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第01話 盲目の薔薇と檻の中の野獣

 新バビロン――成層圏の彼方。


 太陽の光が人工オゾン層を透過し、雲上にそびえる「エデン雲上貴族学院」の白大理石のドーム屋根へと降り注いでいた。


 幾重にも重なる曲面に反射した光は、神聖でありながら、どこか人の体温を感じさせない冷たい黄金色の輝きを放っている。


 ここは、欧州系の雲上貴族たちが支配する権力の揺籃。


 選ばれた血筋を持つ者だけが集う、空中都市の象徴ともいうべき場所だった。


 広大な歓迎ホールには、人工的に合成された薔薇の香りと、高純度酸素の甘ったるい匂いが漂っている。


 その片隅に、一人の少女が静かに立っていた。


 ヴィクトリア・雪絵。


 銀白色の長い髪は滝のように流れ落ち、改良型のヴィクトリア朝ゴシックドレスの上へと広がっている。


 その両目は、精巧なレース装飾が施された戦術用のアイマスクで覆われていた。


 紙のように白い肌。


 冷たく、儚げな雰囲気。


 まるで、指先で少し触れただけでも粉々に砕けてしまいそうな、繊細な陶器の人形のようだった。


 ――だが。


 そんな弱々しい外見とは裏腹に、彼女の脳は凄まじい速度で演算を続けていた。


 視力を失った後、彼女の脳機械インターフェースは、ある特殊な機能を発達させていた。


「盲眼心網」。


 彼女の周囲五十メートル以内に存在するあらゆる熱源、音波による微細な振動、さらにはごく僅かな電流の変化までもが、脳内で一つの立体的な空間情報へと変換される。


 彼女にとって、暗闇は決して「何も見えない世界」ではない。


 むしろ逆だった。


 視覚に頼らないからこそ、普通の人間には見えないものまで、彼女には手に取るように分かる。


「ようこそ、雲上へ。雪絵お嬢様」


 一体の機械仕掛けの給仕が滑るように彼女の横を通り過ぎ、シャンパンのグラスを差し出した。


 ヴィクトリアは小さく頷いた。


 その指先が何気なく機械給仕の金属製の外装に触れる。


 指先には、どれだけ洗っても消えない、かすかな血の匂いと、冷たい香りが残っていた。


 ――三年。


 家族が「AI神」の機密情報に触れたことで、一族ごと抹消されてから、すでに三年が過ぎていた。


 ヴィクトリアは自ら両目を潰し、盲目の調香師を装った。


 そして今、ようやくこの場所へ足を踏み入れた。


 自分の家族全員を葬り去った、華麗な墓場へ。


 彼女は、復讐のためにここへ来たのだ。


 そしてその復讐の刃は――すでに鞘から抜かれている。


「おやおや。これは、下層の闇市から拾ってきた盲目の調香師じゃないか」


 軽薄で、傲慢な声が響いた。


 ヴィクトリアの思考を、現実へと引き戻す。


「どうした? エデンの入学基準も、ずいぶん低くなったものだな。今じゃ、こんな欠陥品まで入れるのか?」


 盲眼心網の中で、三つの高温の熱源が扇状に広がりながら、こちらへ近づいてくる。


 先頭に立つ男――ルーカス・フォン・クライスト。


 雲上貴族の中でも、とりわけ有名な放蕩息子だった。


 右腕には、まばゆいばかりの青い宝石を埋め込んだ義体。


 その後ろには、酒のグラスを手にした取り巻きが二人ついている。


 ルーカスはヴィクトリアの前まで来ると、見下すように彼女を眺めた。


 その目には、露骨な嘲笑が浮かんでいる。


「聞いたぞ。お前、安っぽい神経幻覚剤なんかを調合して、あの時代遅れの議員どもに取り入っているそうじゃないか」


