異世界出前 オーク丼
残業を終えて夜十一時。誰もいないワンルームに帰り着くと、俺はスーツも脱がずにベッドへ倒れ込んだ。
会社ではほとんど誰とも喋らない。家に帰っても誰もいない。俺の生活から人の声が消えて、もう何年になるだろう。
唯一の救いは、漫画とアニメと、そこに出てくる「飯」だった。
ページの中で湯気を立てる肉。あふれる肉汁。キャラが頬を押さえて「うまいっ!」と叫ぶ、あの飯。通称、漫画飯。現実には絶対に存在しない夢の食べ物だ。
その漫画飯に焦がれながら、俺は今夜もスマホの出前アプリを開いた。
——が。
「……なんだこれ」
いつもの見慣れた店が一軒もない。代わりに並んでいるのは、見たこともない店名ばかりだった。
『辺境亭・本日のオーク丼』
『エルフ族行きつけ・森のキノコ粥』
『ドワーフ鍛冶飯(特盛)』
「……は?」
最初に思ったのは、ごく現実的なことだった。
(なんだ。こういうコンセプトの店か?)
ファンタジー風の世界観で売る、創作料理の店。最近たまにある、ああいうやつだ。オーク丼ってのも、どうせ見た目のいかつい肉料理に、それっぽい名前をつけてるだけだろう。
……と、頭では思う。思うのだが。
画面の一番上に出ているオーク丼の写真が、あまりにうまそうだった。艶やかな照り。とろける脂。白米の上にこれでもかと盛られた分厚い肉。まさに、何百回と漫画の中で見てきたあの飯そのものだ。
気づいたら注文ボタンを押していた。
◇
ピンポーン。
……早い。早すぎる。注文してまだ三分も経っていない。
俺は玄関へ向かい、ドアスコープを覗いた。そして固まった。
(……でかい)
ドアの向こうに立っていたのは、身長二メートルはあろうかという緑色の巨躯。突き出た二本の牙。丸太のような腕。手にはなぜか出前用の保温バッグ。
オークだった。
(……ああ、なるほど。やっぱりコンセプト店か。着ぐるみ、すげえな。気合い入ってんなあ)
そう自分を納得させようとした。だが、よく見ると妙だった。
着ぐるみにしては息づかいが生々しい。牙の先が照明を受けて濡れて光っている。何より、廊下の電球がそいつの体で陰になって、落ちる影がやけに重い。
背筋が、ぞわりとした。
(……いや。最近の特殊メイクとか着ぐるみの技術って、すごいらしいからな。うん。きっと、めちゃくちゃ凝った店なんだ。そういうことにしておこう)
必死に、考えるのをやめる。
なのに、その理性の三歩うしろで、オタクの俺が抑えきれずに前へ出ようとしていた。(もし。もしも本物だったら。実物のオークが、今、俺の家のドアの前に……)
怖い。正直、めちゃくちゃ怖い。でも、見たい。間近で見たい。
結局、好奇心が勝って、俺は震える手でドアを開けた。
「……ご注文の品を、お届けに上がりました」
オークがぺこりと頭を下げた。意外と丁寧だ。声も思ったより低くて穏やかだった。
「オーク丼、一丁。熱いうちにお召し上がりください」
差し出された保温バッグを、俺はほとんど反射で受け取った。
「……あ、ありがとう、ございます……」
オークはもう一度丁寧に頭を下げると、のっそりと踵を返した。
「……あ、あの!」
気づいたら呼び止めていた。
「な、なんでオークが、出前を……?」
オークは振り返り、少し困ったように頭をかいた。
「……魔王城の不景気でしてな。兵士の副業ですわ。これが案外、性に合っておりまして」
魔王城の不景気。兵士の副業。さらっと聞いたが、わりと重い。
「では。またのご利用を」
そう言って緑の巨躯は、夜の廊下の闇に消えていった。
◇
ドアを閉めて、俺はしばらくその場に座り込んでいた。
……今の、なんだ。夢か。でも手の中には、確かにあたたかい保温バッグの重みがある。
そしてふと、嫌な可能性に気づいてしまった。
オークが、届けた。オーク丼を。
「……まさか」
恐る恐る蓋を開ける。湯気と一緒に香ばしい匂いが立ちのぼった。白米の上に、てらてらと光る分厚い肉。
……これ、まさか、さっきのオークの同族なんじゃないか。共食いを、俺は手伝わされてるのでは。
血の気が引いた、その時。バッグの底に一枚の紙が入っているのに気づいた。
『当店のオーク肉は、討伐された“野生のオーク”(魔物)のみを使用しております。配達員(オーク族の方々)とは別の生き物ですので、ご安心ください。──辺境亭』
「……丁寧な注意書き!」
どうやらこの店の設定では、人を襲う「魔物のオーク」と、出前をしてくれる「種族としてのオーク」は、別の生き物という扱いらしい。
……ここまで作り込むか、この店。設定資料集でも付いてくるんじゃないか。逆に感心する。
まあいい。要するに、れっきとしたジビエってことだ。
俺はごくりと唾を飲んだ。漫画飯の一丁目一番地。憧れの(自論)オーク肉だ。
箸を入れる。ほろりと肉がほどけた。
一口。
——…………。
「…………うっま」
脂が甘い。臭みはまるでない。噛むほどにあふれる肉汁が、甘辛いタレの染みた白米と絡んで、もう止まらない。
うまい。うますぎる。漫画の中でキャラが頬を押さえて叫んでいた、あの飯。一生手が届かないと思っていたあの飯が、今、俺の口の中にある。
気づいたら涙がにじんでいた。……飯で泣くやつがいるか。いや、いた。ここに。
誰もいない部屋で、俺は夢中で丼をかき込んだ。久しぶりに、ひとりじゃない気がした。さっきのオークの低くて穏やかな声が、まだ耳の奥に残っていた。
◇
完食して、俺は空になった丼を前に、もう一度スマホを開いた。
出前アプリの店一覧。やっぱり見慣れた店は一軒もなく、代わりにずらりと並ぶのは、異世界の店、店、店。
画面の隅に、見慣れない一文が増えていた。
『──異界のお客様。ご利用ありがとうございます。次回も心を込めてお届けいたします』
「……異界の客、ねえ」
徹底してるな、と思った。客のことまで世界観に巻き込んでくる。よっぽど凝った“設定”の店なんだろう。きっと、そうだ。そうに決まってる。
……まあ、なんだっていい。
画面の店一覧を、もう一度ながめる。『エルフ族行きつけ・森のキノコ粥』。『ドワーフ鍛冶飯(特盛)』。さっきまで気味が悪かったはずのその並びが、今はもう、たまらなく魅力的に見えていた。
あの肉が、とびきり旨かったのは間違いない。だったら、他のだって。
怖い。正直、めちゃくちゃ怖い。でも漫画飯には抗えない。
俺は明日も、きっとこのアプリを開く。
孤独な社会人の奇妙な晩ごはんは、こうして静かに幕を開けたのだった。




