第92話 ひより、友達と先輩の焼うどんを食べに行く
案内板の端にテープを貼り、指で押さえた。
剥がれていたのは上の角だけ。これで、矢印が裏返らずに済む。
「すみません、体育館はどちらですか?」
振り向くと、パンフレットを開いた女性が立っていた。
「この先を右です。こちらの通路から行けます」
手で方向を示すと、女性はお礼を言って歩いていった。
その背中を見送って、残ったテープを片付ける。
午後の巡回はここまで。
次の担当にはまだ時間がある。
委員の控え場所へバインダーと道具を戻し、待ち合わせの昇降口へ向かった。
「ひより、こっち!」
奈々がパンフレットを振っていた。
「ごめん。待った?」
「ちょっと。輪投げ、見てきたんだけどさ。景品にペンギンがいた!」
「ペンギン?」
「ぬいぐるみ。これくらいの」
奈々は両手で丸を作った。思ったより大きい。
「持って帰るの?」
「取る前から帰りの心配しないでよ~」
「取れたら持つの、奈々だからね」
「え~そこは手伝ってよ」
奈々が笑いながらパンフレットを畳む。
「じゃ、行こ」
「その前に、焼うどん、いこうよ」
「あ、そっか。言ってたやつね」
「うん。お腹すいたし」
巡回中、模擬店の近くを通るたびにソースの匂いがしていた。
今度は、通り過ぎなくていい。
◇
三年B組のテントの前には、何人か並んでいた。
最後尾に着くと、鉄板の向こうで先輩がへらを動かしているのが見えた。
隣には、髪を結んだ橘先輩。
受け取り口の近くにいた男の先輩が、財布をしまいながら声をかけた。
「水野、ちゃんと金払ったぞ。二つな」
「見てたよ、松井。ちょっと待て」
「私の、焼けてるところ多めね」
隣の女の先輩まで鉄板をのぞいてる。
「相原さんも、ほんとに見てんだな……」
「だって、そこ、おいしそうだもん」
「そこだけ集めたら俺のなくなるだろ」
その言葉に、橘先輩が笑った。
この二人は、試運転の連絡に来た日にもいた。
先輩たちと、作り方の紙を囲んでいた人たちだ。
松井先輩と相原先輩。
名前と顔が、ようやくつながった。
二人が受け取って横へ抜けたところで、先輩が顔を上げた。
「お、柊」
「こんにちは。食べに来ました」
「来てくれたんだ! 柊さん、いらっしゃい!」
橘先輩もこっちを見た。
先輩はへらで麺を返してから、私の腕章へ目をやる。
「仕事、一段落したのか?」
「はい。次の担当まで時間があるので、二人で回ろうと思って」
奈々のほうへ手を向けた。
「友達の小早川です」
奈々は私を見ていた。次に先輩を見て、その隣の橘先輩を見た。
「あっ、はい。こ、小早川です。こんにちは」
「おう。いらっしゃい」
「二人とも焼うどん?」
「はい。二つお願いします」
私が答えると、奈々もうなずく。
財布を出そうとして、畳んだパンフレットまで引っ張り出してる。
「奈々、それはお金じゃない」
「わかってる。今、出すとこ」
普段ならもう少し、いろいろ喋っているのに。
何をそんなに慌てているんだろう。
会計を済ませて、受け取り口へ進む。
橘先輩が、先輩の寄せた麺にソースを混ぜていた。
同じ向きにへらが動いて、湯気が上がる。
あの連絡の日は、火をつける前に次の店へ行ってしまったから。
今日は、できたものを受け取るまで見ていられる。
「先輩。料理の学校では、どんなものを作るんですか?」
「まだ全部は知らねえけど。和食も洋食も、いろいろやるって」
「今まで作ったことのないものも?」
「そっちのほうが多いと思う。作れるもん、増やしたいしな」
先輩はそう言って、容器へ焼うどんを盛った。
「私も楽しみ! まだ食べたことないの、いっぱいあるから」
