第三十三章:ハッピーフライデーの呼び出しと、すれ違う想い
地獄の一週間を共に乗り越えたことで、
チームには確かな一体感が生まれていた。
私の頭の中には、相変わらずフィリップという名の台風が居座っていたが、
仕事の忙しさが、幸いにも余計なことを考える隙を与えてはくれなかった。
そして、待ちに待った金曜日の午後。
私の会社には、二週間に一度だけ、午後三時で仕事を切り上げていい――
「ハッピーフライデー」という、天国のような制度がある。
今週分のタスクを完璧に片付けると、
私は、誰よりも早く帰る準備を始めた。
(さて、今日は何をしようかしら)
先週末の混乱が嘘のように、心は軽やかで、わくわくしていた。
先日買った、あのパステルブルーのワンピースを着て、
テート・モダンの新しい展示を観に行くのもいい。
あるいは、一人でゆっくりと映画でも観て、
美味しいデリを買い込んで帰るのも素敵だ。
――その完璧な金曜日の計画が、
スマホの震動一つで、あっけなく崩れ去ったのは、その時だった。
画面にポップアップ表示されたのは、
『The Fab Four』のグループチャット。
メッセージの送り主は、クロエだった。
クロエ:
『みんな、ごめん! 緊急じゃないんだけど、
今すぐ話を聞いてほしいの…! ちょっと、もう、泣きそう…(涙)』
ハッピーな恋に生きるクロエからの、らしくないメッセージ。
ただならぬ雰囲気を感じ取り、私の心臓がドキリと鳴った。
自分の計画なんて、一瞬で頭から消え去った。
親友の一大事だ。
エマ:
『クロエ、どうしたの!? 大丈夫!?』
エマ:
『今どこにいるの? すぐに行くから!』
すぐに、クロエから返信が来た。
『会社の近くのイタリアンにいるの…』
私は急いでジャケットを羽織り、デスクの上のバッグをひっつかんだ。
――その時だった。
「あ、あの、エマさん!」
背後から、少しだけ緊張した声が聞こえた。
振り返ると、トムが、意を決したような顔で、そこに立っていた。
「お疲れ様です。もし、この後、お時間があれば……」
その真剣な眼差しから、
彼が何を言おうとしているのか、なんとなく察しがついた。
月曜の夜、みんなで飲んだのは、本当に楽しかった。
チームの雰囲気も、驚くほど良くなった。
彼もきっと、その続きを――と思っていたのだろう。
だが今の私の頭は、泣きそうな親友のことで完全にいっぱいだった。
「ごめんなさい、トム!」
彼の言葉を遮るように、早口で言った。
「今すごく急いでるの! 何か用事なら、ごめん、週明けに聞くわね!」
悪気なく、しかし彼の目を見る余裕もなく、
そう言い放つと、嵐のようにオフィスを駆け抜けていった。
⸻
【トムの回想】
一人、フロアの真ん中に取り残される。
エマさんが去っていった方角を、僕は、ただ呆然と見つめていた。
月曜の夜の飲み会は、夢のようだった。
鬼だと思っていた上司が、
僕の仕事を、僕自身を、真っ直ぐに見て、褒めてくれた。
彼女の笑顔は、僕がこれまで見てきたどんなものよりも、魅力的だった。
もっと、彼女のことを知りたい。
仕事の上司としてだけでなく、一人の女性として。
この数日間、僕は、彼女にどうやって話しかけようか、
そればかりを考えていた。
今日の、この早上がりの日は、絶好のチャンスだと思っていた。
勇気を振り絞って、まずは、みんなでご飯でも――と誘うつもりだった。
それなのに。
彼女は、僕の言葉を聞き終える前に、
予定を優先して、行ってしまった。
あの慌てぶり。
そして、いつも完璧に整えられている彼女が見せた、プライベートの焦った顔。
(……そうだよな)
胸の奥で、何かが、すとんと落ちる音がした。
(あんなに綺麗で、仕事ができて、素敵な人なんだ。
きっと、大切な彼氏がいるに違いない)
あの慌てようは、きっと、彼氏との大事なデートに急いでいたのだ。
僕なんかが、気安く食事に誘おうなんて、
思い上がりも甚だしかった。
自分の中に芽生えかけていた、淡い、名前のない感情に、そっと蓋をする。
わかった。もう、勘違いするのはやめよう。
僕は、エマ・ウォーカーさんの、ただの部下だ。
これからは、きちんと一線を引いて、上司として彼女を尊敬していこう。
それ以上は、もう望むまい。
僕の短い恋は、始まる前に、あっけなく終わった。
⸻
一方、そんなトムの痛ましい決意など全く知らないエマは、
タクシーを捕まえ、ロンドンの街を走り抜けていた。
(クロエ、一体、何があったのかしら……)
親友を心配する気持ちで、彼女の頭は、完全いっぱいだった。




