優等生
[登場人物]
葛西愁吾(14)中学三年生
――十四年前。
去年の大波が、僕と母、家の中の何もかも全部、一緒に連れて行ってくれたら、どんなに楽だっただろう。そんな妄想を毎日のようにするくらい、僕の思考は歪んでいた。きっともう、僕の心は壊れている。
部屋のベッドに寝転がり、見慣れた天井に右手を伸ばす。生きていることを考え始めると、その途方もない重圧に押し潰されそうになる。僕という存在が何なのか、うっかり考えてしまうたび、思い出す記憶があった。
幼いころ、よく「大人しい」と言われた。外で僕が母を呼んでも、母は振り返らなかったから、きっと僕の声は小さくて、外では周りの音にかき消されてしまう。だから、母の耳まで届かないのだ。そう折り合いを付けたのは、たぶん四、五歳のころだった。
僕はほとんど祖母に育てられたようなもので、いつどんな時でも、母とは歳の離れた姉弟のようだった。母も家の中では常に、祖母の娘だった。
祖母は曽祖父が始めた工場を切り盛りしながら、週末には夜勤をするなど、常に忙しいひとだった。母が小学生のころ、僕からすれば祖父に当たるひとは、家を出て行ったきり帰らなくなったらしい。けれど、祖母はとても明るく男勝りなひとで、愚痴や弱音を吐く姿は見たことがない。僕へ向けられる愛はとても温かく、よく一緒に夕飯を作っては、僕の器用さを褒めてくれた。その食事を母は、美味しいと言って笑顔で食べてくれる。僕はそれがとても嬉しかった。母と祖母と三人で暮らす日々は、決して裕福ではなかったけれど、満ち足りていた。
その環境が、他と違うことに気付いたのは、僕が九歳のころだった。小学校のクラスで、班になって給食を食べているとき、家族の話になった。親の年齢を知っているか、という質問を誰かがして、得意気に他の誰かが答える。その流れで、訊かれた僕も母の年齢を答えた。
「愁吾のお母さん、俺の一番上の姉ちゃんと歳同じだ。」
そのクラスメイトの姉は、母とは中学の同級生だった。瞬く間に翌日から、僕の出生に関する噂がクラス中に広がる。僕はその噂がきっかけで、自分自身の出生を知った。朝から夕方まで、近くのスーパーでパートをしていた母が帰宅するのと同時に、僕は母に問いかけた。
「ママは中学生で僕を産んだの?」
母の顔は引き攣った。幼いながら僕は、しまった、と思った。父親が居ないことは、幼少期からなんとなく気になってはいたけれど、家に大人の男性がいない環境は僕にとっては当たり前の生活。なんら支障はなかった。
僕は母にそれ以上何も訊けなくて、心の中にしまい込んだ。触れてはいけない部分だったことを知って、僕は大きな罪悪感を抱いた。結局、一人では抱えきれず、祖母と二人きりで庭の花壇に植えた花を手入れしているとき、クラスメイトの話から母の反応までを祖母に話した。母を傷つけてしまった悲しみや後悔で涙が出てきて止まらない僕を、祖母は「愁吾はほんとに賢い子だね」と言って、優しく笑って頭を撫でる。
祖母はその後で、母が僕を十五歳で産んだこと、生まれてから一度も見たことがない父親は、母の同級生だったことを話してくれた。祖母は、僕が無事に生まれた日が人生で一番嬉しかった、と言って僕を抱きしめた。
僕は後になって合点がいった。母が外で返事をしなかったのは、聞こえていないからではない。周りに、自分が若い母であるとばれたくなかったから。だから、僕を無視していたのだ。母がそうまでして秘密にしていたいのだから、母が中学生で僕を産んだことは、知られてはまずいことなのだろう。それなのに、僕の出生に関する噂は、瞬く間にクラスメイトの親たちに広がる。
取り巻く環境の変化を、僕は敏感に察知した。接する大人の纏う空気感みたいなものが、知る前と知った後で変わる。僕はもっと、きちんとしなければいけない。十五歳の子どもが産んだ子どもは、ろくでもない子だろう、という印象が、僕には常に付いて回っている。僕は他のクラスメイトと比べて、同学年の子供と比べて、誰が見ても優秀でなければならない。そうでなければ、僕を見る大人の目は変わらないと思った。
僕ははじめに、奇妙な箸の持ち方を正した。真面目に授業を受けて、家でも勉強をして、成績も常に平均を下回らないようにした。大人に対する言葉遣いは、特に気を遣った。そうして僕は優等生を演じ続けた。すべては、母のためだった。
翌年、噂を広めたクラスメイトは転校して、この学年には僕の出生に関する噂だけが残った。クラスメイトが僕の秘密を忘れても、周りの大人は覚えている。覚えていて、僕を見るときには、その色眼鏡を強固にする。だから僕は、大人から見て分かりやすい優等生がやめられない。
学校生活が窮屈だったとしても、僕は何の不満もなかった。祖母は僕が生まれたことを喜んでいて、母も僕を賢くて自慢の息子だと言ってくれる。僕は愛されていて、僕も祖母と母を愛している。他とは違う形の家庭でも、僕は幸せで、きっと祖母も母も幸せなのだろう。そんな毎日が、ずっと続けばいいと思った。
[次回更新]6月5日 金曜日 23時予定