「俺が持って帰れるとは限らねえぞ」
「おうちでも作ろうよ。一緒に!」
「……まあ、やってみたいのは作るけど」
橘先輩が嬉しそうにうなずく。
先輩も少し笑って、盛り終えた容器を販売の人へ渡した。
春からの話なのに、もう作るものを楽しみにしている。
あの日、料理の学校へ行くと聞いたときよりも、少し想像できた。
「柊も、ちゃんと楽しんでけよ」
「はい。先輩も」
「おう」
販売係の人から容器と箸を受け取った。
茶色く焼けた麺が、上に何本も見える。
食べるのも楽しみだし、話せたのも嬉しい。
来てよかった。
テント脇の机に空きを見つけて、奈々と並んで座った。
奈々は容器を置くと、小さく息を吐いた。
「……普通に喋るんだね」
「先輩と?」
「うん。橘先輩とも」
「この前、来てねって誘ってもらったから」
「そうだったんだ」
奈々が自分の箸袋を裏返した。
「もっと早く言ってよ!」
「焼うどんに行くとは言ったよ」
「そこじゃなくて~」
言いながら、奈々はようやく笑った。
私も箸を割る。
「奈々、挨拶、すごく丁寧だった」
「ひよりが急に紹介するからでしょ」
「しないほうがよかった?」
「する前にちょっと相談してほしかったな~」
そういうものらしい。
次は先に聞くことにして、私は麺を持ち上げた。
一口食べる。
ソースの味がして、噛むと焼けたところが少し硬い。
そこがおいしかった。
「おいしいね、これ」
「うん。お腹すいてるときに正解な味だね!」
奈々はもう二口目を取っている。
よほどお気に召したらしい。
「こちら、よろしいですか?」
顔を上げると、白い髪のおばあさんが、容器を二つ持って立っていた。
隣には小さな男の子。
「はい。どうぞ」
いったん立ち上がり、向かいの椅子を少し引いた。
奈々も、向かいの椅子に置いていた鞄を膝へ移す。
「おばあちゃん、ここ。ここ座って」
男の子が、私の引いた椅子を押さえる。
「はいはい。ありがとうね」
おばあさんが座るのを見て、私も席に戻った。
男の子はおばあさんの隣の椅子へよじ登った。
おばあさんが容器の一つを男の子の前へ置こうとする。
「ぼくが置く」
「熱いから、下を持ってね」
受け取った容器が傾きそうで、私は手を伸ばしかけた。
でも、男の子は両手で持ち直した。おばあさんもすぐ横で見ている。
私は手を引っ込めて、待った。
男の子はゆっくり、自分の前に容器を置いた。
「できた」
「うん。ちゃんと置けたね」
私が言うと、男の子は容器をもう一度見て、うなずいた。
さっきまでより胸を張っている。
こういう顔、こはるもしていたのを思い出す。
まだ小さかった頃。私が代わりにやろうとすると、怒ることもあった。
男の子がおばあさんに箸を割ってもらう間に、私も自分の続きを食べた。
「おねえちゃん、それ、にんじん?」
持ち上げた箸を止める。
男の子は、私の箸先を指していた。
「そう。こっちにも入ってるよ」
男の子の容器にも、麺の下からオレンジ色が見えている。
「ぼく、キャベツがいい」
「じゃあ、これかな」
触らずに指で示すと、男の子は箸を動かした。
麺が一本ついてきて、それを食べる。
「キャベツ、下に残ったね」
奈々が言うと、男の子はまた同じところへ箸を入れた。
今度はキャベツも持ち上がった。
「取れた」
「うん。今度は取れた」
つい、一緒に笑ってしまった。
その隣で、おばあさんも焼うどんを口へ運んでいた。
「どう? 柊さん」
顔を上げると、橘先輩がテントの端からこちらへ来るところだった。
先輩も一緒だ。鉄板の前では、別の二人がへらを持っていた。