 ルーカスは鼻で笑った。


「ここは雲上だ。呼吸することを許されるのは、純粋な血統を持つ者だけだ」


 そして、アイマスクで目を覆った少女を侮蔑するように見下ろす。


「目すら持たない役立たずが――この俺の影の中に立っていいと思っているのか?」


 周囲から、くすくすと貴族たちの笑い声が漏れた。


 階級制度が鉄のように固定された新バビロンでは、「盲目」というだけで、遺伝的欠陥の証と見なされる。


 ましてや、盲目の人間が生き延びるために身体を改造しているなどというのは、下層の裏社会でしか見られない安価な改造の一種だと、雲上の人間たちは考えていた。


 だが――


 ヴィクトリアは退かなかった。


 彼女はほんの少しだけ顔を横へ向ける。


 レースのアイマスクに隠された表情には、怯えと戸惑いが浮かんでいた。


 細い指が、そっとドレスの裾を握りしめる。


 そして、風に乗るような柔らかな声で言った。


「クライスト様……私はただの調香師です。もし、私の香りがお気に召さないのでしたら……少し離れます」


「離れる?」


 ルーカスの口元が歪んだ。


「誰が、立ち去っていいと言った?」


 次の瞬間。


 青い宝石を埋め込んだ義体の右腕が、機械音を響かせながら伸びた。


 ヴィクトリアの顎を掴もうとしている。


「見せてみろよ」


「盲目っていうのは、本当に目が見えないのか?」


 機械の指先が、彼女の白い頬に触れようとした――その瞬間。


 ヴィクトリアの唇が、ごくわずかに弧を描いた。


 誰にも気づかれないほど小さな笑みだった。


 彼女はドレスの裾に隠した内ポケットへ指を滑り込ませる。


 そして、そこに仕込んであった小さなカプセルを、指先でそっと押し潰した。


 ――パキッ。


 肉眼ではほとんど存在を認識できないほど小さなカプセルが、静かに砕ける。


 直後。


 極めて淡い、冷たい香りが周囲へ広がった。


 それは普通の香水ではなかった。


 雪絵家に古くから伝わる秘伝の調香法。


 そこへサイバー化された神経毒素を組み合わせて作り上げた特殊な香り――


「霜雪の口づけ」。


「……なんだ、この匂い……?」


 ルーカスの動きが、突然止まった。


 彼の網膜投影システムが激しく明滅する。


 ついさっきまで鮮明だった視界が、一瞬にして血のような赤色に染まった。


 盲眼心網を通して、ヴィクトリアにははっきりと見えていた。


 ルーカスの体内で、神経シナプスが異常な速度で活動を始めている。


 情報素によって、神経系そのものが強制的に掌握されていく。


「うわああああっ!」


 突然、ルーカスが悲鳴を上げた。


「目が! 俺の目がああっ!」


 両手で自分の顔を掻きむしり始める。


「虫だ! 虫がいる!」


「俺の義体の中に虫がいる!」


 彼は完全にパニックに陥っていた。


「お坊ちゃま! どうされたのですか!」


 二人の取り巻きが慌てて駆け寄る。


「触るな!」


 ルーカスが怒鳴った。


「お前ら下層のゴミども! 俺を殺す気か!」


 神経系は完全に錯乱していた。


 彼の右腕――青い宝石の義体が、突然、異常な出力を発揮する。


 出力レベルが一気に過負荷領域へ跳ね上がった。


「うおおおおっ!」


 ルーカスが右腕を振り抜く。


 ――ドゴンッ!


 取り巻きの一人が、十メートル以上も吹き飛ばされた。


 その身体は歓迎ホールの巨大なシャンデリアへ激突する。


 ――ガシャァン!


