第三十一章:フィッシュ・アンド・チップスと、計算外のキス
私のアパートの前に、黒塗りのベントレーが静かに停車する。
私は、このありえない状況から一刻も早く逃げ出したくて、
「ここで結構です! 本当に、ありがとうございました!」
と、早口で言って車から飛び出そうとした。
しかしフィリップは、運転手から受け取った熱々のフィッシュ・アンド・チップスの大きな包みを持ち上げ、
「冷めてしまうだろう」
と、当然のように私と一緒に車を降りてきた。
ああ、もう逃げられない。
私は観念し、自分のテリトリーであるこの小さな城に、巨大で、ミステリアスで、そしてとんでもなく厄介な王様を招き入れるしかなかった。
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「どうぞ……」
リビングに通すと、フィリップは興味深そうに、私の部屋をゆっくりと見回した。
まずい。この部屋は、私の秘密の全てが詰まっている。
本棚には、ビジネス書やマーケティングの専門書と並んで、『セックス・アンド・ザ・シティ』の全シーズンDVDBOXが鎮座している。
ソファの隅には、セールで思わず買ってしまった猫の顔の刺繍が入ったクッション。
そして、椅子の背もたれには、先日ハロッズで買ったパステルブルーのワンピースが、無造作にかかっている。
完璧なキャリアウーマンの鎧と、夢見がちな少女の願望がごちゃ混ぜになった、カオスな空間。
フィリップの視線が、『SATC』のDVDBOXの上でピタリと止まった。
そして、面白そうに口の端をほんの少しだけ上げた。
「見ないでください!」
私は顔を真っ赤にしながら叫んでいた。
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高級なロイヤルドルトンの皿を出すべきか、数秒悩んだ末、結局、いつも使っているIKEAの何の変哲もない白い皿を二枚出した。
フィリップはそんなこと、全く気にも留めていないようだった。
私たちは、リビングの小さなローテーブルを挟んでソファに腰掛けた。
新聞紙に包まれた熱々のフィッシュ・アンド・チップス。
そして、その向かいには、完璧なオーダースーツを着こなしたフィリップ・スターリング。
あまりにもシュールな光景に、めまいがしそうだった。
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私がチップスにモルトビネガーをかけようとした、まさにその瞬間。
緊張で強張っていた手が滑り、ビネガーの瓶が傾いて、数滴の茶色い液体が彼の完璧なスーツのズボンに――ぽつ、ぽつ、と飛んでしまった。
「ひぃっ!」
私は小さな悲鳴を上げ、血の気が引く。
「も、申し訳ありません! 大変、申し訳ありません!」
大慌てでキッチンから濡れ布巾を持ってくると、彼の足元にひざまずき、シミを拭き取ろうとした。
「おい、気にするな」
フィリップが私の腕を掴み、それを制止する。
その大きな手に手首を掴まれた瞬間、私の体の全ての動きが止まった。
至近距離で、彼の香水の香りと、フィッシュ・アンド・チップスの香ばしい匂いがカオスに混じり合う。
ふと顔を上げると、すぐそこに彼のグレーの瞳があった。
時間が――止まった。
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その長い沈黙を破ったのは、フィリップの方だった。
彼は私の腕をそっと離すと、
「そろそろ、失礼する」
と静かに立ち上がった。
そして、食べ終わった新聞紙や空になった瓶を、手際よく一つにまとめ始めた。
その、あまりにも意外な行動に、私はただ呆然と見ていることしかできなかった。
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玄関で靴を履いた彼が、ドアノブに手をかける。
もう、これで本当に終わりだ――そう思った。
彼がふと、私の方を振り返る。
「悪くない夜だった」
その表情は、初めて見る穏やかなものだった。
私は何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
すると、彼が無言で私に一歩、近づいた。
彼の影にすっぽりと包まれる。
私は後ずさることもできず、ただ固まっていた。
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彼の大きな手が、そっと私の頬に触れる。
驚く私を、彼のグレーの瞳が、いつもとは違う深い熱を帯びてじっと見つめている。
そして、ゆっくりと、彼の顔が近づいてきて――
唇に、柔らかく、そして温かい感触。
それは激しいものでは全くない、まるで何かを確かめるような優しいキスだった。
彼のディオールの香りが、私の全ての理性を麻痺させる。
私は驚きに目を見開いたまま、動くこともできなかった。
やがて、唇がゆっくりと離れていく。
彼はもう一度、私の目をまっすぐに見た。
そして――
「おやすみ」
低い、掠れた声で囁いた。
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その一言だけを残して、彼は今度こそ夜の闇へと去っていった。
玄関に、一人、取り残される。
私は自分の唇にそっと指で触れた。
まだ彼の感触と香りが生々しく残っている。
部屋に漂うフィッシュ・アンド・チップスの匂いと、唇に残る甘い感触。
現実と、非現実。
仕事相手、氷の男、最悪の出会い、優しいキス。
私の頭の中は、完全にキャパシティ・オーバーだった。
これは、一体、どんなゲームなの?
それとも、ゲームですらない、何か?
答えの出ない問いと、あまりにも鮮明なキスの記憶を抱えて――
私はただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。