「おいしいです。焼けたところが、特に」
「あ、相原さんと一緒だ!」
「さっき聞いていて、気になったんです」
私がそう言うと、先輩が笑った。
「あれ聞いてたか。好きなんだよな、そこ」
「私も、そこ好きです」
「よかった! いっぱい焼いたからね」
橘先輩が私の容器を見ると、男の子が顔を上げた。
「さっき、じゅーってしてた人?」
「そうだよ。見てた?」
「うん。すっごく混ぜてた」
男の子が箸を持ったまま腕を動かしかけて、おばあさんに止められた。
橘先輩が笑う。
「大きいへらだったでしょ。いっぱい作れるんだよ」
「これも?」
「うん。それも!」
男の子は容器を見下ろした。
それからまた、麺を食べ始める。
「おいしいですよ。私たち、あちらまで匂いがして、つい来ちゃって」
おばあさんが通路のほうを指した。
「お昼を少し食べてきたんですけどねえ」
「私も、さっきからずっとお腹すいてます」
橘先輩が言うと、おばあさんは声を上げて笑った。
奈々も隣で笑っている。
「作ってる人が、一番いい匂いのところにいるもんね」
「そうなんです! 悠真、私も一皿買ってくる」
「俺も食う。ちょうど今、空いたみたいだしな」
先輩が財布を出した。
橘先輩はテントを振り返り、受け取り口にいた係の人へ笑いかける。
「匂いで来てくれたんだって!」
「ほんと? じゃあ、さっき声かけたとこより遠くまで届いてたんだ」
「うん!」
「やったね。次、もう焼けるよ」
その人は笑ったまま、空の容器を鉄板のほうへ差し出した。
橘先輩もそちらを見て、嬉しそうにまた私たちへ顔を戻す。
「柊さんたちは、このあとどこ行くの?」
「輪投げです。奈々が、景品を取りたいって」
「ペンギンがいるんです。大きいの」
今度は奈々も、すぐに答えた。
「あ、見た! あれ、かわいいよね!」
「ですよね。連れて帰りたくて」
「帰りは自分で持つんだよ?」
念のため言うと、奈々が私を見た。
「まだ言う」
「取ったら困るから」
橘先輩が吹き出した。
向かいで男の子も笑っていた。何がおかしかったのかはわからないけれど、一緒に笑いたくなったらしい。
「柊さん、弟とか妹、いる?」
「両方います。弟と妹が一人ずつ」
「そうなんだ! なんか今、お姉ちゃんみたいだった」
「私、妹になってた?」
奈々が言って、自分で笑った。
「おうちでも、こんなふうに一緒に食べるの?」
「はい。もっと騒がしいですけど。弟が何か言って、妹が言い返して」
「柊さんは?」
「お母さんに呼ばれたら、お皿を出したり。妹の話を聞いたり。……食べるの、止まってることもあります」
こはるは、話し始めると箸を置く。
聞いている私まで置いてしまって、お母さんに二人まとめて言われる。
「わかる。私も悠真に言われるよ。先に食えって」
橘先輩が会計のほうへ目をやった。
先輩は財布をしまって、受け取り口へ移っていた。
「橘先輩は、先輩とお料理作って食べてるんですか?」
「うん。毎日! 今日のこれも楽しいけど、おうちだと次に何作ろうって話せるのも好きなんだ」
毎日って……なんか、すごい。
「献立も、一緒に?」
「そう! 写真見ながら、これ食べたいって。でも、一回じゃ決まらないんだよね」
「橘先輩が、いっぱい選ぶからですか?」
「……うん。なんでわかったの?」
奈々が口元を押さえた。
私も少し笑う。
「さっきも、まだ食べたことのないものがいっぱいって言っていたので」
「だって、食べたいじゃん。柊さんも、ない?」
「あります。これも、家で食べたいです」
容器に残っていた麺を、箸で少し寄せた。
「家族で食べると、すぐなくなりそうですけど」
