第三十二章:鉄の鎧と、恋する瞳
昨夜、まともに眠れたとは到底言えない。
フィリップのキスと、あの謎めいた言葉が、一晩中、頭の中をぐるぐる回り続けていたからだ。
翌朝。
アラームの音で重いまぶたをこじ開けた私は、よろよろとバスルームへ向かい、鏡の前に立つ。
寝不足で疲れ果てた自分の顔を見て、朝からうんざりする覚悟はできていた。
しかし、そこに映っていたのは――私の予想とは全く違う女だった。
確かに、目の下にはうっすらと、昨夜の心の奮闘を物語る隈が浮かんでいる。
でも、それを帳消しにしてしまうほど、肌が――まるで上質な美容液をたっぷり吸い込んだかのように――内側から発光しているみたいにツヤやかだった。
そして、瞳が……そう、瞳が、いつもと違う。
昨夜の出来事を映したまま、潤んで、甘い光を帯びている。
(何よ、この顔……。まるで……)
まるで、恋をしているみたいじゃないの。
自分の唇に目をやった瞬間、昨夜のあの柔らかい感触がフラッシュバック。
顔が一気にカッと熱くなる。
(しっかりしなさい、エマ・ウォーカー!)
私は、自分の頬をパン!と叩いた。
昨夜のキスは――夢だ。
そう、きっと疲労が見せた、甘くて危険な幻覚に違いない。
そう自分に言い聞かせ、いつもの儀式をこなす。
シャワーを浴び、完璧なメイクを施し、最もシャープに見えるグレーのセットアップに身を包む。
鏡の中に、もう感傷的な女はいない。
そこに立っているのは、いつもの「鉄の女」だった。
⸻
オフィスに足を踏み入れると、空気が先週までとは明らかに違った。
「おはようございます、エマさん!」
部下たちの挨拶が、以前よりもずっと明るく、自然だ。
デスクに着くと、トムが淹れたてのコーヒーを手に駆け寄ってきた。
「エマさん、コーヒーです。ブラックですよね?」
「ええ……ありがとう、トム」
驚きを隠せないまま、そのカップを受け取る。
(月曜の、あの飲み会のおかげ、かしら?)
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
最悪の一週間の果てに手に入れた、ささやかで――でもとても大切な変化。
その事実に、自然と口元がほころんだ。
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だが、穏やかな気持ちとは裏腹に、頭の中は全く別の場所にあった。
PC画面を見つめても、浮かんでくるのは昨夜のフィリップの笑顔と、あのグレーの瞳。
メールを打とうとしても、指が勝手に止まり、彼の唇の感触を思い出してしまう。
会議中も、上の空。
(今日のボス、なんだか少しぼーっとしている……?)
部下たちがそう思っていたことにも、私は全く気づかなかった。
それでも、長年のキャリアで染みついたプロの能力は健在だった。
半ば無意識のうちに、フィリップから指示されたローンチパーティーの企画について的確に指示を出し、ブレインストーミングを開始させる。
その他の山積みタスクも、まるで自動操縦のように――しかし完璧に処理していった。
気づけば、あっという間に終業のベル。
「私、今日、一体、何をしていたのかしら……」
一日の記憶が、妙に曖昧だった。
⸻
これ以上ここにいても、まともな仕事はできそうにない。
私は珍しく定時で帰ることに決めた。
「お先に失礼するわ」
「お疲れ様でした!」
部下たちの明るい声に、また少し心が救われた。
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家に帰ると、昨日のフィッシュ・アンド・チップスの匂いがまだ残っていた。
一人、深くため息をつく。
仕事の疲れと心の混乱を洗い流すため、バスタブに熱いお湯を張り、お気に入りのバスオイルを数滴垂らす。
温かいお湯に身を沈め、ようやく思考の渦と向き合う。
(あのキスは、一体何だったの?)
興味がある、と彼は言っていた。
でも、だからといって、あんなことをする?
ただの気まぐれ?
それとも……。
彼のことを考えると、心臓がまたうるさく鳴り始める。
(それに、土曜日はハリーとのランチ……)
頭の痛い問題がもう一つ。
きっぱり断るべきだったのに、今さら何と言って断ればいい?
というか、既婚者の彼が一体何の用事で私を?
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過去の男と、現在の謎の男。
ロマンティックだったはずの元カレと、悪魔のようだったはずの新しいビジネスパートナー。
ああ、もう!
私はお湯をバシャリと叩いた。
「忙しすぎるわ、私の頭の中!」
仕事のプレッシャーと、二人の男に振り回される複雑な感情。
キャリアウーマンの現実は、ドラマみたいにキラキラしているばかりじゃない。
答えの出ない問題だらけの中で、大きくため息をつく。
でも、その「忙しさ」を――ほんの少しだけ悪くないと思っている自分もいることに、私はもう気づき始めていた。




