異世界出前 炙り肉串
異変に気づいたのは、洗面所の鏡だった。
……顔色が、いい。
いつも土気色だった肌に、血の気がある。目の下のクマは薄い。なんなら、少し引き締まった気さえする。ここ最近、階段で息も切れないし、朝、目覚ましの前に目が覚める。
会社でも言われた。「最近、なんか元気そうだね」と。何年も、誰にもそんなことを言われていなかったのに。
心当たりは、ひとつしかない。異世界の、飯だ。
オーク丼で力がみなぎり、キノコ粥で二日酔いが消え、ドラゴンステーキを食べた翌日は、体が芯から熱かった。あれを食べるたび、俺の体は確かに、変わっている。
(……これ、食べ続けて大丈夫なのか?)
一瞬、不安がよぎる。でも、鏡の中の俺は、何年も忘れていた顔をしていた。死んだ魚みたいだった目に、光がある。
悪いものには、見えなかった。むしろ、生き返っていくみたいだった。
◇
ところで、俺には子どもの頃からの、漫画飯の楽しみ方がある。
アニメを観るのだ。それも、飯のうまいやつを。そして画面の中で、キャラが飯を頬張る、まさにその瞬間に、似たものを自分も口へ運ぶ。
たとえば、子どもの頃に何百回も観た、あの冒険アニメ。仲間たちが戦いのあと、辺境の酒場で串焼きにかぶりつく場面。あそこを再生しながら、コンビニの焼き鳥を齧る。すると不思議と、安物の焼き鳥が、画面の中のあのジュウジュウの串焼きの味になる——気がした。
ひとりの部屋で、何年も、そうやって飯を食ってきた。似たもので我慢して。本物のつもりで。
……でも。
アプリを開く。新しく増えた店の中に、それはあった。
『獣人横丁・炙り肉串』
心臓が、跳ねた。
——待て。これ。あの場面の、あの串じゃないか。
今までは似たもので我慢するしかなかった。でも、今の俺には、本物が頼める。あのアニメの世界の本物の串を食べながら、あの場面を観られる。
子どもの頃からずっと夢見てきた遊びが、今、現実にできるんだ。
手が、震えた。武者震いってやつだ。俺は、炙り肉串を注文した。
◇
ピンポーン。
……よし。
深呼吸を、ひとつ。ドラゴンの夜、隠れて礼も言えなかった自分を思い出す。今日は、開ける。
ドアを開けると、立っていたのは、二本足で立つ狼みたいな男だった。ぴんと立った耳。ふさふさの尻尾。串の包みを手に、人懐っこく、にっと牙を見せて笑う。
「まいど! 獣人横丁の炙り肉串、お届けでーす!」
明るい。めちゃくちゃ、明るい。
怖さよりも先に、俺はぺこりと頭を下げていた。
「……あ、ありがとう、ございます。その……いつも」
獣人はきょとんとして、それから嬉しそうに尻尾を振った。
「お、礼なんて珍しいお客さんだ! こっちこそ、ごひいきにどうも。……あんた、いい食いっぷりだって、向こうで評判だよ。じゃ、また来るね!」
評判。向こうで。
……なんだか変な感じだった。でも、悪くない。ドアを開けただけで、世界が少し広がった気がした。
◇
さあ、ここからが本番だ。
俺はテレビの前に、串の包みをうやうやしく並べた。タレの焦げた香ばしい匂い。肉汁が、まだじくじくと滲んでいる。本物の、異世界の、串。
そして、あのアニメを再生する。何百回と観た、辺境の酒場の場面。仲間たちが笑いながら、串にかぶりつく——その、瞬間。
俺も、串にかぶりついた。
——……っ、ぁ。
画面の中で、キャラが「うまい!」と叫ぶ。その声とまったく同じ顔を、俺もしていたと思う。
うまい。香ばしい。タレの甘み、肉の旨味、炭の香り。ぜんぶ、本物だ。今までの、似たもの、安物の、想像で補っていた味じゃない。画面の中のあの串が、今、俺の口の中にある。
子どもの頃の俺が見たら、なんて言うだろう。
ずっと、ずっと、似たもので我慢してきた。本物のふりをして、ひとりで、画面の中の祝宴を、指をくわえて見ていた。
それが、今。
俺は、画面の中と同じ飯を食っている。同じ瞬間に。同じ顔で。
もう、ふりじゃ、なかった。
……気づけば、また泣きながら食っていた。最近、よく泣く。でも、悪くない涙だ。
◇
食べ終えて、画面の中の仲間たちが、満腹で笑い合っているのを眺める。
なんだか、その輪の中に、自分も混ぜてもらえたような気がした。
体は、軽い。心も、軽い。
スマホの店一覧は、今日も少しだけ増えていた。獣人横丁の隣に、見慣れない新しい名前。
明日は、何を食べよう。誰が、届けてくれるだろう。
ひとりの晩ごはんは、いつのまにか、俺にとって、一日でいちばんの楽しみになっていた。




