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囚  作者: 木々


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78/80

浮世

[登場人物]

富野瑛亮(25)

震える手で、床に広げたノートを閉じる。油性ペンで書かれた葛西の文字は、急いで書いたようだった。屋上へ続く北階段を駆け上がる前、葛西は必死にこれを書いて、自分にこの「救い」を託そうとした。

それなのに、このノートは十年もの間、この場に放置され続けた。葛西の思いは誰にも触れられず、そのままだった。葛西はすぐ、自分はこの場所へ来てくれると信じてくれていたのに、そんな期待を自分は裏切り続けた。

ノートを片手に、転びそうになりながら廊下を走って校舎を飛び出す。悲しみ、虚しさ、怒り、不甲斐なさ、色んな感情がごちゃまぜになって、ほとんどパニック状態のまま、学校の外へ出て通りを走る。息もうまく吸えないほど極限まで走ったあと、ほとんど倒れるように道端のブロック塀へ体重を預けた。体を起こし、恐る恐るノートを開いて最初のページから葛西の書いた文字に目を通す。

日が陰り出したころ、自分は周りの目も気にせず嗚咽していた。本当の葛西を知って混乱しながらも、気持ちは葛西の寂しさに寄り添えている。もっと前から出会えていたら、葛西のことを救えただろうか。もう二度と心から離れないのではないか、というほど、後悔は強力にこびりつく。

一年でも二年でも、少しでも早く葛西と同じクラスになれていたら。もう少しだけ家が近くて、小学校から一緒だったら。あの日、葛西の気持ちを素直に受け入れていたら。当時から葛西の過去を知っていたら、もっと真剣に、真っ直ぐに向き合って、葛西のことを好きになれていたかもしれない。二人で交わしたことは、葛西が謝る必要なんてまったくないくらい、一つも嫌なことなんてなかった。自然と彼を受け入れられていた。葛西が自分といて幸せだったのなら、本当に自分は葛西を幸せにすることができたかもしれない。頭の中で考えを巡らせながら、別の軸では冷酷な恐怖と底知れない虚無感が渦巻く。

これまで自分を苦しめた苦悩は、一体何だったのか。

ぽつりぽつりと歩みを進め、葛西の家があった通りまでやって来た。葛西の本当の思いを知った今、葛西の母親に一言だけでも言いたくなっていた。葛西の思いを汲んでこのまま何も伝えないで立ち去るべきという考えと、怒りのままにこのノートの中身をぶち撒けてやりたい衝動に、自分の気持ちは板挟みになる。

息を整え、道を真っ直ぐ進む。記憶の中とは風景が変わっていた。古い家が新しく建て直されていたり、不動産会社の旗がたなびく真新しい家も建っている。葛西の家は、入口のところに松の木があったはず。それを目印に歩いていたのに、一向に見つけられなかった。道を何度も往復し、家々を注意深く確認するが、葛西の家はもう無くなっていた。

旗がたなびく新品の家が建っていたその場所こそが、葛西の家があった場所だった。そう気づいたときにはもう、向かいの一軒家のインターホンを押していた。自分でも驚くほどの行動力だった。インターホンの向こうから、女の人の返事が聞こえる。おそらく、五、六十代だろうか。

「すみません。こちらの向かいに住まれていた葛西さんの同級生なんですが。葛西さんはいつごろ引っ越されたかって、ご存知ですか?」

「ああ、葛西さん?えーっと、引っ越したのは、一昨年くらいだったと思いますよ。」

「引っ越し先ってご存知ですか?」

「いやーそこまでは知らないです……。お子さん生まれてすぐ家を売ったのかなって感じでしたよ。」

「お子さん……?」

心臓が跳ねて、冷たい血液が全身を駆け巡った。

「ええ。お母様が亡くなられてからはずっと、娘さん夫婦で住まわれてましたから。」

「そう……ですか。すみません、ありがとうございました。」

娘夫婦というのは、おそらく葛西の母親と、熊谷さんという人物のことだろう。葛西の死後、二人は葛西のいない生活をとっくに始めていた。

この世界に、自分と葛西だけが取り残されているような感覚。あれほど、過去に葛西を傷つけておきながら、幸せになった葛西の母親。けれど、葛西が誰よりも、自分自身よりも護りたかったひと。葛西の本音など何も知らないままずっと生きて、葛西には居なかった支えてくれるひとがいる。熊谷さんのように、葛西を支えることが自分にはできなかった。

すっかり暗くなった町並み。見える景色の何もかもが、自分の知らない世界に見えた。自分の記憶の中に広がる景色と目に見える現実の景色がちぐはぐで、ずっと夢の中を歩き続けて、出口のない世界にいるような気さえしてくる。この閉鎖された世界に、葛西はもうとっくにいない。葛西はたった十四歳で、自分の人生を無理やり終わらせてしまった。自分にはそこまでしてまで護りたいひとなどいない。葛西のことを考え続け、葛西の存在に囚われ続けた自分だけが、この世界に取り残されている気がした。

「ああ……そうか。」

葛西のいる世界へ自分も行ってしまえばいい。フッと、そんな考えが頭の中に浮かんだ。葛西の思いを裏切り続けた自分への断罪。葛西のもとへ行く資格など、もう無いかもしれないけれど、それでも、葛西に会える可能性はこの世界に生きているよりはあるかもしれない。もし会えたのなら、本当の葛西をもっと知りたいと思った。

[次回更新]7月10日 金曜日 23時予定

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