第二十九章:平穏な古都の侵略者
フィリップは、幻でも妄想でもなく、現実の人間として、私の目の前で足を止めた。
そのグレーの瞳が、私の動揺を全て見透かしているかのように、静かに私を射抜いている。
パニックと驚きと、そしてほんの少しの恐怖。
それらがごちゃ混ぜになった私の口から、我ながら信じられない言葉が、悲鳴のように飛び出した。
「な、何してるんですか、こんなところで!? まさか、私のストーカー……!?」
言ってしまった。
最重要クライアントに対して、ストーカー呼ばわり。
ああ、もう私のキャリアは完全に終わった。
私は、自分のそのとんでもない失言に、さっと血の気が引き、思わず自分の口を手で覆った。
しかし、フィリップは、私のその無礼千万な言葉にも、眉一つ動かさなかった。
彼は、まるで道端でばったり会った旧友に話しかけるかのように、平然と、そして淡々と答えた。
「たまたま、こちらで仕事の打ち合わせがあっただけだ。君を見かけたから、声をかけた」
完璧な言い訳。
あまりにも自然で、疑う隙もない。
私は、自分の早とちりと大失言を恥じ、顔から火が出るのを感じた。
「そ、そうでしたか……。それは、大変、失礼いたしました……」
蚊の鳴くような声で謝るのが、やっとだった。
「少し、話がしたい」
フィリップが、静かに言った。
「近くのカフェで、お茶でもしないか」
それは、提案の形を取った、拒否権のない命令だった。
私が「でも」とか「しかし」とか言う前に、彼はすでに、近くにあるクラシックなティールームの方へと歩き出していた。
私は、なすすべもなく、その後をついていくしかなかった。
レースのカーテンがかかった、落ち着いた雰囲気のティールーム。
私たちは、窓際の席で向かい合って紅茶を飲んでいた。
気まずい沈黙が、テーブルの上に流れる。
その沈黙を破ったのは、フィリップだった。
彼は、私の姿を上から下まで値踏みするように一瞥すると、ふと呟いた。
「休日には、そんな格好もするんだな」
その言葉に、私の心臓がドキンと跳ねた。
そうだ。
今日の私は、ロンドンで着ているような、鎧のようなパンツスーツじゃない。
髪もきっちりまとめず、ただ下ろしているだけ。
服装も、リラックスした、小花柄のコットンのワンピースだ。
鉄の女ではない、「素」の私。
その、一番見られたくない姿を見られてしまったようで、たまらなく恥ずかしくなった。
「ええ、まあ……休みの日くらいは……」
しどろもどろに答える私を見て、彼は何を思ったのだろうか。
フィリップは、テーブルの上のスコーンには目もくれず、紅茶を一口飲むと、こともなげに、こう言った。
「そういう格好も、似合う」
何の飾り気もない、何の感情も乗っていない、ただの事実を告げるようなクールな口調。
なのに、そのストレートな褒め言葉は、私の心臓を、いとも簡単にかき乱した。
顔が、耳が、熱い。
彼の真意が全く読めず、私はさらに混乱するしかなかった。
「……あ、ありがとうございます」
なんとかそれだけを返した後も、当たり障りのない会話が続いた。
そして、紅茶を飲み終える頃、彼が尋ねてきた。
「この後の予定は?」
「いえ、特には……。そろそろ、ロンドンに帰ろうかと思っています」
私が正直にそう答えると、待ってましたとばかりに、彼は言った。
「そうか。なら、私が送っていこう」
「ええっ!? そんな、とんでもない! ご迷惑です! 私は、電車で帰りますから!」
私は、必死で、全力で断った。
これ以上、この男のペースに巻き込まれてたまるものか。
しかし、彼は私の抵抗など、全く意に介さなかった。
「私がそうしたいんだ。それに、車の方が早い。君にとっても、無駄な時間を使わずに済むだろう」
その、有無を言わさぬ合理的な理屈。
そして何より、「私がそうしたい」という彼の圧倒的な意志の前では、私の抵抗などまるで無意味だった。
フィリップがどこかにスマホで連絡をすると、ものの数分で、あの黒いベントレーがティールームの前に滑るように現れた。
「さあ、行こう」
そう促され、私は完全に諦めの境地で、再びその豪華すぎる車の後部座席へと吸い込まれた。
故郷での、私の穏やかな休日は、この街に現れた侵略者によって、完全に終わりを告げた。
これから、ロンドンまでの約二時間。
この息の詰まる密室で、この巨大な謎の塊のような男と、二人きりで過ごさなければならない。
私の頭は、新たなパニックで、もう爆発寸前だった。




