第二節 夜間強襲攻撃-03
十二月八日 午後六時五十五分
オアフ島北岸 SB-2第三号輸送艦
意外にも帝國陸軍は列強陸軍の中で上陸戦に並々ならぬ興味を抱いていた稀有な存在であった。ガリポリ上陸作戦にて辛酸を嘗めた彼らは、第一次世界大戦が終わると四方を海に囲まれた祖国の防衛を名目に――実際のところは第一仮想敵国である米国が居座るフィリピンに戦力を送り込むために上陸戦に適した船艇の研究が熱心に進められ、それは大発動艇や揚陸艦という存在として対中共戦である支那事変で大きな威力を発揮した。その優秀さは同様に中共と戦火を交える米国が大発動艇を数隻購入の上で米国流に手直したLCVPを開発し、量産を実行したことからも伺える。もっとも導入コストから大発動艇の開発元である陸海軍ともに無尽蔵近く生産されたLCVPを廉価で譲り受けそれを多数装備していたが。
わざわざ揚陸艇を太平洋の向こう側から持ち込む手間を惜しんだ米国が帝國に大量のLCVPの生産を依頼し、その結果として次々に和製LCVPが東シナ海を超えて大陸に送り込まれていた様子を傍目で見ながら帝國陸軍は上陸戦闘において迅速にかつ強力な戦力を短時間で敵地へ送り込むために大型揚陸艇の研究を加速させた。それは中古貨物船を改造した【五郎丸】・【よりひめ丸】、また新造試験艇である【蛟龍】を経て、一九三〇年代末には遂に[SS艇]なる大型上陸艇の出現に結実した。大発動艇と同様に米国へ売り込み、そして委託生産等の大きな利益を得ようとした陸軍の思惑は日米関係の急速なる悪化の前に取らぬ狸の皮算用と化していたが、その研究成果はハワイ攻略という大博打を真剣に考え始めた帝國陸海軍上層部の目に当然のように止まり、海軍の全面的な協力を得たそれは短期間で太平洋を横断するに充分な体格である二千五百トン級の船体を持つまで肥大化していた。
そうして誕生したのが海軍予算で建造された【第二〇一号型揚陸艦】と陸軍予算で建造された一卵性双子の【SB2型揚陸艦】であった。より建造期間を圧縮しうるブロック工法を全面的に取り入れた彼女らは開戦までに総勢四十隻という大所帯が陸海軍に引き渡されていたが、その全てがオアフ島攻略作戦に投じられていたのである。
そうして、その姉妹の一隻である[SB-2第三号艦]という味気のない名前の彼女は全長百二十メートルの艦内に戦車一個中隊と一個自動車化歩兵中隊を入れ込み、出発地である広島港から南洋諸島で休息を取ったとはいえ、姉妹ともども遥々オアフ島沖合まで歩みを進めてきたのであった。なお、彼女達の燃料タンクは底を尽きかけていたが問題はなかった。それは予定された結果であった。彼女を運用する船舶工兵は既にフネを離れて陸戦に参加する覚悟を固めている。
そんな彼女の艦内は乗員を夜目に慣らすため随分前から必要最低限のものを除き照明が消された薄暗い空間と化していたが、ビーチングを直前に控えた彼女の車両甲板はアイドリング状態に移行していたディーゼルエンジンの駆動音と一向に鳴り止む気配のない戦艦部隊の砲声が混ざりあった落ち着かない騒がしい空間となっていた。
それ故に、キューポラのハッチから身を乗り出して深呼吸したいという無理な感情を一瞬抱いた田尻林之助陸軍中佐は車外に漂う鼻につく排気ガスを思い浮かべると狭い砲塔内で控えめに息を吐いたが、それでも何となく落ち着かず額に巻いた必勝鉢巻を締め直した。
彼は支那事変において鹵獲した中華人民解放軍の[BT-7]をその快速性能に物を言わせて縦横無尽に走り回らせた経験を持つ歴戦の戦車兵であり、それ相応の場数を踏んでいたはずだったが、それは引っ切り無しに変化する戦況を常に洞察しなければならない忙しない戦場においてであり、狭い空間の中に詰め込まれ、じっと時が来るまで耐える現状と比べることはできなかった。
――いや、対中共戦が一段落した後の空気よりマシか。彼はかつて経験した言葉にしにくい居心地が悪い立場を思い出しながらそう思った。当初、彼の部隊が使っていた[九五式軽戦車]――通称[ハ号戦車]がろくな戦果を上げる前に人民解放軍の対戦車砲陣地の前に壊滅した後に生存者は即席歩兵となっていたが、彼が率いた中隊は鹵獲した[BT-7]を軽く修理した上で独断で戦力として活用したのだった。それ故に大戦果を上げた彼の存在は陸軍にとってあまり都合のいい存在ではなかった。事実、彼らの戦果を報じる新聞報道ではあたかも[ハ号]の功績のように紹介されている。
