現在
[登場人物]
富野瑛亮(28)
男は俯きながら診察室に入る。男はいつも不思議な雰囲気を纏っていた。この病院へ初めてやってきたのは三年前。何度か自殺未遂を繰り返し、そのたびに男は性格や話し方が変わっている。そう、過去に母親が真剣に、心配そうな顔で説明していた。
「その後はどうですか?まだ、変わりなく?」
男は小さな声で「ええ……」と言って、言葉を続ける。
「彼の呪いが、まだ僕に纏わりついている。そんな気がします。」
男は俯き、苦しそうな声で言葉を絞り出した。
「忘れられないんです。彼の声が、感触が、温度が。全て鮮明に、今でも脳裏にこびり付いて離れません。僕は、彼を利用した。彼の心を、弄んだ。罪深い人間です。」
男は顔を上げ、遠くを見つめる。その表情は、憂いを帯びながら、それでも少しだけ嬉しそうでもあった。言葉と表情のアンバランスさが、男の佇まいを異様なものにしている。男を担当する医師は優しく声を掛ける。
「あまり、ご自身を責めすぎないでくださいね。富野さん。」
「いえ、富野くんは悪くないです。全部、僕のせいなので。」
男は貼り付けたような笑みを浮かべた。医師は「あっ」と声を洩らし、ばつが悪そうに言葉を訂正する。
「失礼。葛西さん……でしたね。」
「はい。」
診察室の隅にある鏡に写る、凛と澄ました表情をした瑛亮の姿。
人生で最大の影響を与えられた人物を亡くしてから、瑛亮は大きな罪悪感を抱き、不安定な日々を十年に渡って過ごす。その果てに待ち受けていたのは、最も大切だと思い込んでいた彼を、自らが裏切り続けていたという惨い事実。
瑛亮は彼の思いを抱え込み、自身の中に互いの形も分からなくなるほど彼の存在を溶け込ませ、次第に彼は瑛亮の一部になった。それだけに留まらず、瑛亮は自身の人生を、葛西愁吾に明け渡してしまった。
「囚われてるのは僕のほうです。だって、富野くんは僕のことをずっと考えて、一度だって離してくれなかったんです。僕のことだけを考えて生きてくれるひとは、富野くんだけでしたから。」
医師は穏やかな表情を浮かべ、瑛亮の話を聴いていた。しかし、手元では静かに、瑛亮のカルテに追記する。瑛亮は自身を「葛西」と認識している間、実にいきいきと話していた。不安そうに話すのは瑛亮、グラデーションで変わる人格が、不思議な雰囲気に表れていた。
器用に人格を切り替え生活しており、瑛亮として過ごすのは、仕事や病院を受診するとき。それ以外の時間は、すでにほとんど「葛西」として生活を続けていた。瑛亮と、瑛亮の中にいる「葛西」は互いに時間経過や記憶を共有しており、日常生活を送る上で困ることはほとんどなかった。
「葛西さん。今の生活を富野さんはどう思っているか、教えていただけますか?」
「僕とずっと一緒に居られて、幸せだって言ってます。こんなところへ通う必要も無いんじゃないかって。」
瑛亮は呆れたように、それでいて無邪気に笑った。医師もつられて笑顔になり、「そうですか」と瑛亮の話に乗る。
「葛西さんは、今のご自身の生活、いかがですか?」
「彼と同じ視界を共有できることが、僕はとても楽しいです。ずっと一緒に見てきたんですよ。そしたら、いつの日か、また彼と話ができるようになって、今はこうして共に生きてる。僕も、幸せです。」
瑛亮は、心の底から幸せそうな表情を浮かべる。医師は微笑み返し、ひと呼吸置いてから質問を続けた。
「以前のように、突発的な衝動で早まった行動に出てしまう可能性とか。はっきり言いますと、死んでしまいたい、と思うようなことはありますか?」
瑛亮は首をゆっくりと横に振る。
「無いです。富野くんがそう思ったときは僕が止めますし、僕がまたそう思ったとしても富野くんが止めます。僕らは支え合って生きているので。」
「そうですか。それは、安心しました。」
医師は何度も頷き、穏やかな表情で瑛亮の話を聴いている。
「僕は今でも、富野くんのことが好きです。彼の思いが、呪いのように強固で邪悪なものでも。こうやって強く縛られ、囚われているくらいのほうが、僕等らしくていいと思うんです。やっと、一つになれました。」
(終)




