第三十六章:二人の親友と、二つの正義
バーのテーブルに、重たい沈黙が落ちた。
グラスの中で溶けかけた氷が、小さくカランと鳴る音だけが、場を支配している。
オリヴィアとマヤは、私が投下した「明日、ハリーと会う」という爆弾の衝撃で、一瞬、完全にフリーズしていた。
私は観念した。もうどうにでもなれ、という心境だ。言葉にした瞬間から、胸の奥にしまい込んでいた秘密が、じわじわと漏れ出していくのを感じる。
そして堰を切ったように、ここ数日間に起こった出来事を、息継ぎも忘れて洗いざらい二人にぶちまけた。
バースで鳴り続けた、しつこいハリーからの電話。
まさかのタイミングで現れたフィリップ。
パニックのあまり、ハリーとの約束をOKしてしまった瞬間。
フィリップの車で、なぜか彼の両親に挨拶(?)してしまったこと。
私の家で、二人きりでフィッシュ・アンド・チップスを食べた夜。
そして――最後に、彼にキスをされたこと。
私がすべてを吐き出し終えた頃、テーブルの上には、空になったグラスがまるで小さな墓標のように並んでいた。沈黙の墓場、という言葉が脳裏をよぎる。
「……信じられない」
最初に沈黙を破ったのはオリヴィアだった。彼女の眉間には、これまで見たことがないほど深いしわが刻まれている。
「いい? エマ。単刀直入に言うわ。ハリーと会うのは――絶対にやめなさい」
その声は、迷いのかけらもない。冷たい鉄のように硬く、そして真っすぐだった。
「ハリーはもう過去の人よ。それも、今は奥さんがいる既婚者。そんな男に会ったところで、あなたの心がまたかき乱されるだけ。メリットなんてゼロよ。今すぐメッセージを送って断りなさい」
彼女は、ほとんど間を置かずフィリップの話題に切り替えた。
「それに――フィリップ・スターリングとは、あんたがどう思おうと、明らかに何かが始まってる。キスまでしておいて、元カレとこっそり会うなんて誠実じゃないわ。どっちつかずの態度は、結局、自分も相手も傷つけるだけ。あなたが今向き合うべきは、過去の亡霊じゃなくて、目の前の、生身の、しかも謎だらけのCEOでしょうが!」
合理的で、正論で、そして私が傷つくことを何よりも恐れてくれている――それがオリヴィアなりの、最大級の愛情表現だ。
その時、ずっと黙って聞いていたマヤが、空のテキーラショットグラスをカタン、と軽くテーブルに置いた。
「うーん、まあ、オリヴィアの言うことも正しいけどさー」
豪快であっけらかんとした口調で言い放つ。
「私の意見は、超シンプルよ。――とりあえず、どっちとも寝てみたら?」
「「はぁ!?」」
私とオリヴィアの声が見事にハモった。
マヤは、そんな反応などお構いなしに前のめりになって続ける。
「だってさ、男なんて結局、体の相性が一番大事なのよ。頭で考えても、心で感じてもわからないことは、体で確かめるのが一番早い! ハンサムな元カレと寝て、思い出をきれいに精算するのもアリ。謎の超絶イケメンCEOと寝て、新しい世界の扉を開くのもアリ!」
そして、私の肩をニカッと笑いながら力強く叩く。
「ま、どっちにしろエマが決めたことなら、私は全力で応援するから! エマがハッピーなら、それでOK!」
直感的で、倫理観はさておき、いつでも私の選択を無条件で肯定してくれる――それがマヤの愛情の形だ。
正反対なのに、どちらも100%の愛がこもった二人のアドバイス。
合理的なオリヴィアの声と、破天荒なマヤの声が、私の頭の中で交互にリフレインする。混乱はさらに深まるばかりだった。
「……ありがとう、二人とも」
ようやくそれだけを搾り出す。「少し頭を冷やして、一人で考えてみる」
その夜はそれでお開きになった。
オリヴィアは帰り際、「とにかく、ハリーにはちゃんと連絡しなさいよ」と念を押す。
マヤは「困ったらいつでも電話してきな! 私のブートキャンプに参加すれば、男の悩みなんて一瞬で吹っ飛ぶから!」とウィンクを飛ばす。
一人、ロンドンの夜道を歩きながら、私は考え続けた。
会うべきか、会わざるべきか。過去を清算するのか、未来に進むのか。
土曜日は、もうすぐそこまで迫っている。
私が出すべき答えは、一体どこにあるのだろう――。




