第二十六章:理想の元カレと、口が裂けても言えない男
ほどなくして、兄のマークとその妻のソフィア、そして私の最愛の姪、五歳のリリーが「おじゃましまーす!」と元気よくやって来た。
「エマおばちゃん!」
リリーは私を見つけるなり、その小さな体を勢いよく私の足にぶつけてくる。私は彼女をぎゅっと抱きしめ、その柔らかい髪の匂いを吸い込んだ。ああ、この子の笑顔を見ているだけで、ロンドンでの戦いの傷が癒えていくようだ。
母が腕によりをかけて作ったローストチキンがテーブルの中央に鎮座し、父がとっておきの赤ワインのコルクを抜く。
こうして、予期せぬ家族ディナーは、和やかに始まった。
マーク夫婦の近況や、リリーの幼稚園でのお遊戯会の話、父が最近ハマっているガーデニングの話。たわいもない会話と、美味しい食事。
ロンドンでの緊張感が、少しずつ、少しずつ、解きほぐされていくのを感じていた。
そう、母があの質問を切り出すまでは。
「ところで、エマ」
食事が一段落し、デザートのアップルクランブルが運ばれてきた、まさにその時だった。
「仕事が順調なのは、本当に素晴らしいことだけど、あなたももう31よ。最近、本当に、これという、いい人はいないの?」
来た。
やっぱり、来た。
その言葉を合図に、父も兄夫婦も興味津々といった顔で、一斉に私に注目する。
リビングの空気が、一瞬にして「エマの恋愛事情聴取」のそれに変わった。
私は、練習してきたかのように完璧な笑顔を作って答えた。
「うーん、残念ながら、これといっては。今は仕事が恋人、ってことにしておこうかな」
「まあ、またそんなこと言って」
母はその答えに全く満足していない。
「ハリー君と別れてから、もう、かれこれ四年にもなるのよ?」
ハリー。
その名前が出た途端、家族の間に少しだけ感傷的で懐かしい空気が流れた。
そう。私の家族は、みんなハリーのことが大好きだったのだ。
「ハリー君は、本当にしっかりした考えを持った好青年だったからな。話していて、楽しかった」
父が昔を懐かしむように言う。知的で礼儀正しいハリーと、金融や世界情勢の話をするのが、父は好きだった。
「優しくて、気が利いて、本当に素敵な人だったわよねぇ」
母もうっとりと同調する。
背が高くてハンサムなハリーを、母は自慢の「未来の息子」のように思っていた。
彼が手土産に持ってくる花のセンスが、いつも素敵だった、と今でも言う。
私の家族にとって、ハリーは娘(あるいは妹)の恋人として完璧な男だった。
だからこそ、私と彼の破局は家族全体の大きな失望として記憶されている。
みんながハリーの思い出話に花を咲かせるのを聞きながら、私はグラスの中のロゼワインをただ黙って見つめていた。
そして、私の頭の中には、ハリーとは似ても似つかない別の男の顔が浮かんでいた。
氷のように冷たい、グレーの瞳。
(まさか、ここで、「実は最近……」なんて言えるはずがない)
「超絶イケメンだけど性格は史上最悪なCEOの家に、泥酔して担ぎ込まれまして。挙句、ゲロを吐きかけ、罵倒した挙句、なぜか気に入られたみたいなんです」
……口が裂けても言えない。
家族が愛した「理想の元カレ」の幻影と、誰にも説明不可能な「謎の男」の現実。
そのあまりにも大きなギャップの中で、私はどうすればいいのだろう。
このままでは追求がどこまでも続いてしまう。
私は、この空気を断ち切るために、強引に話題を変えることにした。
「それより、リリー! この間、動物園に行ったんだって? ライオンさんは、なんて鳴いてたの? おばちゃんにこっそり教えてくれる?」
私のその言葉に、リリーは「うん!」と目を輝かせ、「がおー!」と可愛らしい声で吠えてみせた。
その愛らしい姿に、家族の関心は一気にリリーへと移っていく。
父親も母親も、「まあ、上手ねえ!」と孫娘にデレデレだ。
ふぅ、と私は誰にも気づかれないように小さなため息をついた。
故郷に帰ってきても、私の人生はなかなかに一筋縄ではいかないらしい。
過去の恋の美しい幻影と、未来をかき乱す得体のしれない嵐。
その両方に、私はどう向き合っていけばいいのだろうか。
答えの出ない問いを抱えながら、私は家族の温かい笑い声にただ耳を傾けていた。




