異世界出前 森のキノコ粥
オーク丼を食べてから、数日が経っていた。
あの夜のことは、正直、まだ半分くらい夢だと思っている。緑のでかい配達員。本物みたいな質感。「異界のお客様」なんて表記。どう考えても、変だ。だから俺は、あれ以来アプリを開いていなかった。
毎晩出前を頼めるほど、社会人の財布は分厚くない。それに——もう一度あのドアの向こうに何が立っているか、考えると、ちょっと、こわい。
ただ、ひとつだけ妙なことがあった。
体の調子が、やけにいいのだ。
いつもなら目覚まし三回でようやく起きる。瞼は重いし、肩はこるし、胃はもたれている。それが社会人五年目の俺の標準装備だったはずなのに、ここ数日は、朝はすっきり、日中も妙に力がみなぎっている。まだ何かを期待していた頃の体に、戻ったみたいな感覚だ。
(……まさか、あのオーク丼か?)
考えて、すぐ打ち消した。丼一杯で、しかも数日も体が変わるわけがない。たまたま調子がいいだけだろう。きっと、そうだ。
そんな絶好調が続いた、ある日のことだった。俺はいつになく仕事がはかどり、声もよく出ていた。
「お、めずらしいな。今日このあと、飲み行く?」
普段なら絶対に断る誘いに、なぜか、頷いていた。
◇
結論から言う。調子に乗った。
体が軽くて、気分が良くて、久しぶりに人と笑って。気づけばジョッキを何杯空けたのか分からなくなっていた。「お前そんなキャラだっけ」と笑われて、それが妙に嬉しくて、また飲んで。
記憶は、わりと早い段階で途切れている。
◇
そして、翌朝。
「…………ぐ」
地獄が、あった。
頭の奥を誰かが鈍器で殴り続けている。胃はひっくり返り、世界はぐるぐる回り、口の中は砂漠。ゆうべの全能感は、どこにもいない。
昨日の俺をぶん殴りたい。
水を飲む気力もなく、俺は枕元のスマホに手を伸ばした。何か、腹に優しいものを。固形物は、無理だ。
アプリを開く。やっぱり、異世界の店が並んでいた。まだ繋がってるのか、この変な店。
その中の一軒に、目が留まる。
『エルフ族行きつけ・森のキノコ粥』
……粥。今の俺に、それはあまりにも優しい響きだった。
迷わず注文した。
◇
ピンポーン。
頭に響く。やめてくれ。それでも這うように玄関へ向かう。
ドアを開けて、息を呑んだ。
今度は、恐怖ではなかった。
立っていたのは、すらりと背の高い人だった。いや、人のようで人ではない。長い銀の髪。透けるように白い肌。そして緑の中でゆれる、長く尖った耳。
エルフだった。
(……うつくし)
二日酔いの頭でも、それだけは分かった。作り物の美しさじゃない。生きて、呼吸して、こちらをまっすぐ見下ろしている、本物の——。
いや、考えるな。きっと、ものすごく整った人を店が雇ってるんだ。そういうことにしておこう。
エルフは俺の顔をひと目見て、すっと目を細めた。
「……二日酔い、ですか」
「……は、はい」
「人間というのは、どうしてわざわざ体に毒を入れるのでしょうね」
声まで涼やかで、そして、ちょっと冷たい。正論すぎて、ぐうの音も出ない。
だがエルフは小さく息をつくと、手にした器をそっと差し出した。
「森のキノコ粥です。何種類かの茸と、解毒の薬草を煮込んでいます。……酔いにも、よく効きますよ」
ふわり、と。湯気にのって、優しい出汁の香りが鼻先をくすぐった。
「お大事に。次は、ほどほどになさい」
言い方は素っ気ないのに、最後のひと言だけ、なんだか温度があった。
エルフは踵を返し、廊下の暗がりにすっと溶けていった。
◇
部屋に戻り、震える手で蓋を開ける。
白くとろりとした粥の中に、いろんな形の茸がほろほろと沈んでいる。見たことのない、淡く光るやつまである。
……まあいい。腹に入れば同じだ。
れんげで、ひと口。
——……あ。
しみる。沁みる。じんわりと温かいものが、喉から、胃から、体の隅々へ広がっていく。優しい出汁。きのこの滋味。荒れ果てた内臓が、一口ごとになだめられていくのが分かる。
漫画でよく見た。倒れた主人公が、世話役の作る粥で少しずつ回復していく、あの場面。あれが今、俺の身に起きている。
そして数口食べたところで、気づいた。
頭の鈍痛が、引いている。胃の不快感が、薄れている。さっきまで地獄だった体が、嘘みたいに楽になっていく。
「……いや、いやいや」
待て。二日酔いが、粥一杯で? こんな、数分で?
オーク丼を食べてから、ずっと体が軽かったのも。これも。……コンセプト店の料理で、こんなことが起きるか?
心臓が、ことり、と鳴った。
——いや、考えるな。きっと、いい食材を使ってるんだ。薬膳的な、そういうやつ。気のせい。気のせいだ。
俺は必死に粥をかき込んだ。考えるのを、温かさで塗りつぶすみたいに。
……うまい。そして、優しい。誰かに看病されているような味だった。
ひとり暮らしの部屋で、もう何年も、誰にも看病なんてされていなかったのに。
◇
完食して、空になった器をしばらく見つめた。
体は、すっかり軽い。あれだけの二日酔いが、跡形もない。
スマホの店一覧を、また開いてしまう。オーク丼の店。エルフの粥の店。そして——最初から並んでいたのに、まだ手をつけていない一軒。
『ドワーフ鍛冶飯(特盛)』
「……次は、ドワーフかよ」
怖い。そして、気になる。あと、ちょっと楽しみにしている自分がいる。
認めたくないけど。
俺の奇妙な晩ごはんは、どうやら、まだ続くらしい。