 豪華なクリスタル製のシャンデリアが粉々に砕け散った。


 無数のガラス片が、まるで激しい雨のようにホールへ降り注ぐ。


「きゃあああっ!」


「何が起きたの!?」


「危ない!」


 あちこちから悲鳴が上がった。


 たちまち歓迎ホールは大混乱に陥った。


 その中で――


 ヴィクトリアは、まるで本当に怯えきった少女のように二歩、後ずさった。


 そして、足元をふらつかせながら、天鵞絨張りのソファへ腰を落とした。


 両手で耳を塞ぐ。


 身体を小刻みに震わせる。


 まるで、突然の騒動に怯えてしまった、身寄りのない盲目の少女そのものだった。


 だが――


 誰にも見られていない角度で。


 レースのアイマスクに隠された彼女の表情は、氷のように冷たかった。


「お坊ちゃま! 早く鎮静剤を!」


 医療ロボットの緊迫した声がホールに響く。


「神経中枢が未知の情報素によって干渉されています!」


 ヴィクトリアは、心の中で静かに笑った。


 ――この程度。


 これは、ほんの初歩的な神経錯乱にすぎない。


 もし彼女が本気を出していれば。


 先ほどの一瞬だけで、ルーカスの脳機械インターフェースそのものを焼き切ることだってできた。


 だが――


 今はまだ、血を流す時ではない。


 彼女には、もっと深く潜り込む必要がある。


 そして復讐を成し遂げるためには――


 今は、自分の正体を隠しておかなければならない。


 歓迎ホールが混乱に包まれている隙を突き、ヴィクトリアは機械給仕の案内を受けながら、誰にも気づかれないようにその場を離れた。


 やがて彼女は、螺旋階段へ向かう。


 一段、また一段。


 そして、下へ。


 さらに下へ。


 エデン学院の地上部分が、雲上貴族たちの華やかな世界だとすれば――


 その地下には、決して陽の光を見ることのない世界が広がっていた。


 地下最深部に設けられた、禁断の拘禁施設。


 そこへ近づくにつれて、空気は一変した。


 先ほどまで漂っていた甘ったるい薔薇の香りは消え失せている。


 代わりに漂ってくるのは、機械油の臭い。


 乾いた血の臭い。


 そして、オゾンが焼け焦げたような刺激臭。


 壁面には、闇社会を思わせるネオン調の暗赤色警告灯が点滅していた。


 雲上の古典的で優雅な世界とは、あまりにも対照的だった。


 まるで、同じ建物の中に二つの異なる文明が存在しているかのようだ。


 ヴィクトリアの「盲眼心網」は、暗闇の中でこそ真価を発揮した。


 彼女には、巡回している無人ドローンの位置まで正確に把握できる。


 警備の死角を一つずつ確認しながら、彼女は音もなく歩いていく。


 その足取りは、闇の中を進む猫のように軽かった。


 彼女が目指しているのは――


 学院最深部。


「零号収容所」。


 三日前。


 ジャック・星野から送られてきた暗号化情報の中に、その存在が記されていた。


 雲上貴族たちは最近、下層の深淵から一頭の「野獣」を捕らえてきた。


 それは、極道と貴族の血を引く――


 S級実験体。


 そして、その実験体こそが。


 ヴィクトリアの復讐にとって、最も鋭利な「刃」になるかもしれなかった。


「――ドォンッ!」


 突然、前方から凄まじい轟音が響いた。


 重厚なチタン合金製の扉が――


 内側から叩き潰され、ひどく歪んでいる。


「ギギギギギ……!」


 金属が無理やり引き裂かれるような不快な音が、人気のない地下通路いっぱいに響き渡った。


 ヴィクトリアは足を止めた。


 盲眼心網が、異常な熱源を捉える。


 巨大。


 あまりにも巨大な熱源だった。


 まるで人間一人のものとは思えない。


 その熱源が、猛烈な勢いでもがき続けている。


 何らかの重力エンジンが制御不能に陥っているらしく、周囲の温度が急激に上昇していた。


 空気そのものが歪んでいる。


 ヴィクトリアは、ひしゃげた扉をゆっくり押し開けた。


 そして――


 零号収容室へ足を踏み入れた。


 薄暗い照明の下。


 そこには、一人の男がいた。


 身長はおよそ二メートル。


 人間離れした巨体だった。


 太い腕ほどの直径を持つ高周波電磁重鎖が、彼の身体を壁へと縛りつけている。


 右半分の顔は、黒と金を基調とした重装型バイオニック・スケイルで覆われていた。


 そして左目。


 そこには、血のように赤く輝く獣化義眼が埋め込まれている。


 背中――脊椎部分からは、数本の炭素繊維製の骨刃が飛び出していた。


 それらは制御を失ったまま、周囲の合金製の壁へ深々と突き刺さっている。


 その男の名は――


 レオン・龍馬。


 今の彼は、遺伝子拒絶反応による極限の苦痛に苛まれていた。


