第96話 千紗と紗月、春からのことを話す
「お母さん、今、いい?」
リビングの入口で、紗月が冊子を抱えていた。
日曜の午後。
読んでいた本から顔を上げると、紗月はソファのそばまで来た。
「ええ。どうしたの?」
「大学、決めたの。ここに行きたい!」
差し出された案内を受け取った。
表紙を開く前に、紗月が上から手を伸ばしてくる。
「あ、このページ。学科のほうなんだけど」
「隣に座ったら? 立っていると、見にくいでしょう」
「うん!」
紗月が腰を下ろしたので、二人の間で案内を広げる。
私も本を閉じ、脇へ置いた。
「コミュニティ福祉っていうのを勉強するの。この前、悠真と、ここの交流カフェに行ってきたんだ」
「交流カフェ?」
「地域の人も学生さんも来て、お茶飲んだり、一緒に何か作ったりするところ。私たちも、初めて会った人といっぱい話したの!」
紗月の指先が、活動紹介の写真をたどった。
いくつもの机を囲んで、人が座っている。
「何を作ったの?」
「葉っぱの飾り。赤とか黄色の紙を切ってね。……私たち、切ったところまでだったけど」
「あら、途中までだったの?」
「お茶飲んで話してたら、終わっちゃった!」
紗月が笑った。
私も写真から顔を上げる。
「お話のほうが忙しかったのね」
「うん。でも、それだけでもいいんだって! お茶飲みに来るだけの人もいるし」
そう言って、紗月は次のページをめくった。
今度は授業の紹介だった。
「あの会も、学生さんたちが地域の人と相談して考えてるの。それを聞いてから、ほかの授業も見てみたんだ!」
「集まりで何をするかも、勉強するの?」
「うん。その前に、話を聞きに行くところからみたい。自分たちだけで決めないんだって」
紗月は少し身を乗り出し、ページの下を指した。
「この写真の人、何を話してるのかな。地図、広げてるでしょ?」
「ええ。何か教えてもらっているようね」
「私も、あのカフェで近道を教えてもらったの! そういうの、地図見てるだけじゃわかんないんだよね」
紗月がまたページの端をつまむ。
「待って。お母さん、まだここを読んでいるの」
「あ、ごめん!」
指が離れた。
けれど、次のページを見せたそうに、手はすぐ横に置かれている。
「ほかにも、見せたいところがあるのね」
「あるよ! こっちにも、見てほしいのがあって」
「じゃあ、ここを読んだらね」
紗月はうなずいて、私と同じところへ目を落とした。
地域での調査や、活動を終えたあとの話し合いについて書かれていた。
紗月が次をめくらずに待っているので、私から尋ねた。
「紗月も、何をするか考えるところから入ってみたいの?」
「うん! 来た人が、これやってみたいって言ったら、私も一緒に考えたい! 知らないことだったら、調べてみたいし」
「その人のお話を、もっと聞きたくなったのね」
「そう! また会ったら聞きたいこともあるの。それに、自分がやりたいことも話してみたい。私、聞くだけじゃなくて、やるほうも入りたいから」
「ええ。そこはよく分かるわ」
紗月は少し口をとがらせ、それから笑った。
「お母さんも、見れば分かるよ。楽しそうだもん」
「見ているわよ。今、紗月に見せてもらっているでしょう」
「じゃあ、次のも!」
今度は私も読み終えていたので、ページをめくった。
授業の話をいくつか聞いたあと、私はページの上の学科名をもう一度確かめた。
紗月はページから手を離し、膝の上に置いた。
「ここで、勉強したいのね」
「うん。私、ここに行きたい!」
「そう。準備を進めていきましょうね」
紗月がうなずいた。
案内を返すと、両手で受け取る。
「家から通えるところなの?」
「うん。電車で行けるよ! この前も、駅から歩いたの」
「出願に必要なものは、確かめた?」
「大学のページは見た! 学校で出してもらう書類もあるから、先生に聞くつもり」
「分かったわ。家で用意するものも、分かったら教えてね」
「うん」
紗月は案内を開いたまま、膝に置いた。
私は読んでいた本に手を伸ばしかけて、やめた。
紗月がまだ、こちらを見ていたから。
