第二十一章:密室の尋問と、夜の闇に投げられた謎
滑るように走るベントレーの中は、完璧な静寂に包まれていた。
運転席との間には分厚いガラスの仕切りがあり、この空間は、完全に私とフィリップの二人だけの密室だった。
ロンドンの華やかな夜景が、防音仕様の窓の外を、まるでサイレント映画のように流れていく。
その沈黙に、耐えきれなくなったのは私の方だった。
「……あの。一体、どこへ向かっているのですか?」
フィリップは、窓の外に視線を向けたまま、平然と答えた。
「君の家だ」
「なぜ、私の家を……ご存知なのですか」
「調べたからだ」
こともなげに、彼は言う。
まるで、天気の話でもするかのように。
「なぜ、そんなことを……」 私の頭の中は、「なぜ」という言葉で埋め尽くされていく。この男の行動は、何一つ理解できない。
私は、震えそうになる声を必死で抑え、勇気を振り絞って、一番の疑問をぶつけた。
「なぜ、私をお送りくださるのですか? そもそも、私の第一印象は、最悪だったはずです。迷惑だった、と、あなたご自身がおっしゃいましたよね」
フィリップは、そこで初めて、私の方へと顔を向けた。そのグレーの瞳は、相変わらず何を考えているのか読めない。 彼は少しの間を置いて、まるで教科書を読み上げるかのように、合理的な、しかし全く心のこもっていない理由を述べた。
「ビジネスパートナーが、泥酔して他人に迷惑をかける姿を、再び目撃するわけにはいかないからだ。君の自己管理能力に疑問符がつけば、我々のプロジェクト全体に影響が出かねん」
その、あまりにも理屈っぽい言い方に、私の胸の奥で、何かがカチンと音を立てた。
「いつもあのような状態ではありません。あれは、たまたま……色々なことが、重なっただけです」
私の精一杯の反論に、彼は何の反応も示さなかった。
やがて、会話が途切れた頃、車は見慣れた私のアパートの前で、静かに停車した。
私は、車から降りる前に、毅然とした態度でフィリップに向き直った。これ以上、この男のペースに巻き込まれるわけにはいかない。
「スターリング様。ご理解いただけたかと存じますが、私はプロとして、この仕事に人生を賭けております。今後は、ビジネスパートナーとして、お互いに一線を引いたお付き合いを、よろしくお願い申し上げます」
これは、私の決意表明だ。
これ以上、私のプライベートに踏み込んでくれるなという、最後の防衛線。
フィリップは、私の言葉を黙って聞いていた。そして、
「……そうか」
とだけ、短く呟いた。
私は、これで彼との奇妙な関係も終わりだと、安堵しながら車を降りた。
アパートのドアの前で、バッグの中から鍵を探す。
いつもならすぐに見つかるはずの鍵が、焦る気持ちのせいで、なかなか見つからない。
その時だった。 走り去ったはずの車のドアが、静かに開く音がした。
振り返ると、フィリップが車から降り、私の後ろに、いつの間にか立っていた。
「え……?」
驚く私を、彼は、これまで見たこともないような、少しだけ困惑した、真剣な眼差しで見つめていた。
「君の言う通りだ。ビジネスには、一線を引くべきだろう」
彼は、低い声で、ゆっくりと言った。
「だが、一つだけ、言っておく」
彼は一歩、私に近づいた。夜の闇の中で、彼のグレーの瞳が、不思議な光を帯びて見える。
「君のことが、気になっている」
「……え?」
「なぜかは、自分でもわからないが」
それだけを、まるで謎かけのように言い残すと、フィリップは今度こそ車に乗り込み、夜の闇へと、音もなく消えていった。
玄関の前に、一人、取り残される。
「……気になっている?」
彼の最後の言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
好き、というわけではない。好意ですらないかもしれない。
でも、無視できない何か。
私は、ようやく見つけ出した鍵でドアを開けると、そのまま、ドアにもたれかかるようにして、その場に崩れ落ちた。
彼の行動は、何もかもが謎だらけだ。
私を罵倒した、氷の男。
私を強引に車に乗せた、支配的な男。
そして、最後に少しだけ本音を漏らした、戸惑うような顔の男。 一体、どれが本当の彼なの?
私の頭の中は、フィリップ・スターリングという、巨大で、複雑で、そして恐ろしく魅力的な謎で、完全に埋め尽くされてしまっていた。
平穏を願ったはずの私の日常は、どうやら、とんでもない迷宮へと迷い込んでしまったらしい。




