第二十二章:妄想のミスター・ビッグと、現実的な親友の分析
バタン、と背中でドアの鍵をかけると、私はそのまま、ドアにもたれかかるようにして床に崩れ落ちた。
シーンと静まり返ったアパートの中で、私の頭の中だけが、嵐のように荒れ狂っていた。
『君のことが、気になっている』
『なぜかは、自分でもわからないが』
彼の低い声が、壊れたレコードのように、何度も何度もリフレインする。
私は立ち上がると、意味もなくリビングをうろうろと歩き回り始めた。
クッションを抱きしめてみたり、窓の外を眺めてみたり、冷蔵庫を開けてすぐに閉めたり。
どうしたって、落ち着かない。
(待って、待って、落ち着きなさい、私!)
私は自分の頭を、両手でポンポンと叩いた。
(整理しましょう。あの、彫刻のように美しくて、氷のように冷たくて、ベントレーに乗っている超絶エリートCEOのフィリップ・スターリングが、この私に? あの、初対面で彼の足元にゲロを吐きかけた、この私に?『気になっている』ですって?)
ありえない。 絶対に、ありえない! こんな展開、あまりにも出来すぎていて、まるで三流の恋愛小説じゃないの!
(……まさか)
一つの、恐ろしい可能性が、私の脳裏をよぎった。
(これは、全部、私の妄想なんじゃないの……?)
そうよ、きっとそうだわ! 『セックス・アンド・ザ・シティ』に憧れすぎて、仕事のストレスも限界に達して、ついに私の脳が、私だけに見える完璧なミスター・ビッグ(ただし性格は史上最悪)を創り出してしまったに違いない!
私は、自分の頬を力いっぱい、つねってみた。
「いった!」 ……痛い。
どうやら、現実らしい。 じゃあ、何? 私、本当におかしくなっちゃったの?
一人で考えていても、埒が明かない。
この暴走する思考を止められるのは、世界でただ一人しかいない。
私はスマホを掴むと、履歴の一番上にある名前をタップした。
数回のコールの後、眠そうな、不機嫌な声が聞こえてきた。
『……何よ、こんな時間に。世界でも滅亡したの?』
「オリヴィア!」
私は、マシンガンのような早口で、今夜起こった出来事を全てぶちまけた。
フィリップが祝勝会に現れたこと、強引に車に乗せられたこと、そして、最後に投げつけられた、あの謎めいた告白を。
「……ねえ、オリヴィア、私、やっぱりついに頭がおかしくなったんだと思うの! こんなこと、現実にあるわけないじゃない!」
私がパニック気味にそう訴えると、電話の向こうで、これまでで一番巨大なため息が聞こえた。
『……エマ。あんた、本気でそれを言ってるわけ?』
オリヴィアの声は、呆れを通り越して、もはや無の境地に達しているようだった。
『馬鹿じゃないの?』
『妄想? あんたが創り出したミスター・ビッグ? 寝言は寝てから言いなさい。いい? フィリップ・スターリングっていう男は、そもそも私たちの常識の物差しで測れるような人間じゃないのよ。一代で巨万の富を築いた男が、普通のサラリーマンと同じ思考回路で行動すると思ってることが、まず間違いなの』
「でも……!」
『それに』
と、オリヴィアは私の反論を遮った。
『もしかしたら、本当に、あんたのことが好きなのかもしれないじゃない』
「ありえない!」
思わず、叫んでいた。
『なんでよ。あんた、確かに第一印象は最悪だったけど、仕事はできるんでしょ? この一週間で、プロとしての根性は見せつけた。そういうギャップに惹かれる男だっているかもしれないでしょ。特に、彼みたいな完璧すぎる男は、自分と同じレベルで戦える女を、案外求めるものよ』
オリヴィアの、あまりにも冷静な分析。
それは、私の混乱した頭を少しだけクールダウンさせたが、到底、納得できるものではなかった。
『まあ、どっちにしろ、考えても無駄。とにかく、こっちは明日も朝から仕事なの。あんたもそうでしょ? いいから、さっさと寝なさい!』
一方的にそう告げると、電話は無慈悲に切られた。
ツー、ツー、という虚しい音を聞きながら、私はリビングのソファに、どさりと身を投げ出した。
オリヴィアの言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
(本当に、私のことが、好きなのかも……?)
その可能性を考えると、顔がカッと熱くなる。
でもすぐに、彼のあの冷たいグレーの瞳を思い出し、そんなはずはない、と激しく首を振った。
ベッドに入っても、アドレナリンと、混乱と、そしてほんの少しの期待のせいで、全く眠れそうになかった。
天井の染みを数えながら、私はこれから、あの謎だらけの男と、どう向き合えばいいのかを、考え続けていた。
仕事で、そして、もしかしたら、それ以外で。
答えの出ない問いを抱えたまま、エマ・ウォーカーの長い、長い夜は、まだ始まったばかりだった。