 黒金色の鱗の下では、血管がまるで地中を這うミミズのように浮き上がっている。


 赤く光る獣の眼が、侵入してきたヴィクトリアを睨みつけた。


「グルルル……」


 喉の奥から、低い唸り声が漏れる。


「……出ていけ……」


 レオンの声は、砂紙を擦り合わせたように掠れていた。


 怒りと苦痛を必死に押し殺しているのが分かる。


 彼の体内で、重力エンジンが暴走していた。


 強烈な重力場が周囲を圧迫し、ヴィクトリアの足元にある金属製の床が、ミシミシと音を立てながら細かくひび割れていく。


 普通の人間なら――


 この場所に立っているだけで、骨が押し潰されてしまうほどの重力だった。


 それでも。


 ヴィクトリアは退かなかった。


 鋼鉄さえ引き裂いてしまいそうな重力場を正面から受けながら、一歩。


 また一歩。


 彼女は、檻の中の野獣へ近づいていく。


 強風のような衝撃波を受け、ゴシックドレスの裾が大きくはためいた。


 それでも、彼女の白い顔には恐怖の色が一切なかった。


 むしろそこには――


 哀れみさえ感じさせる、静かな落ち着きがあった。


「あなたの遺伝子鎖は、すでに崩壊を始めています」


 ヴィクトリアの声は冷たく澄んでいた。


 暴走する重低音の轟きの中でも、その声だけは不思議なほどはっきりと届く。


「拒絶反応は、すでに小脳まで侵食しています」


 彼女は歩みを止めない。


「このまま抵抗を続ければ――」


「あなた自身の身体を、自分で引き裂くことになります」


「俺は……」


 レオンが低く唸る。


「出ていけと言った……!」


 突然、彼が身体を激しく動かした。


 ――バチバチバチッ!


 電磁重鎖が青白い閃光を放つ。


 その強烈な力に引っ張られ、背中の骨刃が大きく振れる。


 あと少しで――


 自分自身の腕まで切断してしまいそうだった。


 それでもヴィクトリアは止まらない。


 そしてついに、彼の目の前まで来た。


 距離は――わずか半メートル。


 彼女はゆっくりと手を上げる。


 そして、指先をレオンの焼けるように熱い胸へ、そっと触れた。


「……しーっ」


 ほんの一言。


 幼子をあやすような、ごく小さな声だった。


 その瞬間。


 ヴィクトリアの掌から、濃厚でありながら澄み切った冷たい香りが一気に放たれた。


 これは、先ほどルーカスに使った幻覚系の毒素とは違う。


 彼女が三年もの時間を費やし、雪絵家に代々伝わる秘伝の情報素を基礎として作り上げたもの。


 極地に咲く氷蓮。


 そして、鎮静作用を持つ神経ペプチド。


 それらを組み合わせて完成させた――


「鎮魂曲」。


 冷たい香りは、レオンの呼吸とともに体内へ入り込む。


 そして瞬く間に、中枢神経へと到達した。


 ――奇跡が起こった。


 先ほどまで荒れ狂っていた重力場が――


 突然、止まった。


 完全に。


 レオンの獣化義眼が明滅する。


 その赤い光が、少しずつ弱くなっていく。


 荒々しかった呼吸も、徐々に落ち着きを取り戻していった。


 背中から突き出していた骨刃も、ゆっくりと脊椎内部へ収納されていく。


 そして――


 鋼鉄のように強張っていた彼の筋肉が、信じられないほどゆっくりと緩んでいった。


 冷たい香りに包まれながら。


 レオンは顔を下げる。


 赤く輝く左目で、目の前の少女をじっと見つめた。


 一見すれば、壊れそうなほど弱々しい盲目の少女。


 だが、その実態は――


 大胆不敵にも、この「野獣」の懐へ一人で入り込んできた人間だった。


「お前……何者だ?」


 レオンの声から、先ほどまでの狂気は消えていた。


 代わりにそこにあったのは――


 彼自身でさえ気づいていない、かすかな弱さ。


 そして、長い間抱えてきた疲労だった。


 ヴィクトリアは答えた。


「あなたの痛みを止められる人間です」


 指先から放たれる冷たい香りは、まだ続いている。


 レオンには感じられていた。


 何日も。


 何週間も。


 何カ月も。


 彼を苦しめ続けてきた、遺伝子が身体の内側から引き裂かれるような痛み。


 その苦痛が、この不思議な力によって少しずつ、少しずつ和らいでいく。


 レオンは、殺戮に慣れていた。


 人を殺すことにも。


 血を見ることにも。


 実験体として扱われ、身体を弄ばれることにも。


 極道の血と泥にまみれた世界で、何度も生死の境をさまよってきた。


 だが――


 誰も彼のすぐそばまで近づこうとはしなかった。


 ましてや。


 血まみれになったこの身体を、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うように、こんなにも優しく扱う人間など、一人もいなかった。


