異世界出前 精霊カフェ・花の蜜茶
最近、会社での俺は、少しだけ変わったらしい。
前は誰とも目を合わせず、息を殺すように働いていた。それが今は、自分から挨拶くらいは、できるようになった。たぶん、あの出前のおかげだ。腹が満ちて、よく眠れて、心に少し、余裕ができた。
その余裕で、俺は初めて、ある人のことを、ちゃんと見るようになった。
先輩——ここでは、高木さん、としておこう。
高木さんは、いわゆる人格者だった。誰に対しても態度を変えない。後輩のミスは、さりげなくフォローする。俺が仕事に潰れかけていた頃、何も言わずに仕事を何件か引き取ってくれていたのも、後から知った。それでいて、恩着せがましいところが、まるでない。
あんな人になりたいな。そう、思っていた。
◇
ある日の、残業帰り。給湯室で、ひとり洗い物をしている高木さんが、小さく鼻歌を歌っていた。
……あれ。このメロディ。
俺の足が、止まった。それは、子どもの頃から何百回も観た、あの冒険アニメの主題歌だった。
「……高木さん。それ、もしかして」
高木さんは、びくっと肩を跳ねさせ、振り返った。その顔が、みるみる赤くなる。
「……き、聞いてた? いや、その、これは、忘れてくれ……」
「俺も、好きです。そのアニメ」
高木さんの目が、丸くなった。それから——いつも穏やかなその顔が、少年みたいに、ぱっと輝いた。
「……マジで!?」
◇
それから少し、立ち話をした。高木さんは、根っからのアニメ好きだった。あの落ち着いた顔の下に、こんな熱量を隠していたのか。
そして高木さんが、ふと遠い目をして、言った。
「……俺さ、昔から夢だったんだよ。アニメに出てくる、あの飯。あれを一回でいいから、本物で食ってみたくてさ。……バカみたいだろ」
……その気持ちなら、痛いほど分かる。だって俺も、ずっとそうだったから。
そして——今の俺には、それを叶えてやれる手段が、ある。あの、出前アプリ。
言えば、いいんだ。「実は、本物が頼めるんですよ」と。きっと、高木さんは泣いて喜ぶ。
でも——言えなかった。あまりに突拍子もないし、信じてもらえなかったら、できかけたこの関係が、壊れてしまう気がして。
結局、その日は、何も言えなかった。
◇
家に帰っても、高木さんの、あの夢を語る顔が、頭から離れなかった。
……いつか、ちゃんと伝えたい。あの人に、本物を食べさせてあげたい。でも、どう切り出せばいい。順番が、説明が、肝心だ。
……そうだ。練習、しよう。
俺はアプリを開いた。たしか、メニューに——あった。『精霊カフェ・花の蜜茶』。お茶なら軽い。ちょうどいい。注文ボタンを押した。
ほどなく、ピンポーン。ドアを開けると、手のひらに乗るくらいの小さな精霊が、ふわふわと浮いていた。その手には、湯気の立つ、小さなカップ。
「……お届け、です」
鈴を転がすような声。受け取ると、精霊はぺこりとお辞儀して、ふわりと消えた。可愛い。今までで、いちばん平和な配達だった。
◇
カップからは、花畑みたいな甘い香り。ひと口含むと——ふわっと、肩の力が抜けた。優しい。これは、いい。高木さんも、きっと気に入る。
よし。シミュレーションだ。
俺は、向かいの、誰も座っていない椅子に、高木さんがいるつもりで、話しかけてみた。
「……高木さん。実は、俺の出前アプリ、異世界に繋がってて……」
……いや。怪しい。出だしで、もう怪しい。
「えっと、信じられないと思うんですけど、配達員が、オークとか、エルフで……」
……ダメだ。完全に、やばい奴だ。
ひとりの部屋で、誰もいない椅子に向かって、ぶつぶつ。客観的に見たら、こっちのほうが、よっぽどやばい。
「……はは」
つい、笑ってしまった。でも、不思議と、惨めじゃ、なかった。
そもそも、いきなり異世界の話は、ハードルが高すぎる。まずは普通に、お茶にでも誘って、少しずつ慣れてもらってから——。
(……いや。男二人で、お茶って、どうなんだ。誘ったら、変に思われないか。「お茶しませんか」って、なんか……)
また、ぐるぐる、し始める。
……ダメだな、俺。考えすぎて、いつも、動けない。
◇
でも。
花の蜜茶を、もう一口。あたたかさが、また、すうっと染みていく。
……このお茶を、いつか、高木さんと二人で飲めたら。
誰もいない椅子の向かいに、いつか本当にあの人が座って。「うまいな、これ」って、笑ってくれたら。
それはきっと、今より、ずっとうまい。
今夜は、まだ、ひとり。でも、もう、ただのひとりじゃない。“いつか”を待てる、ひとりだ。
俺は、冷めないうちにと、残りの蜜茶を、ゆっくり飲み干した。
練習は、まだ、続く。




