第二十七章:兄の言葉と、故郷の夜の安らぎ
賑やかなディナーが終わり、リリーが眠そうに目をこすり始めた頃、そろそろお開きにするかなという空気が流れた。
母と兄嫁のソフィアがキッチンで後片付けを始め、父は寝ているリリーを愛おしそうに眺めている。
私が「手伝うわ」と腰を上げようとすると、兄のマークがリビングのソファから私を呼び止めた。
「エマ、いいよ、座ってて。疲れてるんだろ」
マークは地元の学校で歴史を教える教師をしている。昔から、穏やかで思慮深くて、ロンドンでバリバリ働く私とは正反対のタイプだ。
でも、彼はいつだって、私のことを一番理解してくれる、自慢の優しい兄だった。
二人でソファに並んで座ると、マークがぽつりと言った。
「さっき、母さんがああいうこと言って、悪かったな」
「ううん、いつものことだから。もう慣れたわ」
私が強がって笑うと、兄は優しい目で私を見て、静かに首を振った。
「気にしてるだろ。お前、昔からポーカーフェイスだけは得意だからな」
その、全てを見透かしたような言葉に、私の心の壁が少しだけ音を立てて崩れた。
「母さんたちに悪気はないんだ」と兄は続けた。
「ただ、純粋に、お前が幸せになってほしいだけなんだよ。特に、ハリー君のことがあったから、余計にな。あいつら、本当にハリーのこと、気に入ってたから…」
「……わかってる。わかってるんだけどね」
私は誰にも言ったことのない本音を、兄にだけこぼしていた。
「時々、息が詰まりそうになるのよ。ロンドンでは『鉄の女』だなんて言われて、気を抜く暇もない。
でも、こうして家に帰ってきたら、今度は『まだ結婚しないのか』って。
本当の私は、どこにいるんだろうって、時々、わからなくなるの」
フィリップのことはもちろん話せない。
でも、今、私が抱えている息苦しさだけは、兄に聞いてほしかった。
兄は私の言葉をただ黙って聞いてくれていた。
そして、私が話し終えるのを待ってから、静かに、でも力強く言った。
「お前の人生は、お前のものだよ、エマ」
「ロンドンで、鎧を着て戦ってるエマも、こうして実家に帰ってきて、少し疲れた顔で座ってるエマも、どっちも本当のお前だろ。
誰かと比べる必要なんてないし、母さんたちの期待に無理して応える必要もない。
お前が、お前のペースで、幸せだと思える道を見つければ、それでいいんだ」
そして、彼は少し照れくさそうに、こう付け加えてくれた。
「それに……。俺は、今のままのお前が、世界一、自慢の妹だよ」
その言葉が、私の心にじんわりと温かく染み渡っていった。
ロンドンで張り詰め続けていた糸が、ぷつりと切れたような、不思議な安堵感。
そうだ、私は一人で戦っているわけじゃなかった。
やがて、両親におやすみを言って、私は昔使っていた自分の部屋のベッドにもぐりこんだ。
少しだけ色褪せた花柄の壁紙も、学生時代から使っている本棚も、何もかもが懐かしい。
この部屋の匂いが、私を「ただのエマ」に戻してくれる。
兄の優しい言葉を、胸の中でお守りのように抱きしめる。
ロンドンでの激しい日々も、フィリップという名の巨大な謎も、今はもう遠い。
私は、この数週間で、初めて、何の心配も何の混乱もなく、ただ穏やかな気持ちで眠りの縁へと沈んでいった。
故郷の夜は、優しく静かに更けていく。
この束の間の平穏が、明日からの私にきっと新しい力を与えてくれる。
そんな確信を胸に抱きながら。