「いっぱい作ればいいよ! ……あ、家のフライパンだと、入りきらないかな」
「二回に分けるとか」
「そっか。あ! 連絡先、交換しない? 今度、作ったものの話もしようよ」
箸を置いて、橘先輩を見た。
私の返事を待っている。
奈々がなんかあわあわしてる。
委員の用事がなくても、この人と話せるようになる。
……うん、楽しそう、かな。
「はい。私も、聞きたいです」
スマホを出し、LINEを開いた。
橘先輩の画面を読み取って、名前を確かめる。
追加すると、その場でスタンプが一つ届いた。
「来た?」
「はい。私も送ります」
挨拶のスタンプを返すと、橘先輩が画面を見て笑った。
「これからも、よろしくね!」
「よろしくお願いします」
「紗月、受け取ったぞ」
先輩が二つの容器を持ってきた。
橘先輩はスマホをしまい、一つを受け取る。
「じゃあ、私たちも食べてくるね。輪投げ、楽しんできて!」
「はい。ごちそうさまでした」
私たちは残りを食べ終え、立ち上がった。
男の子が顔を上げる。
「ペンギン、取る?」
「取ってくるよ!」
奈々は言い切った。
「……そんなこと言って大丈夫?」
「これから取るから、大丈夫!」
おばあさんも笑って、手を振ってくれた。
◇
容器と箸を決められた場所へ捨てて、校舎へ向かう。
奈々がパンフレットを開いた。
「こっちの階段だよね?」
「うん。二階」
隣へ並びながら、さっきの男の子を思い出した。
容器を置けたときの顔。キャベツが取れたときの声。
お世話をしたというほどのことはしていない。
でも、楽しかった。
「ひより?」
「……子どもと関わる仕事って、保育士とか、先生とかだよね」
奈々がこっちを見た。
「気になるの?」
「ちょっと。そういう学校で、何を勉強するんだろうって」
弟妹と過ごしているだけじゃ、知らないことがいっぱいあるはずだ。
先輩が、まだ作れない料理を学校で習うみたいに。
「ひより、さっき楽しそうだったもんね」
「うん」
何を学ぶのか、あとで見てみたい。
階段を上がると、輪投げの看板が見えた。
奈々が歩くのを速める。
「いた。まだいる、ペンギン!」
景品棚の上に、青いペンギンが座っていた。
丸いお腹が白い。
あれが奈々の腕に収まって帰るところを想像すると、ちょっとおかしかった。
参加料を払い、二人とも輪を三つずつ受け取る。
床の線の先には、点数の書かれた棒が並んでいた。
奈々は景品の必要点数を確かめ、奥の棒をじっと見る。
「全部あそこに入れば、いける」
「全部入ればね」
「ひより、応援して!」
「見てるよ」
奈々が最初の輪を投げた。
棒に当たり、跳ねて、そのまま向こうへ転がっていく。
「あっ、今の惜しい」
「当たったね」
「あとちょっとだったのに〜」
二つ目は手前に落ちた。
三つ目は棒をかすめて、横へ。
奈々は空になった手を見た。
「……ひより、あとは任せた!」
「私が欲しいのを狙うよ?」
「え、何? どれ?」
棚の下の、小さな犬を指した。
片方の耳だけ、折れている。
「あれ」
「いつ決めたの?」
「奈々がペンギン見てるとき」
輪を持って、線の前へ出た。
近いほうの棒でいい。手をまっすぐ出して、投げる。
輪は棒の横へ落ちた。
「ひよりも外してんじゃん」
「まだ二つあるよ」
「私もさっきそう思った」
それを今、言わないでほしい。
笑ってしまって、投げられない。
一度腕を下ろした。奈々も隣で笑っている。
次はもう少し、手前で輪を離してみよう。
「奈々、静かにしててね」
「はいはい。見てますよ〜」
口元に力が入ったまま、二つ目の輪を構えた。
あの犬は、私が連れて帰りたい。




