再会
[登場人物]
富野瑛亮(22)
「富野くんは、本当に僕のことを考えてくれてたの?」
葛西の顔はよく見えなくて、もやがかかったようにその輪郭はぼやけている。何度か瞬きをしたり目を細めたりして、視界にはっきりと捉えようとしても、葛西の姿はそのままだった。
「葛西……?」
それが本当に葛西かどうかも自信が持てなくなってきて、目の前の人影に呼びかける。声を掛ければ、こちらへ近づいて来てくれるような気がした。
「本当の僕を知ってよ。」
ふわっと浮いた感覚の後、体が屋上の柵を越えて地上へ落下する。硬いコンクリートの地面が迫る瞬間、目を開けた。乱れた呼吸と、バクバクとうるさい心臓の音。一瞬、自分がどこにいるのかも分からなかった。だんだんと意識がはっきりして、さっきまで見ていたのは夢だと認識する。カーテンの隙間から射し込む日の光が、薫の部屋を照らしていた。体を起こし、スマホを確認する。現時刻は朝の七時。薫の家から職場の工場へ自転車で向かうなら、今すぐにでも出なければ仕事に間に合わない。急いでベッドを降りて薫の家を後にした。
自転車を漕ぎながら、夢の中で葛西と会ったことを思い出す。あの落ちるような感覚のおかげで自分は飛び起き、ギリギリでも間に合う時間に目覚めることができた。葛西が起こしてくれたに違いない、薄っすらと口元に笑みを浮かべる。しかしその後ですぐ、自分の考えを疑った。夢で葛西は「本当の僕を知って」と言ったのだ。それはつまり、本当の葛西を自分は知らなかったことになる。都合よく葛西を解釈する癖が、自分はまだ抜けていなかった。
葛西を理解しているつもりになって、自分は理想の葛西を創り上げていただけ。夢の中で葛西の姿がはっきりと見えなかったことに、合点がいった。折橋さんが言った「勝手に良い人にしてるだけ」という言葉が、改めて胸を刺す。自分でも、そうだったのかもしれないと納得してしまう。葛西は理解者だと思い込み、自分の都合のいいように解釈して利用し、自分勝手に理想の葛西を再構築した。今まで見守ってくれていると自分が信じていた葛西は、自分の頭が勝手に創り上げた偶像で、本来の葛西とは別の存在。葛西が消失した喪失感を抱えた昨日とは違い、信じていたものが跡形も無くなってしまった今日は、比較できないほど大きな喪失感。自分さえも飲み込まれそうになって、戦慄する。葛西はいなくなったのではなく、葛西は最初からいなかった。その事実は、一日の記憶がすっぽりと抜け落ちるほど、自分を壊す。一日中虚無感に襲われ、周りが見えなくなっていた自分は、工場で折橋さんの姿を見なくなったことに、一週間は気づかなかった。
あれから二日に一度くらいの頻度で、同じ夢を見る。そのたびに飛び起き、呼吸が苦しくなる。夢の中では決まって、落ちる感覚で目を覚ます。何度もそのリアルな恐怖を味わうたび、これが中学校の屋上から葛西が落ちたときの感覚か、と察する。起きてすぐの強い不安を感じるたび、毎回、誰かに助けを求めたくなる。それくらい苦しく、抱え切れない。けれど、あれだけ迷惑をかけた手前、薫にはもう自分から頼ることはできない。薫から食事に誘われるタイミングを待つことにした。
それなのに、自分には追いつけないくらい早いスピードで世の中が変わっていく。目に見えない脅威が世界を振り回し、日常が日常ではなくなった。外出に不安が付きまとい、職場の人も通行人も、誰もがマスクをするのが当たり前。手に入れるのも苦労するのに、していないほうがおかしいくらいの世界。誰もが外出を控え、人混みを避けた。
「ごはん行くのだけど、ちょっと落ち着いてからにしよっか。」
薫からの連絡は当然のことだった。それ以降、薫とは疎遠になって、自分は一人でこの膨大な不安を抱える。職場での最低限の会話以外は、誰とも話さなくなった。いや、今までの生活でもそうだったのかもしれない。制限されるせいで、それは余計に孤独を感じさせた。寂しさのあまり、だめだと分かっていながら、葛西のことを書き綴ったノートを開いては、予想できたはずの自己嫌悪に陥る。
葛西が亡くなったのがついこの前かのような悲しさを、一人で抱え込んだまま、二年が過ぎた。少しずつ制限が緩和されても、未だパンデミックの脅威は続く。どこで拾ったかも分からない風邪を引いて、いつぶりかに病院を訪れる。発熱があるだけで建物の中にさえ入れてもらえず、外の椅子で待機させられた。青色の防護服にマスク、防護眼鏡姿の看護師が自分の対応に当たる。背格好や声から、かろうじてその看護師が女性だと分かるような状態だった。
「こちら、ご記入になってお待ち下さい。」
問診票を手渡され、高熱でおぼつかない筆跡を晒し、感染対策フル装備の看護師へ渡す。
「……エイちゃん……?」
久しく聞いていなかった呼び名に驚き、怪訝な顔で相手の顔を見た。
「久しぶり……元気にしてた?あっ、病気のときに訊くのはおかしいね、ごめん。検査キット持ってくるから、少し待ってて。」
[次回更新]5月26日 火曜日 23時予定




