。
右腕のバイオニック・スケイルが、一斉に逆立つ。
「――重力圧壊!」
能力が発動した。
次の瞬間。
恐ろしい局所重力場が発生する。
「ぐっ……!」
「な、なんだ……この重さは……!」
二人の執行官の身体が、一瞬で地面へ叩きつけられた。
膝が床へめり込む。
「ぐあああっ!」
骨が、耐えられない圧力に悲鳴を上げる。
――ミシッ。
――バキッ。
骨が砕ける音が、地下室に響いた。
そして――
レオンの背中から、炭素繊維製の骨刃が一斉に飛び出した。
「シュンッ!」
ネオンの赤い光が瞬く中。
二本の骨刃が空中を走る。
銀色の軌跡が、まるで美しい弧を描くように一閃した。
次の瞬間。
二つの頭部が――
宙へ舞った。
貴族らしく整えられた金髪のカツラが、頭部ごと宙を飛ぶ。
噴き出した鮮血は、空中でレオンの周囲に発生した圧力場によって弾き飛ばされ――
瞬く間に血霧へと変わった。
――瞬殺。
レオンは骨刃を静かに収納した。
そして振り返る。
ヴィクトリアのもとへ歩いていく。
その巨体からは、先ほど二人の人間を一瞬で殺した凶暴さが嘘のように消えていた。
レオンは羽織の袖口を使った。
汚れていない部分を選び――
ヴィクトリアの頬に飛び散った、ごく小さな血の滴をそっと拭う。
その動作は驚くほど優しい。
ほんの数秒前までの残虐な殺戮とは、まるで別人だった。
「……片づけた」
レオンが低い声で言う。
その声音は――
まるで、主人に褒めてもらうのを待っている大型の猛獣のようだった。
ヴィクトリアは小さく頷いた。
口元には、満足そうな笑みが浮かぶ。
「よくやったわ」
そして――
「私の刀」
レオンは何も言わなかった。
ただ静かにしゃがみ込む。
そして、床に倒れているクレインの後頭部へ手を伸ばした。
まだ火花を散らしている脳機械インターフェースを、乱暴に引き剥がす。
証拠を残さないためだった。
しかし――
そのインターフェースを引き抜いた瞬間。
「カラン……」
小さな何かが、クレインの頭蓋骨の隙間から落ちた。
金属製の床に当たり――
小さな音を立てて転がる。
レオンの動きが止まった。
それは――
壊れかけた小さな記憶チップだった。
レオンの瞳孔が、瞬時に縮む。
巨大な手が伸びる。
そして、そのチップを指先でつまみ上げた。
表面には――
極めて古い製法によって刻み込まれた、一輪の薔薇。
それは――
雪絵家の家紋だった。
だが。
レオンを本当に震撼させたのは、家紋ではなかった。
このチップは――
雪絵家を滅ぼした貴族の教師、その頭蓋骨の奥深くに隠されていた。
そして、その表面には。
一滴の暗赤色の血が付着していた。
レオンはその血を見つめる。
見覚えがある。
――自分の血だ。
前の一件。
遺伝子拒絶反応が暴走した際、ヴィクトリアに首を掴まれた。
そのとき、彼女の指が触れた手の甲を、レオン自身の爪が偶然傷つけていた。
そこから流れた血。
その血が――
なぜ、このチップに付着している?
なぜ――
雪絵家を滅ぼした貴族の教師の頭の中に。
雪絵家の家紋が刻まれた機密チップが隠されていた?
しかも。
そこには、レオン自身の血が付いている。
「……」
レオンは何も言わなかった。
地下深淵の外では、酸性雨が荒れ果てた窓を激しく叩いている。
ザーッ。
ザーッ。
割れかけた窓ガラスを通して、ネオンの光が室内へ差し込む。
赤。
青。
紫。
その色彩が、二人の間で揺らめいていた。
ヴィクトリアには、もちろんチップを見ることはできない。
だが――
彼女には分かった。
レオンの心拍が、突然、大きく乱れた。
「ドクン――」
「ドクン、ドクン――」
いつもなら制御されているはずの巨大な心臓が、明らかに動揺している。
ヴィクトリアは静かに尋ねた。
「レオン」
「何を見つけたの?」
レオンはゆっくりと拳を握り込んだ。
チップを掌の中へ隠す。
そして、赤い獣化義眼で床に倒れたクレインの死体を睨みつけた。
低い声が、地下の闇に響く。
まるで――
地獄の底から這い上がってきた声のようだった。
「……何でもない」
短い沈黙。
そして。
「ただ――」
レオンは、ゆっくりと言葉を続けた。
「俺たちが立っているこの深淵は……」
「どうやら、雲上よりも――」
その獣の目が、暗闇の中で赤く光る。
「……ずっと汚れているらしい」




