面影
仕事を終えたクルルは重い足取りで診療所への道を歩いていた。
最近、胸の奥が落ち着かない。
理由は分かっている。
シャルロットだった。
告白されてから、クルルはずっと自分の感情と向き合わされていた。
あの時は断った。
断るしかなかった。
記憶を失った今だからこその感情かもしれないと思ったからだ。
いつか全てを思い出した時、公爵令嬢だった彼女は後悔するかもしれない。
そう考えた。
だから、自分は正しいことをしたはずだった。
そのはずなのに、最近はシャルロットの笑顔を見るたびに胸が苦しくなる。
自分を見て嬉しそうにする顔、名前を呼ぶ声、些細なことで笑う姿、全部が愛おしい。
気づけば、クルル自身がシャルロットに絆されていた。
だからこそシャルロットの記憶が戻ることが怖かった。
クルルはシャルロットが社交界デビューを果たした時から、近くで見てきた。
シャルロットがどれほど気高い令嬢だったか。
どれほど真面目で、どれほど責任感が強くて、どれほど自分自身を追い詰める人間だったか。
もし記憶を取り戻したら、自分がセシリアを殺そうとしたことを思い出したら。
シッティン家が滅んだことを思い出したら。
きっと自分を許さない。
そして、自ら皇太子のもとへ行くかもしれない。
罪を償うために、罰を受けようとするかもしれない。
今のシャルロットなら本気でそうする。
だからこそクルルは、記憶が戻らないことを願っていた。
ひどく身勝手な願いだと分かっていても、それでも願わずにはいられなかった。
診療所の扉を開く。
「ただいま」
返事はない。
オーウェンはまだ戻っていないらしく、静かな家だった。
クルルは居間へ向かう。
そして、足が止まった。
呼吸が止まったような気がした。
そこにいたのはシャルロットだった。
だが、いつものシャルロットではない。
長い金髪は丁寧に結い上げられている。
薄く施された化粧に背筋を伸ばした立ち姿。
質素な服を着ているにもかかわらず、そこにいるのは間違いなく、クルルが昔から知っているシッティン公爵令嬢シャルロットだった。
心臓が嫌な音を立てる。
背筋が冷える。
頭の中が真っ白になる。
まさか、そんなはずは。
いや。
でも、目の前の姿はあまりにも、あまりにも昔のままでクルルは言葉を失った。
記憶を取り戻したのか。
その考えが頭をよぎった瞬間。
全身から血の気が引いた。
もし本当に思い出したのなら。
もう終わりだ。
シャルロットは自分自身を責める。
過去を知る。
罪を背負う。
そしていつか、クルルたちの元を去る。
そんな未来が脳裏に浮かぶ。
嫌だった。
恐ろしいほど嫌だった。
気づいた時には、シャルロットを失うことを考えるだけで息が苦しくなっていた。
いつからこんなふうになったのだろう。
最初はただ助けたかっただけだった。
幸せになってほしかっただけだった。
それなのに今は、彼女がいなくなる未来を想像するだけで怖い。
シャルロットは首を傾げる。
「どうしたの?」
その声はいつも通りだった。
柔らかくて、優しくて、何も知らないような声。
だがクルルには答えられなかった。
喉が張り付いたように動かない。
目の前の少女が、今にも自分の知らない場所へ行ってしまいそうで。
ただ見つめることしかできなかった。
――頼む。
心の奥で願う。
どうかまだ思い出さないでくれ。
どうか今は、まだ。
クルルは冷え切った指先を握り締めながら、目の前のシャルロットを見つめ続けていた。