とはいえ、彼はたどり着いた現状にどちらかといえば満足していた。陸軍にとって花形の大陸方面に展開した師団から事実上追放された彼は僻地勤務を転々とした後に海上機動師団なる新部隊に流れ着いたが、そこで彼は昭和十六年の日本において最高の軍馬に有りつけていたのだから。
彼が苦節の後に手に入れた軍馬は制式名称[海軍九七式戦車]という陸軍兵が動かすには不適切な名前を持つ戦車だった。制式名称の中に「海軍」、そして中戦車や軽戦車という陸軍が定めた区分に従わず単に「戦車」と名乗っていることからも、この車両が碌でもない経緯を経て製造されたことは充分に推測できた。
この戦車が製造に至った理由は元を辿れば陸軍内部における派閥対立が始まりであった。
天皇親政と大陸における戦闘への不関与を唱えた俗に言う皇道派、そして対抗勢力である現状の政治制度を活用しつつ陸軍の発言力を増幅と大陸において中共と戦う英米に追従し積極的に介入を目指す統制派の対立は一九三〇年代に入ると三月事件や十月事件といった皇道派によるクーデター未遂事件として表明化し、いよいよ対立は過激化していった。それに足を引きずられる形で海軍内部においても五・一五事件以来低調であった青年将校の政治主張が活発化し、陸海軍は共に政治色の強い時期を迎えようとしていた。一九三四年には陸軍士官学校生徒と皇道派青年将校がクーデターを計画した陸軍士官学校事件、翌一九三五年早春には海軍青年将校数名が国家社会主義者と同調してクーデターを企てたとして拘束された海軍不穏分子事件が生起したが、同年夏に両派の対立は新たなる段階を迎えた。
当時の陸軍軍務局長である統制派の重鎮である永田鉄山の斬殺を試みた皇道派の相沢三郎陸軍中佐が白昼堂々と局長室へ闖入し、同室に居合わせた「ある海軍中尉」に討伐されるという事件が発生したのである。事件発生時に軍内部の綱紀粛正に関する打ち合わせに海軍側の使者として出席していた「ある海軍中尉」は軍刀を振り上げた相沢を永田や東京憲兵隊長である新見英夫大佐の目の前で斬り捨てたのであった。この俗に言う相沢事件により海軍は統制派の重鎮である永田鉄山に貸しをつくると共に皇道派は海軍を統制派に次ぐ敵対勢力として認識するようになったのである。
こうして統制派・皇道派、そして海軍の不毛なる戦いは一九三六年二月二十六日に発生した帝都不祥事事件において劇的な結末を迎えることとなった。雪積もる帝都中枢に現れた叛乱軍が見たものは首相官邸を始めとする重要施設に近く阻止線を築いた臨戦態勢の海軍陸戦隊、そして警視庁特別警備隊の姿だった。
相沢事件の功から二階級特進を果たし、なおも不穏分子の調査にあたっていた「ある海軍少佐」は皇道派の一団が再三クーデターを計画しているという情報を入手していたが、この機会において皇道派の一掃を計画する統制派、そして皇道派思想の蔓延により機能停止に陥っていた憲兵隊により発生阻止は不可能とされるほど状況は悪化していた。当時の総理大臣である岡田首相は海軍の退役大将であることもあり、直ちに海軍は陸戦隊を横須賀に集結させる等の措置をとったが、本来それを阻止すべき組織が動かない故に彼らはリスキーな手段を打って出た。クーデター寸前まで標的となるだろう政府重鎮及び警視庁に火急を知らせず、クーデター当日の深夜に帝都中枢を先制的に制圧し、政府要人の救出及び警視庁への治安出動要請を行ったのである。もちろん、帝都に展開した海軍陸戦隊の先頭には「ある海軍少佐」の姿があったことは言うまでもない。
なお「ある海軍少佐」は事件の後に陸軍青年将校界隈において暗殺待望論が激しく議論されるようになったこと、そして何よりも永田の命の恩人であり、叛乱阻止に大きな功績を上げた内偵将校というあまりにも危険な――次にクーデターを起こすのは彼ではないかという疑念から再度の二階級特進と共に海上勤務として外南洋に派遣を命じられるという実質的島流しを受けることになったが、その地で国家的英雄の名声を得るのはまた別の話である。