 しかし――


 その直後だった。


 レオンの精神が、ようやく遺伝子拒絶反応による激痛から抜け出した。


 まだ完全には理性が戻っていない。


 その瞬間。


 S級殺戮兵器として身体に刻み込まれた本能が――


 突然、反射的に牙を剥いた。


「――シュッ!」


 巨大な手が飛び出す。


 鱗と無数の硬いタコができた掌が、ヴィクトリアの細い首を一瞬で掴んだ。


「……っ!」


 強烈な力によって、彼女の身体が宙へ持ち上げられる。


 ゴシックドレスの襟元が締めつけられた。


 レオンの獣化義眼が、再び危険な赤色へと染まっていく。


 まるで怒り狂った一匹の孤狼のように。


 彼はヴィクトリアを冷たい合金製の壁へ押しつけた。


「誰に命令されて来た……?」


 低く、殺意に満ちた声。


 だが――


 ヴィクトリアは抵抗しなかった。


 酸素が足りなくなり、彼女の顔はさらに青白くなる。


 それでも――


 その唇には、かすかな笑みが浮かんでいた。


 助けを求めることもしない。


 命乞いもしない。


 ドレスの裾に隠してある高周波振動刃を使うこともしない。


 ただ静かに。


 彼女はレオンを「見つめていた」。


 もちろん、彼女の目はレースのアイマスクに覆われている。


 それでもレオンには――


 なぜか彼女が自分の奥底まで見透かしているように感じられた。


 そして。


 雪絵家特有の、血のような香りを含んだ冷たい香気が、レオンの指先から鼻腔へ入り込んでいく。


 その瞬間だった。


 彼の中で――


 封印されていた記憶が、突然、蘇った。


 十年間。


 彼の記憶の最も深い場所に封じ込められていた香り。


 それは――


 雲上貴族によって処刑された、彼の母親。


 極道と貴族の血を引いていた、あの女性の身体から漂っていた、唯一無二の香りだった。


 レオンの瞳孔が――


 大きく縮む。


 ヴィクトリアの首を締めつけていた巨大な手が、突然、動きを止めた。


 力を込めすぎた指の関節が白くなる。


 そして次の瞬間。


 まるで電流に触れたかのように――


 その手から力が抜けた。


 レオンの指が、ヴィクトリアの首から離れる。


 獣のように赤く染まっていた瞳から、徐々に赤みが消えていった。


 そこに現れたのは――


 極限の驚愕。


 深い苦痛。


 そして、自分自身でさえ理解できない、戸惑い。


「この……香り……」


 レオンの声が震える。


 二メートル近い巨体までもが、小刻みに震えていた。


「お前……」


 彼はヴィクトリアを見つめる。


「いったい……誰なんだ?」


 ヴィクトリアは小さく二度、咳き込んだ。


「……ゴホッ、ゴホッ……」


 そして、自分の首へ手を伸ばす。


 白い肌に、赤く痛々しい指の跡が残っていた。


 それを軽く撫でる。


 そして――


 彼女は一歩、前へ出た。


 逃げるのではない。


 自ら距離を縮めたのだ。


 白く細い指が、そっとレオンの鱗に覆われた手の甲へ重なる。


 その仕草には、少しの恐れもなかった。


「私は――」


 静かな声が、零号収容室に響く。


「あなたを、この檻から連れ出すために来た薔薇」


 そして、ほんの少しだけ間を置いて。


「同時に――」


 ヴィクトリアの声が、わずかに低くなる。


「この雲上へ復讐するために来た、悪鬼です」


 レオンは――


 その場に立ち尽くした。


 何も言わない。


 ただ、彼女の手が自分の手に触れていることを、拒もうともせず受け入れていた。


 人が人を喰らう、このサイバーパンク都市の中で。


 一人の盲目の少女と――


 檻に閉じ込められた一頭の野獣。


 二人の運命の歯車が――


 この瞬間、初めて噛み合った。


 その頃。


 はるか頭上の雲上では、貴族たちが新入生歓迎パーティーで起きた小さな騒動を、酒の肴にして笑っていた。


 自分たちが、まだこの世界の頂点にいると信じて疑わない。


 だが――


 彼らはまだ知らなかった。


 深淵から伸びた獣の牙が――


 すでに自分たちの喉元へ突きつけられていることを。


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