泣き声の響く部屋
その夜、シッティン公爵邸は静まり返っていた。
かつては華やかな音楽と笑い声に満ちていた屋敷。
けれど今は違う。
没落しかけた公爵家にはもう昔ほどの使用人はいない。
広すぎる廊下は冷たく、灯りも最低限しか点いていなかった。
シャルロットは無言で廊下を歩く。
ドレスの裾を引きずる音だけがやけに響いた。
誰とも目を合わせたくなかった。
「お嬢様……」
途中、年老いた侍女が心配そうに声を掛けてきたが、シャルロットは振り返らない。
「下がって」
掠れた声だった。
侍女はそれ以上何も言えなかった。
部屋へ戻って、扉を閉めた瞬間。
張り詰めていたものが全部切れた。
「……っ」
膝から崩れ落ちる。
息が苦しい。
喉が痛い。
視界が滲む。
「どうして……」
誰もいない部屋で、声だけが虚しく響いた。
婚約破棄。
その言葉が頭の中で何度も繰り返される。
ルカスは、シャルロットを愛したことなどないと言った。
一度も。
十年間。
十年間ずっと、自分だけが好きだった。
「っ、ぅ……」
涙が止まらない。
シャルロットは床へ額を押し付ける。
惨めだった。
滑稽だった。
ルカスが自分を愛していないことを、周囲はきっと気づいていたのだ。
それでもシャルロットだけは信じたかった。
いつか。
いつか振り向いてくれると。
「……っ」
指先が震える。
思い出すのはルカスの冷たい声ばかりだった。
――必要以上に話しかけないでくれ。
――セシリアから離れろ。
――愛したことはない。
胸が裂けそうに痛む。
でもそれ以上に苦しかったのは。
セシリアへ向けるルカスの目を知ってしまったことだった。
優しかった。
穏やかだった。
あんな顔、自分には一度も向けてくれなかった。
「何が違ったのよ……」
ぽつりと零れる。
鏡台の前へ這うように近づく。
そこには自分の顔が映っていた。
涙でぐしゃぐしゃの顔。
乱れた金髪。
ーーーみっともない。
シャルロットは鏡へ触れる。
「……綺麗じゃ、ないの?」
誰もが美しいと言った。
髪も、瞳も、立ち姿も。
でもルカスには届かなかった。
なら何の意味があるのだろう。
「っ……」
嗚咽が漏れる。
涙が次々と落ちる。
好きだった。
本当に。
幼い頃からずっと。
婚約者として隣に立てるだけで嬉しかった。
戦地へ向かう彼を見送った夜も、冷たくされても、避けられても、嫌われたくなくて努力した。
全部。
全部彼のためだった。
なのに。
「……もう、いらないのね」
声が震える。
婚約者ではなくなったシャルロットに価値なんてあるのだろうか。
没落しかけたシッティン家。
愛されない公爵令嬢。
社交界ではもう笑い者だ。
ルカスに捨てられた女、そんな噂が明日には広がる。
「っ、ぁ……」
耐えきれず、シャルロットはベッドへ倒れ込んだ。
広い部屋だった。
昔は侍女たちが忙しく出入りしていのに、今は静かだ。
静かすぎる。
誰も来ない。
誰もシャルロットを慰めてくれない。
シャルロットは枕へ顔を埋めた。
声を殺して泣く。
公爵令嬢らしくあれ。
泣き喚くな。
そう教えられてきた。
でも今だけは無理だった。
胸が痛い。
苦しい。
どうして愛してもらえなかったのか、シャルロットには本当にわからなかった。
窓の外では雨が降り始めていた。
暗い部屋の中で、シャルロットは夜が明けるまで、一人きりで泣き続けた。




