第二十三章:氷の男のモノローグ
エマ・ウォーカーを乗せたベントレーが走り去った後、
俺は一人、自室のペントハウスに戻り、バーカウンターからラフロイグのボトルを取り出した。
重厚なクリスタルのグラスに、琥珀色の液体を注ぐ。
カラン――と音を立てて溶けていく氷が、今の俺の頭の中のようだ。
窓の外には、宝石を散りばめたようなロンドンの夜景が広がっている。
全てを手に入れ、全てを意のままに動かしてきた、俺の庭。
その完璧な世界の静寂の中で、俺は自分自身に問いかけていた。
(何故、俺はあんなことを言った?)
『君のことが、気になっている』
あの言葉は、計算されたものではなかった。
俺の鉄壁の理性を、いともたやすくすり抜けて、口から滑り落ちた本音。
――俺らしくもない。
全ての発端は、あの夜。
いつものバー『ザ・サイレント・マン』でのことだ。
退屈な社交パーティーを抜け出し、静かに一人で飲む。
それが、完璧にコントロールされた俺の日常における、唯一の気まぐれだった。
そこに、彼女がいた。
最初は、ただの「酔いつぶれた面倒な女」。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
バーテンダーのアーサーに厄介事を押し付けられ、舌打ちしながら介抱しようとしただけだ。
彼女が、俺のトム・フォードのスーツに吐瀉物をぶちまけた時、俺の感情は「怒り」と「侮蔑」しかなかった。
すぐにでもこの女を道端に放り出し、記憶から抹消してしまいたかった。
……だが、何かが違った。
呂律の回らない口で、彼女は仕事の愚痴をこぼしていた。
「ロジックが」「インサイトが」と、プロフェッショナルとしての断片を、泥酔した意識の中でも手放そうとしていなかった。
そして、理性を失ったその瞳の奥に、消すことのできない燃えるようなプライドの光が見えた。
その、アンバランスな姿が、妙に頭にこびりついた。
翌日、俺は軽い気持ちで部下に彼女の身元を調べさせた。
「エマ・ウォーカー」。
『アトラス・クリエイティブ』の主任。
有能だが、敵も多い。
「鉄の女」と呼ばれている、と。
その情報が、あの夜の無防備でだらしない姿と、全く結びつかない。
――面白い。
ちょうど新しい広告代理店を探していたのは事実だ。
だが、数多ある代理店の中から、あえて『アトラス・クリエイティブ』を指名し、彼女を責任者にしろと要求したのは、俺の気まぐれだ。
彼女が、俺の顔を見てどんな反応をするのか。
あの夜のことを、どう取り繕うのか。
ただ、その一点の好奇心。
完璧にコントロールされた俺の人生に現れた、ほんの些細なイレギュラー。
いわば、退屈しのぎのゲームのつもりだった。
会議室で再会した時の彼女の態度は、見事だった。
内心のパニックを完璧に押し殺し、「鉄の女」を演じきっていた。
だから、少し意地悪をしたくなった。
「一週間でプレゼンしろ」という無茶振りは、彼女のその完璧な仮面を、もう一度剥がしてやりたいというサディスティックな欲求からだ。
――だが、彼女は、俺の想像を遥かに超えてきた。
あのプレゼンテーションは、完璧だった。
ロジック、情熱、そして勝利への執念。
久しぶりに、心が動かされるのを感じた。
彼女は、俺が仕掛けたゲームの駒などではなかった。
対等なプレイヤーとして、俺の前に立ったのだ。
だから、祝勝会に顔を出したのも、ほとんど衝動だった。
部下たちに囲まれ、普段は見せないであろう柔らかい表情で笑う彼女の姿を見てみたいという、抗いがたい欲求に駆られた。
そして、最後に告げた、あの言葉。
「一線を引いてほしい」と、俺をまっすぐに見つめ返してきた、あの強い瞳に――
俺は、またしてもコントロールを失った。
なぜ、彼女が気になるのか。
その答えは、まだわからない。
鉄の鎧と、その下の脆さ。
計算されたプレゼンと、計算外の泥酔。
俺がこれまで出会ってきた、ただ媚びへつらうだけの女たちとは、あまりにも違う。
予測不可能で、手に負えない。
俺は、グラスに残っていたウイスキーを、一気に飲み干した。
なるほど。
俺は、自分の完璧なチェス盤の上に現れた、ルールブックにない動きをする、トリッキーな駒に――
ただ戸惑い、そして惹きつけられているのかもしれない。
「エマ・ウォーカー……」
面白い。
実に、面白いじゃないか。
俺は、ロンドンの夜景に向かって、久しぶりに心の底から不敵な笑みを浮かべていた。
このゲーム、もう少し続けてみるのも悪くない。




