第三十七章:過去とのランチと、罪の味のキス
土曜日の朝。私は、クローゼットの前で、しばらく身動きが取れなかった。
ハリーに会いに行く。――これはただの再会じゃない。けじめをつけるため。過去を、完全に、清算するため。そう自分に言い聞かせるのは、これで何度目だろう。胸の奥にわずかな期待が生まれそうになるたび、その芽を踏み潰すように、繰り返し心の中で呟く。
私が選んだのは、ビジネスライク過ぎず、かといって甘すぎもしない、絶妙な“戦闘服”。
柔らかな光沢を放つシルクのブラウスは、首元で控えめに揺れるリボン付き。濃紺のスキニージーンズは脚のラインを美しく引き立て、足元は低めのヒールがついたスウェードのアンクルブーツ。
カジュアルでさりげないのに、どこにも隙がない――今の私の、整理しきれない心情をそのまま映し出したような装いだった。
家を出る直前、スマホが震える。画面にはオリヴィアの名前。
『いい、エマ。これが最後よ。過去を、完全に、清算してくるの。わかった?』
応援に見せかけた、彼女らしい容赦のない最終警告。
私は短く『わかってる』とだけ返し、呼吸を整えて、目的のビストロへ向かった。
サウス・ケンジントンの静かな通り。角にあるおしゃれなビストロのテラス席には、すでにハリーが座っていた。
白いリネンシャツをラフに着こなし、緩やかな日差しの下、コーヒーを片手に本を読んでいる――あの頃、私が一番好きだった、休日の彼の姿。その変わらぬ佇まいに、胸の奥が不意にきゅん、と鳴った。
「やあ、エマ。待ってたよ」
顔を上げた彼が、昔と同じ、柔らかな笑顔を向ける。
「すごく、綺麗になったね」
その一言で、この数日間、私が必死に築いたはずの心の壁に、ひびが走ったのがはっきりわかった。
ランチの間、会話は驚くほど自然に進んだ。
初めて行ったイタリア旅行の話。徹夜で観た古いモノクロ映画の話。共通の友人たちの近況。
まるで4年間の空白なんて存在しなかったかのような心地よさに、私はつい身を委ねかけていた。
ティラミスがテーブルに置かれたとき、私は意を決して切り込んだ。
「……で、どうして急に私を誘ったりしたの?」
ハリーはスプーンを止め、言葉を探すように視線をさまよわせる。そして、重く口を開いた。
「……妻とは、うまくいってないんだ」
ぽつり、ぽつりと語られる、会話のない家庭、価値観のずれ、冷えきった空気。
やがて彼は真っ直ぐに私を見つめ、告げた。
「最近、よく君のことを思い出すんだ。僕にとって、本当に運命の人だったのは、君だったんじゃないかって……」
――その瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。甘い時間は終わった。
「……既婚者が、何を言ってるの?」
自分でも驚くほど冷たい声だった。
ハンドバッグからお札を取り出し、テーブルに置く。
「ごちそうさま。もう二度と連絡しないで」
怒りに背中を押され、私は店を飛び出した。
「エマ、待ってくれ!」
背後から追いかける足音。角を曲がった瞬間、手首を強く掴まれた。
「離して!」と叫んでも、彼は構わず私を引き寄せ、その唇で強引に塞ぐ。
驚きと怒り、そして鼻先に届く、忘れようとしていた香り――。
私は彼を力いっぱい突き放した。
「やめて!」
しかし、彼はまだ腕を放さない。
「お願いだ、エマ。もう一度考えてくれ」
縋るような潤んだ瞳。それは、私が昔好きだった、彼の弱い一面だった。
そして二度目のキス。今度は、優しく、切なく。
4年間封じ込めていた記憶が、温かく滲み出してくる。私は抗わず、その唇を受け入れてしまっていた。
離れ際、彼は「連絡する」とだけ告げた。
混乱のまま、近くのブラックキャブに飛び乗る。
車内でそっと唇に指先を触れると、そこには確かに――罪の味が残っていた。
その感触の奥から、フィリップの冷たいグレーの瞳が浮かんでくる。交互に、何度も。
過去を清算するはずが、私はさらに複雑で抜け出せない泥沼に足を踏み入れてしまった。
もう、どこに出口があるのか、まったく見えなかった。