それはともかく、帝都不祥事事件を機に皇道派は壊滅。統制派も叛乱の阻止に失敗したことを境に沈黙を決め込んだ状況下において海軍陸戦隊への予算割当が大幅に増加したことは当然の結末であった。それまで中国大陸における常設警備部隊を除いて艦船乗員を転用して編成する場合わせ的存在であった海軍陸戦隊に本格的常設旅団が設置されると、彼らに機甲戦力を付与することが発案されたのは自然の成り行きであった。
とはいえ、やはり陸軍はこれを良しとすることはできなかった。海軍陸戦隊が強化されることは陸軍の存在意義にも関わる大問題であった。とりわけ、彼らは海軍陸戦隊が欲した[九七式中戦車チハ]の導入に考えうる全ての手段をもって妨害を試みた結果として海軍陸戦隊は制式採用した装備を満足に入手することすらできないという状況に陥っていた。陸軍としては当然の対応だった。自分たちが苦労して気に入れた新型戦車をのうのうと「敵」に手渡すわけにはいかない。
だが、この問題に関していえば海軍陸戦隊の方が一枚上手であった。永田に再度の政治問題化をちらつかせながら、海軍は[チハ]の導入に関して興味を失ったこと、海軍は[チハ]をベースとした独自の車両に関心を持っていること、陸軍が危惧する[チハ]導入遅延は発生しえないことを伝え、海軍が独自に[チハ]を改良した戦車を導入することを認めさせたのである。
統制派の元締めが首を縦に振った後は話が早かった。海軍は既に用意していた改良案を三菱重工に伝え、それは発注から一年と経たない一九四〇年初頭には試作車として姿を現していた。航空機に関しては無茶振りを常とする海軍が今回に限って実現可能な要望に留まっていたことが早期完成の大きな理由だった。また陸軍が計画していた[チハ改]及び後継である[仮称一式中戦車チへ]のデータが流用できたことも早期完成の手助けとなった。
かくして[海軍九七式戦車]なる奇妙な名前の戦車が完成したのである。陸軍が運用する[チハ]の血筋を濃く継承するこれらの車両だったが、その特徴は何と言っても異国情緒漂う足廻りであろう。それは驚くべきことにクリスティー式サスペンションを採用していたのだ。もっとも、それは完全なるデッドコピーであった。支那事変において大量に鹵獲された[BT系列戦車]を解析していた三菱重工は海軍が求めた「陸軍のチハより速い」という何と戦っているのかわからない要求をソ連が極めたクリスティー式サスペンションをそのまま移植することによって実現したのであった。また、これと併せて[チへ]にて搭載が予定されていた統制型一〇〇式発動機V型十二気筒をエンジンとして採用することによって、本車は路上最大速度時速五十キロという帝國装軌車両随一の高速を手に入れている。ちなみに海軍陸戦隊は本車と本車の車体を使用した装甲兵員輸送車(APC)を組み合わせた高速機動部隊を思い描いていたが、実現は当分先の話だった。
またリベット止であった[チハ]と違って電気溶接と平面ボルトを多用し、合わせて前面装甲を[チハ]の倍である五十ミリまで増加させていることは生存性能の向上に大きく関与していた。これは二度も上海において激戦を繰り広げた海軍陸戦隊にとって交戦距離が短い市街地戦に必要な処置として求められたものだった。もっとも、その要求が三菱重工側に伝えられる際には[チハ]と撃ち合って勝てる程度の装甲という冗談交じりの改善要望があったのも事実だが。
攻撃面においては[チハ]と同様の[九七式五十七ミリ戦車砲]と装備する点に関しては同一であった。[チハ改]において搭載が予定されていた[一式四十七ミリ戦車砲]の搭載も検討されたが、砲そのものの開発が間に合わないことから断念されている。ただし、砲塔後部の機関銃が主砲と同軸ではないものの、砲塔正面に移されていることは大きな変化であった。歩兵が肉薄しやすい市街地戦での対歩兵能力向上のための施策であったが、武装が砲塔前面に集中して配置されたため砲塔内部のスペースが広がり乗員からも好評だった。
