第三十章:偽りの笑顔と、フィッシュ・アンド・チップスの約束
フィリップのベントレーを家の前に待たせたまま、私は荷物をまとめるために、慌てて実家の中へと駆け込んだ。
「ごめんなさい、急ぐから!」とリビングを通り抜けようとした私を、母が呼び止めた。
「エマ、玄関にいらした、あの素敵な方はどなた?」
しまった。見られていた。
私が「友達が、たまたま……」と言い訳をしかけた、その時だった。
玄関のドアが、コンコン、と上品にノックされた。
ドアを開けると、そこには、フィリップが立っていた。
そして、私は、信じられないものを見た。
フィリップは、私の両親に向かって、これまでの人生で見たこともないような、人懐っこく、完璧に計算された笑顔を向けていたのだ。
「突然、申し訳ありません。エマさんのビジネスパートナーの、フィリップと申します。本日、たまたまこちらでご一緒になりまして。私もロンドンへ戻るところでしたので、よろしければ仕事の話でもしながら、とお誘いした次第です」
その完璧な物腰、完璧なルックス、そして家の前に停められた完璧な高級車。
母が、その三点セットに魅了されるのに、3秒もかからなかった。
私が荷物を持ってリビングに戻ると、母は興奮冷めやらぬ様子で私の腕を掴み、小声で囁いた。
「エマ! あの人、誰なの!? 俳優? モデル? とにかく、ものすごい素敵じゃない! あんないい男、絶対に、絶対に落とすのよ! チャンスを逃したら、一生後悔するわよ!」
「ママ、お願いだからやめて。本当に、ただの仕事相手よ。そういう関係じゃ、全くないから」
私はうんざりしながらそう言って、大急ぎで両親に別れを告げ、フィリップの待つ車へと逃げ込んだ。
ロンドンへ向かう車が、静かに走り出す。
気まずい沈黙を破るため、そして、彼にこれ以上プライベートな領域に踏み込ませないため、私は自ら仕事の話を切り出した。
「先日の件ですが、来週からの具体的なアクションプランとして……」
すると、フィリップも心得たとばかりに、ビジネスモードへと切り替わった。
「ああ、その件だが。今回の新商品のローンチにあたって、君のチームには、インフルエンサーやメディアを招待した、エクスクルーシブなローンチパーティーを企画してもらいたい」
本当に、仕事の話が始まった。
ローンチパーティーのコンセプト、ターゲット層、予算規模。
彼の話は、いつものように的確で、鋭い。
私は(やっと、まともな会話ができる……)と、心の底から安堵していた。
だが、その安堵は、長くは続かなかった。
パーティーの概要について話が一段落したところで、彼は突然、全く違うトーンで、私に尋ねてきた。
「で、君の好きな食べ物は、なんだ?」
その、あまりにも唐突な質問に、私の思考は完全にフリーズした。
仕事の話から、プライベートな質問への、あまりにも急な転換。
彼の真意が、全く読めない。
これまでの混乱と、疲労と、そして訳のわからない感情が積み重なり、私の口から、またしても、とんでもなく、ありえない言葉が滑り落ちた。
「……あの。スターリング様は、私のことでも、抱きたいんですか?」
ああ、終わった。
私は、自分の舌を、今度こそ本気で噛み切りたくなった。
私のその、人生最大級に最悪な質問を聞いて、フィリップは一瞬、きょとんと目を丸くした。
そして、次の瞬間、彼は、これまで絶対に見せたことのない顔で、声を上げて、笑い出した。
「は、はは、はははっ!」
普段の彼からは、到底想像もできない、無防備で、心からの笑い声。
それは、まるでディオールの香水の広告のワンシーンのように、完璧で、破壊的なほど魅力的だった。
私は、その笑顔に、文字通り、息が止まるほど見惚れてしまった。
やがて、笑いを収めたフィリップは、面白くてたまらないといった目で、私を見た。
「この間も言っただろう。君に、興味があるんだ。抱きたいとか、そういう単純な話じゃない」
彼の真剣な眼差しに、私の顔は、もう沸騰寸前のやかんのように熱くなっていた。
何か、何か答えなければ。
パニックになった私の頭が、絞り出した答えは、これだった。
「……フィッシュ・アンド・チップス」
「……は?」
「フィッシュ・アンド・チップスが、好きです」
その、あまりにもイギリス的で、あまりにも気取らない私の答えに、フィリップは、また楽しそうに、くつくつと喉を鳴らして笑った。
そして、彼は運転手との間のインターカムで、何かを短く指示した。
気づけば、車はロンドンの、地元民に人気のフィッシュ・アンド・チップスの名店の前で、停まっていた。
運転手が、熱々の、新聞紙に包まれた大きな包みを二つ、買ってきてくれる。
私は、その香ばしい匂いが充満する車内で、呆然とするしかなかった。
「さて」と、フィリップが満足そうに言った。
「どうせなら、温かいうちに食べよう。君の家で」
私が「ええっ!?」と叫ぶ間もなく、車は再び、滑るように走り出していた。
超絶エリートCEOと、私の自宅で、フィッシュ・アンド・チップスを食べる。
そんな、あり得ない約束が、今、強制的に、結ばれてしまった。
私の人生は、一体、どうなってしまうのだろうか。