何か気になることがあるのだろうか。
尋ねようとして、さっき大学の話をしていた顔を思い出す。困っているようには見えなかった。
入試のことなら、もう少し一緒に確かめられる。
けれど、紗月はそのページを開こうとはしなかった。
私も本を取らず、そのまま座っていた。
◇
「悠真にもね、ここに行きたいって話したの」
お母さんのほうへ、もう少し体を向けた。
案内が膝から落ちそうになって、手で押さえる。
「そう。水野くんは、何て?」
「いいなって。それでね、入ってからの話も聞きたいって言ってくれた!」
思い出すと、また嬉しくなる。
あのとき、悠真も私の顔を見てた。
「私も、悠真の話聞きたいんだ! どんな料理作ったとか、今日は何したとか。私の知らないの、いっぱいあると思う!」
「お互いに、話すことが増えそうね」
「うん。私も、こんな人に会ったよって言いたい!」
春になったら、私はこの大学へ行く。
案内の写真の中を、もう一度見た。
あの机に座ってる私も、知らないことをいっぱい聞くんだろうな。
悠真は、別の学校で料理を作ってて。
「……でも、帰ってからなんだよね」
お母さんが私を見た。
「今はさ、休み時間に悠真のとこ行けば、そのときに話せるの。帰りも、席まで行って、帰ろって」
この前も、そうだった。
鞄を持って悠真のところへ行ったら、先生に呼ばれてるって言われて。
「春になったら、席に行ってもいないんだなって。……席も、ないか」
ちょっと笑ったけど、お母さんの顔を見たら、続きが出なくなった。
案内の端を、親指でなぞる。
「大丈夫よ。学校が別になっても、会えなくなるわけではないでしょう」
「うん。会いたいし、会うよ」
お母さんがうなずいた。
私も、案内へ目を戻した。
行きたい。
ここで勉強してみたいのは、変わらない。
「でもね、お母さん」
もう一度、顔を上げた。
「一緒にお昼食べたり、授業終わったらすぐ話したり。そういうのも、好きなんだ」
「ええ」
「大学のこと考えるの、楽しいよ。でも、今みたいに会えなくなるのは……寂しい」
最後だけ、声が小さくなった。
言っちゃったら、悠真の席が見たくなった。
明日は、まだ行けるんだけど。
「……そうね」
お母さんの手が、膝の上で重なった。
私は案内を押さえたまま、お母さんの顔を見ていた。
「帰りは、紗月が席まで迎えに行くの?」
「うん」
「水野くんは、もう帰る支度をしているの?」
「してるときもある。この前は、先生に呼ばれてたから、待ってたの」
お母さんは本に手を伸ばさなかった。
私を見て、続きを待ってる。
「そのときに玲奈にも、この大学の話したんだ。悠真の席の、すぐ後ろだから」
「お話ししながら待っていたのね」
「うん。写真、もう一枚見せたかったんだけど、矢野くんが玲奈を迎えに来ちゃって」
「あら」
「でも、続き送っといてって言ってくれたから、送った!」
お母さんが少し笑った。
「紗月の説明が終わるまで待っていたら、帰りが遅くなりそうね」
「そんなに長くないよ!」
言ってから、膝の案内を見た。
お母さんも同じものを見ている。
「……ちょっと、長いかも」
「まだ、見せたいところがあるのでしょう?」
「ある!」
お母さんが笑ったので、私も笑っちゃった。
案内を二人の間へ戻す。
「それでね、悠真を待ってる間も、また見ちゃった。さっきの写真」
「好きなのね、あの写真」
「うん。私も一緒に話してみたくて」
お母さんが、さっき二人で見たページを開いた。
地図を広げている写真だ。
「水野くんが戻ってきたら、これを見せたかったの?」
「あ、それも。……でも、早く一緒に帰りたかった!」
「待っていたものね」
「うん。一緒に帰りたいから」
お母さんが私の顔を見て、うなずいた。
すぐに次のことは言わなかった。
私も少し黙って、写真を見た。
それから、ページの端に指を添えた。
「ねえ、さっき見せようと思ってたの、この次なんだけど」
「ええ。見せて」
今度は、お母さんがページをめくってくれた。
私はその隣から、見つけておいた授業の名前を指した。