このように[チハ]を超越すべき存在として開発された[海軍九七式戦車]は一九四〇年下旬から順次生産が始まり、海軍陸戦隊に配備されると同時に天敵であるはず陸軍部隊の一部にも供与されていた。ハワイ攻略作戦にあたり足の早い戦車が一両でも多く必要であるという特例措置によるものであったが、現場では特に混乱は生じなかった。支那事変で共に血を流す前線の将兵にとっては上層部の政治的対立など関係ないことであり、身内で揉めている余裕は全くなかった。特に本音をいえば大陸方面に戦力を集中させたい陸軍が妥協の上、ハワイ方面に割いた強化海洋編制師団改め海上機動師団はその性質から支那事変から海軍陸戦隊と関わり合いが強く、両者の関係は良好であった。
なお本車は当初、海軍ロ号戦車(海軍陸戦隊にとって一番目の戦車である八九式中戦車をイ号とした)と部内で呼ばれていたため、それに因んで[カロ車]とも呼ばれていたが、昭和十六年においては誰が言い始めたか定かではないものの、「海軍陸戦隊のチハ」から[マリーン・チハ]なるけったいな渾名が定着していた。
『まもなく着岸する。総員衝撃に備えよ。』
車両甲板のスピーカーから陸軍将校にも拘らず艦長という奇特な役職を任された船舶工兵将校の聞き慣れた声が木霊し、それから寸刻を経てフネ全体が小刻みに揺れた。田尻はもう一度小さく息を吸い、キューポラから身を乗り出した。心地よくない臭いが充満する空間であったが、戦車をフネの外に導くためには仕方がなかった。
ディーゼルの鼓動を掻き消すようにけたたましく電子ブサーが鳴り響くと同時に前方の揚陸ランプが轟音をたてながら、ゆっくりと観音開き式に開いていく。その隙間から至る所で小さな炎が揺らめく沿岸の村落が見えた。だが、田尻の視線は艦内のいずこから現れた船舶工兵が揚陸ランプがきちんと接地しているか確認している動作に釘付けになっていた。やがて彼らは緑色の光を発するカンテラを掲げ、田尻に道が開いたことを示した。
「揚陸始め。戦車前進。」
緑色の光が灯ると共に田尻はヘッドセット越しにそう命じると熟練操縦士が操る鋼鉄の軍馬は注意深く揚陸ランプを通り過ぎた。田尻は信号手の役割を担った船舶工兵に手を上げて感謝の意を示すことも忘れない。すぐに[マリーン・チハ]はノースショアの美しい海岸に降り立った。履帯が砂浜をしっかりと掴み、統制型百式発動機は快調に咆哮を上げた。クリスティー式サスペンションという稀代の馬具を得た鋼鉄の軍馬は硝煙の臭いが染み付いた夜風の中を鋭く加速していく。戦車とはこうでなくては。大陸にて[BT戦車]が持つハーキュリーズを思わせる早馬ぶりにすっかり魅せられていた田尻は素直にそう感じた。なお、彼のように[BT]シリーズの機動性に魂を奪われたのは千葉の陸軍戦車学校も同様らしく彼らは[チへ]にクスリティー式サスペンションを採用するように強固に主張し、従来の足回りを推す陸軍参謀本部と対立していると聞く。
田尻はこのまま疾風を堪能したい欲望を抑えて素早く車内へ半身を戻した。戦場を飛び交う無線によれば既に先行した海軍陸戦隊の水陸機動団が橋頭堡を確保し、一部の部隊は沿岸村落の制圧に移行しているようだが、用心に越したことはない。
田尻が乗る[マリーン・チハ]とその僚車は程なくして砂浜から変哲もない陸地へ進み、海軍陸戦隊員の誘導を受けながら連隊合流地点に向かった。陸上の王者の姿に一仕事を終えて土煙に汚れた海軍陸戦隊員達が顔をほころばせながら進路を教えてくれた。
合流地点には既に田尻より一足先に上陸を果たした捜索連隊の[百式水陸両用戦車]が屯していた。一九三〇年代初頭に帝國陸軍が開発した[ビッカース水陸両用戦車]をベースとした試作車[SR-Ⅱ]をベースに装甲厚の増加(それでも最大装甲厚12ミリであったが)と九四式三十七ミリ砲を搭載するという改良を施した上で陸軍及び海軍陸戦隊に配備されたそれは豆戦車であったが、攻勢正面を突き進む田尻ら[マリーン・チハ]部隊の後方を続行することになっている。なお、どの車両も等しく砲塔に白い帯を巻いていたがそれは味方識別のための塗装であった。
