第二十四章:バースへの逃避行と、知りたくなかった検索結果
あれから、どれくらい時間が経ったのだろうか。
フィリップという巨大な謎について考え続けていた私は、どうやら疲れ果ててソファの上で眠ってしまっていたらしい。
ふと目が覚め、壁の時計を見ると、針は午前十一時を指していた。
部屋には、私以外、誰もいない。
静寂が、昨夜の出来事が夢ではなかったことを、残酷なまでに物語っていた。
今日は、待ちに待った振替休日だ。
でも、一体何をすればいいのだろう。
クローゼットには、先日散財して手に入れた新しい服が眠っている。
だが、それを着て出かける気力も湧いてこない。
クロエやマヤ、オリヴィアは――いや、ダメだ。
今日は平日。みんな、それぞれの戦場で戦っている時間だ。
これ以上、私の個人的な混乱に付き合わせるわけにはいかない。
一人でロンドンの街をぶらつくのも、何となく気が乗らない。
今の私に必要なのは、刺激ではなく、平穏だ。
その時、ふと思いついた。
(そうだ。実家に帰ろう)
私の実家は、ロンドンから電車で一時間半ほどの場所にある、美しい古都バースだ。
ローマ時代からの歴史を持つ、穏やかで蜂蜜色の石造りの建物が並ぶ街。
今の私には、あの街の空気が何よりの薬になるかもしれない。
思い立ったら即行動。
私は手早く週末用のバッグに着替えと洗面用具を詰め込むと、アパートを飛び出し、パディントン駅へと向かった。
バース行きの特急列車に乗り込み、窓側の席に座る。
列車が滑るようにロンドンの喧騒から離れ、緑豊かな田園風景へと景色が変わっていくにつれて、私のささくれ立った心も少しずつ落ち着いていくのを感じた。
手持ち無沙汰に、iPhoneを取り出す。
親友たちとのグループチャットを遡って読んだり、インスタグラムの華やかな投稿をぼんやりと眺めたり――。
でも、ダメだ。
何をしても、心の片隅には、ずっとあの男がいる。
フィリップ・スターリング。
考えないようにすればするほど、彼の低い声や、あの全てを見透かすようなグレーの瞳が鮮明に蘇ってくる。
(検索しちゃダメ。絶対に、ダメよ、エマ)
私は、心の中で強く自分に言い聞かせた。
彼のことをこれ以上知ったところで、自分が惨めになるだけだ。
住む世界が違うのだから、関わってはいけない。
――でも。
私の指は、理性的な命令をいとも簡単に裏切った。
気づけば、検索窓に彼の名前を打ち込んでいた。
『Philip Sterling』
エンターキーを押した瞬間、彼の輝かしい経歴が画面いっぱいに表示された。
そして、その下に並ぶのは、私が一番見たくなかったゴシップ記事の見出しの数々。
『フィリップ・スターリング、アカデミー賞女優のアレクサンドラ・ケインとベネチアで密会か』
『BBCの看板ニュースキャスター、イザベラ・ロスとの電撃破局の真相は?』
『世界的スーパーモデル、ジゼル・ヴァーグが、彼との関係を匂わせる意味深投稿』
記事に載っている女性たちは、誰もが息をのむほど美しく、知的で、華やかだった。
世界中がその才能と美貌を認めるトップクラスの女性たち。
私は、スマホを持つ手が小さく震えているのに気づいた。
(……やっぱり、そうよね)
彼が住む世界と、私が住む世界。
その間には、天の川よりも深く、広い隔たりがある。
彼がこれまで愛してきた――あるいは遊んできた――女性たちと、初対面の男にゲロを吐きかけた、ただの広告代理店の主任。
比べるまでもない。
私なんて、彼の完璧な人生における、ほんの些細なバグ。珍事件。
面白いオモチャを見つけたくらいの、気まぐれな興味でしかないのだ。
自己嫌悪と惨めさで、胸が押しつぶされそうになる。
しかし。
そんな絶望的な気持ちのさらに奥深く。
心の中心に、小さな棘のように、昨夜の彼の言葉がずっと引っかかり続けていた。
『君のことが、気になっている』
理屈では、あり得ない。
状況証拠は全て「NO」と叫んでいる。
なのに――あの時の、少しだけ戸惑ったような、真剣な彼の瞳。
そしてその言葉だけが、どうしても私の頭から離れないのだ。
やがて、列車が速度を落とし、車窓の外に見慣れたバース・スパ駅の美しい駅舎が現れた。
私は、混乱した心を抱えたまま、スマホの画面をそっと閉じる。
束の間の休息のため、私は故郷の地に降り立った。
ロンドンの喧騒からは逃れても――フィリップ・スターリングという名の嵐は、どうやら私の心の中まで、静かについてきてしまったようだった




