彷徨う
[登場人物]
富野瑛亮(22)
小和瀬薫(22)
視界がぐにゃっと歪んで、自転車を押す手元さえも分からなくなる。不安定な呼吸と、心臓のあたりがスッと冷たい感覚。自分が今、生きているか死んでいるかも判断がつかなかった。遮断されたように音はここまで届かないのに、嫌な声だけはずっと耳の奥で繰り返している。今まで自分が信じていた葛西は、一体なんだったのだろう。本当に自分は、葛西のことを一つも分かっていなかったのだろうか。それなら、さっきまで一緒にいたはずの葛西は、一体誰だったのか。自分の立っている地盤が、地の底から壊されるような恐怖だった。
あてもなく、逃げるように自転車を漕ぐ。少しばかり危険な横断をしても気にならなかった。注意が散漫な上に、今の自分の身に何が起きようとどうでもいい。苦しいのは、自分が今も生きているせいだ。そんな捨て身の考えが、自分を暴走へと導いていた。
命が尽きることさえ人任せにするのだから、自分一人では結局、何もできない。夜道をひたすら自転車で走って、薫の住んでいるマンションにたどり着く。エレベーターで六階まで上がり、一番奥の部屋のインターフォンを押す。当然、この時間に薫は留守だった。一番安全なはずの自宅へ帰ろうかとも考えたが、もう部屋に自分しかいないと思うと、足が向かない。仕方なく、薫の部屋の隣にある非常階段に座った。六階や七階に住む住人は全員、ここから一番遠いところに設置されたエレベーターを使うおかげで、この階段を使うひとは誰もいない。触れる鉄骨の感触が冷たく、吸う空気が寒いだけで、居心地はよかった。
「えっ……瑛亮?どうしたの……何してんの?」
薫の声がして、自分はやっと顔を上げる。薫が帰宅したのは早朝四時前だった。
「え、いつから居た?」
「たぶん、八時くらい……。」
「えっ、お店来てくれたらよかったのに……って、知らないか、来たことないし。」
「ごめん、薫。」
「ん?」
「迷惑かけて。」
薫は呆れた顔をする。
「何言ってんの、いいよ。むしろ嬉しいくらい。瑛亮ってすぐ一人で抱え込むから。ほら、来てこっち。」
薫はうずくまった自分の手を引いて階段から降ろし、大きなマスコットのついた鍵で、自宅の鍵を開ける。自分のことは、ほとんど無理やり家の中へ入れた。
「ちょっと散らかってるけど、とりあえず入って。あんなとこずっと居て寒かったでしょ?ほんと風邪引くよ?」
「うん。」
「何か食べた?お腹空いてる?」
「食べてないけど、空いてない。」
「ああそう。なんでもいいから食べたほうがいいね。冷凍うどんあるから、ちょっと待ってて。」
薫は冷蔵庫からめんつゆを取り出し、目分量で割って火にかける。その間に冷凍庫からうどんを二つ取り出し、電子レンジで温める。手際よくキッチンで作業する薫の後ろ姿が、なんとなく懐かしくて、自分はダイニングテーブルの椅子に座ってぼうっと眺めていた。
「具って言っても冷凍してたねぎと前に余った天かすしかないけど。」
薫は出来上がったうどんを自分の前に差し出し、隣に割り箸を置く。
「……ありがとう。」
薫は「うん」とだけ言って、自分のぶんも同じものを持って、向かい側に座った。
「で?何かあったの?」
「ずっと、一緒に居たんだけどさ。薫に言われてからずっと。新しいことも自分が成長していく過程も、全部一緒に見てきた。死んじゃっててもそうすれば、俺は生きてて大丈夫だと思えたから。」
「うん。」
「でも本当は、何も分かってなかった。俺は何も知らないくせに、自分の理想ばっかりで葛西を再構築して、勝手に創り上げただけだった。俺が勝手に、自分の中に葛西が生きてると思い込んでただけ。本当は、全然そんなんじゃなくて。だから……葛西がいなくなっちゃった。」
薫の大きな瞳は、真っ直ぐにこちらを見ていた。その瞳に浮かぶのは、一つの感情ではない気がする。慈悲、心配、呆れ、そんな感情が混ざった視線を、薫は自分に向けていた。
「なんか言われた?あの女に。」
薫の言葉に、すぐに答えることができなかった。折橋さんは薫と話したと言った。だから、自分がこうなっていることの元凶が、察しのいい薫にはすぐに分かってしまう。友達に迷惑をかけたことが苦しくて、自分だけで解決できなかったことが情けなくて、頷くことしかできなかった。
「そっか。瑛亮はさ、一途すぎて変だもんね。でもそれって、瑛亮が優しすぎるからだと思うの。今回は、その瑛亮の優しさに、変な虫が寄って来ちゃっただけだよ。だから気にしなくていいよ。」
薫の言うことは的外れだった。気にしなくていい、と言われたところで、自分の中の苦しみや悲しみが無くなるわけじゃない。自分は到底、優しくなどない。葛西を利用し、真正面から向き合わず傷つけた。折橋さんの言葉もずっと正面から受け取れず、最後にはこんな結果。
「……できない。ぜんぶ失くした気がしてる。葛西が死んでるのに、俺が生きてていい気がしない。」
「まだずっと好きなんだ。その子のこと。」
「うん。」
「まだずっと、一途に想ってるんだ。」
「うん。」
俯く自分には、薫の溜め息しか聞こえなかった。薫がどんな顔をして、今の自分を見ているのか、確認するのも怖い。
「忘れさせてあげよっか?」
「どうやって?俺だって、あのひとの言ったことなんか、ぜんぶ忘れられたらいいのにって思ってるよ。忘れられたら楽だよ。言われたこと、ずっと胸に刺さったまま抜けなくて、それなのに、いつもそばで見守ってくれてた葛西がどこにもいない。」
「もう、ぜんぶ忘れようよ。そこに留まってることからやめてさ。僕が、相手してあげるから。」
薫は椅子から立ち上がり、向かいに座る自分の手を引いて、奥の部屋へ行く。引っ越しを手伝ったから覚えている。そこはたしか、寝室だった。
[次回更新]5月19日 火曜日 23時予定




