少しだけ近い距離
今日は朝からなんだか落ち着かなかった。
理由は分かっている。
オーウェンがいないからだ。
朝食の時、オーウェンはやけに機嫌よく身支度を整えていた。
「今日は帰らない」
そう言った瞬間、シャルロットは目を丸くした。
「帰らないの?」
「ああ」
「どうして?」
「恋人と過ごすから」
あまりにも堂々とした答えだった。
オーウェンは平然としている。
一方でシャルロットは顔が熱くなった。
恋人。
そういえばオーウェンにはパン屋の恋人がいた。
時々話には聞いていたけれど、改めて言われるとなんだか照れる。
「じゃあ、明日の朝まで留守?」
「そういうこと」
オーウェンは笑った。
「仲良くやれよ」
何が仲良くやれよなのか。
そう思ったけれど、聞く前にオーウェンは出ていってしまった。
残されたのは、クルルとシャルロットだけだった。
昼前になって、クルルがシャルロットを買い物に誘った。
「買い物でも行くか」
「買い物?」
「夕飯の材料」
「行く!」
シャルロットは即答すると、クルルが少し笑った。
「元気だな」
「もちろんよ」
そう答えながらも。
内心は少し緊張していた。
考えてみれば、二人だけで出かけるのは初めてに近い。
今まではオーウェンがいたり、街で偶然会ったり。
そんなことばかりだった。
だから今日は少し違う。
二人きり。
そう考えるだけで胸がそわそわした。
街へ向かう道。
クルルはいつも通りだった。
本当にいつも通り。
空が青いね、と言えば、
「そうだね」
と返す。
パン屋からいい匂いがする、と言えば、
「腹減るな」
と返す。
変に意識している様子などまるでない。
シャルロットだけが落ち着かなかった。
どうしてだろう。
隣を歩いているだけなのに。
少し距離が近くなると気になってしまう。
声を聞くだけで嬉しくなる。
変なの。
そう思いながら歩いていると、
「あっ」
前から走ってきた子供がぶつかった。
避けようとして。
足がもつれる。
身体が傾く。
転ぶ。
そう思った。
けれど、
「危ない」
ぐい、と腕を引かれた、次の瞬間、身体が何かにぶつかる。
いや、違う、支えられていた。
「大丈夫?」
耳元で声がする。
近い。
驚くほど近い。
シャルロットは目を見開いた。
クルルの腕が自分の身体を支えている。
大きな手。
しっかりした腕。
思ったより硬い胸板。
ふわりと風が吹く。
心臓が跳ねた。
「シャルロット?」
「……っ」
声が出ない。
顔が熱い。
クルルは不思議そうな顔をしている。
まるで何も感じていないみたいに。
「どこか痛めた?」
「だ、大丈夫よ!」
慌てて離れる。
クルルは首を傾げた。
「なら良かった」
それだけだった。
それだけ。
本当にそれだけ。
なのに、シャルロットの心臓は全然落ち着いてくれなかった。
買い物を続けながらも、さっきのことばかり思い出す。
大きな手。
低い声。
支えられた感覚。
そして、ふと気付く。
クルルは男性なのだ。
当たり前のことなのに、今さら実感した。
今までは一緒に暮らす相手だった。
優しい人。
助けてくれた人。
信頼できる人。
けれど、それだけじゃない。
背が高い。
力も強い。
自分よりずっと大きい。
そういう当たり前の事実が急に意識され始めた。
「どうした?」
不意にクルルが聞く。
「今日は静かだな」
「そ、そんなことないわ」
「そう?」
「そうよ」
顔を見られない。
シャルロットは慌てて野菜売り場の方を向いた。
クルルは少し笑う。
「変なの」
「変じゃないわ」
「変だよ」
楽しそうな声だった。
シャルロットはますます顔が熱くなる。
クルルは何も気付いていない。
本当に何も。
その様子に少しだけ悔しくなった。
けれど、同時に安心もする。
今の関係は心地よかった。
だから壊したくない。
でも、胸の奥で小さな気持ちが芽生え始めていることに、シャルロットは気付いてしまっていた。
夕暮れの光が街を染める。
隣を歩くクルルは相変わらず穏やかだった。
その横顔を盗み見ながら。
シャルロットはそっと思う。
――クルルって、こんなに格好良かったかしら。
その答えを知るには、もう少し時間がかかりそうだった。