田尻らの本隊に遅れること数分後、[マリーン・チハ]と同じ車体を持ちながら砲塔の代わりに簡易な戦闘室と海軍の旧式高角砲である四十口径[三年式]八センチ高角砲(実口径七十六・二ミリ)を持った[海軍八センチ自走砲]――こちらも田尻の[マリーン・チハ]と同様に陸軍兵が運用する自走砲と歩兵を積んだトラックが合流した。オートバイで田尻の戦車に駆け寄った海軍陸戦隊の伝令は沿岸部の米軍部隊はいずれも小部隊であり、既に壊滅もしくは山地へ後退していることを伝えた。それは作戦がオアフ島南部への突進に移行しつつあることを示していた。
彼はチラリと腕時計に目線を送った。暗がりの中で見づらかったが、時計の針は一九一〇時を指そうとしていた。彼は脳裏に詰め込んだ作戦のタイムテーブルを広げる。あと五分後にはオアフ島中部に破壊を振りまいている艦砲射撃の標的がオアフ島北岸ここノースショアの南方から島中部へと伸びる州道付近に変更され、三十分の間に目標域を徐々に北上させながら最終的に真珠湾の北に位置するミリラニまでの縦深地域に対して陣地制圧を目的とした仕上げとなる砲撃が行われるはずだった。そして最終砲撃にてショフィールド駐屯地を中心とする一帯に対して大口径煙幕弾が投射され、戦艦部隊は予定された支援砲撃を終える。
その艦砲射撃に応じて田尻は進撃しなければならなかったが、彼に任された役割はそう複雑なことではなかった。艦砲射撃の巻き添えに気をつけながら島中部へ戦車連隊を進出させ、後は遮二無二に南への突進するだけであった。彼には夜明けまでにミリラニというパイナップル農園が広がる一帯まで、可能であるならば更にその南のワイビオ――真珠湾の目と鼻の先まで進出することが求められていた。直線距離にして多めに見積もって約二十五キロ。日の出は〇六四五時と聞かされていたから残り時間は約十二時間。気兼ねなく夜道をドライブするには充分すぎる時間だがあの米軍の防御陣地を突破するのに、どれだけ時間が奪われるか予想さえできなかった。そもそも突破なんてできるのか? そんな疑念が田尻の脳裏をよぎる。
田尻は連隊全車に州道へ向かうように命じながら自らが任された戦力の価値を再確認した。彼が率いる戦車隊はオアフ島攻略の中核的戦力であり、最も打撃力を有する部隊であることに疑いはなかった。実際のところ少数の自走砲――それも旧式高角砲を搭載した直射砲でしかない砲兵隊しか帯同していないオアフ島攻略部隊にとって田尻が率いる戦車連隊は最大の火力を持つ陸上戦力であった。もし、彼の部隊が敗走するようなことになれば作戦そのものが失敗することを意味する。予備戦力を用意する余裕など存在しなかった。
空挺部隊が戦線後方に乱入することは前もって聞かされていたが、貴重な戦力を遠慮なく突出させるという初手から振り構わない作戦――成功すれば敵を分断・各個撃破しうるが失敗が敵中孤立という致命的な状況に陥るというハイリスクな戦法をとることに田尻は改めて内心で苦笑いを浮かべた。されど彼はこうも思った。
――成功は大胆不敵の子供。
格式高い家柄から体に染み付いたかつての偉人の格言が脳裏に浮かぶ。十九世紀において内政・外政問わず辣腕を振るったイギリスの政治家ベンジャミン・ディズレーリの言葉を思い出しながら田尻は彼のはるか頭上を唸りを上げて飛翔していく大口径砲弾の咆哮を五十ミリの表面硬化鋼装甲越しに聞いた。
彼は麾下の各車両に砲撃によるクレーターに注意を払いつつ谷間を抜ける州道へ突入することを指示する。併せて幽霊にも注意するように付け加えると連隊に割り当てられた無線の周波数には苦笑が溢れた。彼らが進撃する地域はかつてカメハメハ一世のハワイ統一時に最大の激戦地であり、討ち死にした幽霊がよく目撃される地であることは地勢を彼に説明した参謀の一人が教えてくれた。もちろん、その参謀は冗談交じりにそれを口にしていたが。
彼が先鋒を務める戦車連隊は遠くの空で煌めく照明弾でほのかに照らされた州道へ突き進んでいった。第一の目的地であるショフィールド駐屯地まで約十キロ強の道のりであった。
次回の更新は11月20日前後を予定していますが、遅れてしまうかもしれません。少なくとも11月中には投稿したいと思っております。これからも本シリーズをよろしくお願いします。




