幸せ
[登場人物]
葛西愁吾(14)中学三年生
僕が六年生になって、半年が過ぎたころ。母が働くようになった。追い込まれて働き始めた部分もあったのかもしれない。少し無理をしているようにも見えた。
体調に合わせてできる仕事を選んでか、今までパートをしていた近所のスーパーではなく、夜から仕事へ出かける。最初こそ無理をしている様子だったけれど、次第に母の笑顔を見る日が増えて僕は安心した。続けていくうちに、母は髪を明るく染め、化粧に時間をかけ、派手な洋服で家を出る。母は僕が朝起きるころに帰宅して、僕が家へ帰るころに母は仕事へ行く準備を始める。母と顔を合わせる時間が減ったのは寂しくもあり、安心でもあった。そんな自分を非情に感じて、僕は本当に母を愛しているのか、と夜な夜な不安になった。
僕が中学に入学したころから、母は休みの日も出掛けることが増えた。僕はなんとなく、彼氏ができたのだと察した。梅雨に入って、母が彼氏を初めて家に招いた。初めて顔を合わせたそのひとは、作業着姿で背が高く、がたいのいい男性。不精髭を生やしていながら、その顔に浮かべる表情は柔和で優しい雰囲気。中学生の僕相手にも丁寧に挨拶をしてくれて、とても感じのいいひとだった。熊谷源二と言うそのひとは、母よりも十三歳上。何度か顔を合わせて話をするたび、とても情に厚いひとだと知った。
一番僕が熊谷さんに驚いたのは、学費は気にしないで高校は好きなところへ行けばいい、と僕に言ったこと。熊谷さんは母のことだけでなく、僕のことまで考えていた。僕は驚きながら、それを表情には出さなかった。良いひとだとは分かっているのに、慣れない大人の男性を相手に警戒心が解けなくて、僕は懐柔されるような危機感を感じてしまう。他人へ向けるような笑顔しか返せなかった。母は熊谷さんに出会ってから元気になり、体調も回復している。僕は心のどこかで、熊谷さんのほうが僕よりも母を愛しているのではないか、と感じた。
夏休みに入ったころには、母と僕と熊谷さんの三人で食事をとることも日常になっていた。昼食を作るのはもっぱら僕の担当で、熊谷さんは時々、手伝うと言ってくれる。けれど包丁の使い方は不安になるほど下手くそで、僕は「大丈夫です」と言って作業を代わる。熊谷さんは「まいったな」と笑って、母もその様子を笑って見ていた。熊谷さんはどんなときも優しくて、僕と母のことを、後ろからどっしりと構えて見守ってくれているような感じ。僕に父親がいたら、こんな感じだったのだろうか、とつい想像してしまう。僕の本当の父親は、今どこで何をしているかも分からない、当時中学生だったひと。母がこんなにも苦労して生きていることを、その人は気にも留めないで今もどこかで生きている。熊谷さんと出会ってから、僕は初めて実の父親に対する怒りを覚えた。
母は十代で僕を産み、高校へ通うことなく働き始め、祖母と二人きりで僕を育てた。母は十代から二十代をぜんぶ、自分のためではなく、僕の人生に捧げてしまった。でも、母はまだ若い。いくらでも人生をやり直せるはず。優しすぎるくらいの熊谷さんが、このまま母と結婚してくれたら、母はきっと幸せに真っ当な人生を歩めるはず。現に今、母の感情の起伏はほとんどなくなって、熊谷さんの存在が母に精神的な安定を与えているのは明確。苦労してきた人生でも、母は今はこうして熊谷さんという素敵なひとに出会えている。神様は母を見放していない。母が熊谷さんと家族になって、新しい命を授かったりした日には、母はもっと豊かで幸せな人生になるはず。母と熊谷さん、そして子供の三人で、末永く幸せになってくれたら。
思い描いた理想の母の人生に、僕自身がいないことに気づいたのは、ずいぶんと想像を膨らませたあとだった。気づかなければよかったのに、僕は気づいてしまった。ふと、口からこぼれる。
「僕って……何なんだろう。」
この先の幸せな未来に、僕は必要がない気がする。僕という存在は、母にとって紛れもない後悔の象徴。母が真っ当な人生を歩む上で、十代のころの汚点があるままじゃ美しくない。僕がいることで、母の人生は本当の意味での幸せではなくなってしまう。きっと、母は僕の顔を見るたび、無責任な人間の顔を思い出す。母は僕と向き合えるようになるまでに時間がかかった。だから僕が幼いころ、母はたびたび僕を無視をした。僕はこの世に、いてもいなくても、どっちでもいい存在だった。
タイミング悪く、そのころにちょうど熊谷さんの仕事が忙しくなり、母と会う時間が減った。母はみるみる体調を崩し、仕事も休みがちになって、僕の顔を見れば腕を掴んで爪を立てる。いつものように僕は微笑みを浮かべて、母の気持ちが落ち着くまで何度も謝る。僕はもう、母を笑顔にすることさえできない。母は、僕よりも熊谷さんといたほうが幸せなのだろう。僕は身を持って、自分が不必要な存在であることを知ってしまった。部屋に戻って、あふれた涙を一人で拭いながら、声を押し殺す。頭では分かっていても、まだ感情が追いついていないのだ、と僕は状況を冷静に受け止めていた。
[次回更新]6月12日 金曜日 23時予定




