第86話 悠真、椅子の写真より紗月を見ていたのがバレる
九月に入って最初の週、三年B組の放課後。
俺が帰る準備をしていると、紗月が席に近づいてきた。
「悠真、宿題ってノート提出だっけ?」
「現代文ならプリントのほうだぞ。ノートは来週の月曜までだ」
「あ、よかった! まだ半分しかできてなかったの」
紗月は胸の前で小さく手を合わせて、ほっとしたように笑った。
夏休みが明けても、こいつの調子はちっとも変わらないな。
「半分って……お前、何やってたんだよ」
「え? いろいろ!」
「いろいろで済ますな」
俺が呆れたところで、ガラガラと教室の後ろの引き戸が開いた。
だらけた足音と一緒に、見慣れた顔が入ってくる。
「宮田、帰るぞ」
矢野だった。
別クラスのくせに、自分の教室みたいに平然と入ってくると、宮田の席へまっすぐ歩いていく。
いつの間にか、律儀に来るようになったな、こいつ……。
「ちょっと待って。今、筆箱しまうから」
宮田は机の上のペンを片付けながら、顔も上げずに返した。
相変わらずテンポが速いというか、無駄がない。
矢野は宮田の机の脇に立ったまま、視線を俺に向けた。
「よお、悠真。顔が完全に夏休みボケだな」
「ボケてねえよ。昨日、出願の書類出したばっかだ」
「出願? あ、専門のか」
「そうだよ」
七月に受けた面接の結果が出てから、学校からは九月になったら正式な出願書類を出すように言われていた。
夏休みのあいだに準備しておいた封筒を、昨日送ったところだ。
ちょっと肩の荷が下りた感じがする。
「へえ、もう出したんだ。じゃあお前、あとは卒業まで遊んで暮らすだけじゃん。暇人だな」
「暇人言うな。やること普通にあるわ。……っていうか、お前こそどうなんだよ」
聞き返すと、矢野は顔を少し上へ向けた。
「俺? 夏にいくつか絞ったわ。通いやすいとこと、科目的に無理がないやつ」
「一般で受けるのか? 受けるところ、もう決めたのか?」
「候補はな。あとは過去問回すだけだ」
「将来何やるとかは?」
「まだなーんも。入ってから考える」
矢野は悪びれもせず、いつもの調子で言い切った。
宮田が鞄のファスナーを閉めながら、横から口を挟む。
「矢野、通いやすいところばっかり残したでしょ」
「通学時間は体力だろ。満員電車で削られる理由がない」
「まあ、あんたらしいけど」
呆れたような口調でそう言って、宮田が立ち上がり、肩に鞄を掛けた。
矢野はただ眠そうに瞬きをしている。
なんだかんだ、こいつもちゃんと前に進んでいるんだな、と思う。
「だろ。だから暇なのは悠真だけ」
「だから暇じゃねえっての。俺だって、紗月の兄貴からの宿題、まだ途中だし」
他のやつが読んでも同じ味にできるように、ってのが難しいんだよな。
「あ、あの肉じゃがの紙! 今日もやる?」
鞄を抱えていた紗月がぱっと顔を輝かせた。
「ああ、やる」
「じゃあ私もやる! 一緒に作ろ!」
「そのつもりだったぞ」
「うん!」
なんでそれだけで、そんなうれしそうなんだよ。
「はいはい、ごちそうさま。飯のあとは?」
矢野が聞いてきた。
「特に何も——」
「あっ、見てほしいのあるの!」
紗月が、鞄の奥から冊子を取り出す。
「……あるらしい」
「悠真の予定、橘に聞いたほうが早くね?」
「俺に聞けよ」
「聞いてる途中で埋まったぞ」
それは俺にもどうしようもねえだろ。
宮田が紗月の冊子へ目を留めた。
「それ、見学したとこ?」
「うん。あと、デザインのほうも調べてるんだ。気になるのがあって!」
「どれにするか決めたの?」
「まだ。工芸ももっとやってみたいし、こっちも面白そうなの」
「そ。じゃあ、また聞かせて。矢野、行こ」
「じゃ、俺ら先行くわ。腹減ったし」
矢野と宮田が並んで教室を出ていく。
二人を見送りながら、俺も鞄を持ち上げた。
「……あいつら、付き合ってからもあんま変わんねえな」
「そうかな? 二人とも、すっごく自然で楽しそうだよ」
紗月が鞄を肩にかけて、俺の横に並んだ。
「行こ、悠真! 今日もごはん、一緒に作ろ!」
「おう。作るのは――」
「肉じゃが!」
迷いのない声に背中を押されるようにして、俺たちは放課後の教室をあとにした。
◇
夕方、紗月んちの台所で、二人で切った具材を鍋に入れた。
水と調味料を加えて、火にかける。
持ってきた料理の紙は、シンクから離れたところに広げておいた。
「悠真、それ、まだ丸ついてるね」
紗月が紙を覗き込む。
「ああ。ここがな」
音が変わったら弱める。
三回作っても、これをどう書けばいいのか決まらなかった。
使い終わったまな板を洗っていると、紗月が「あ」と声を上げた。
「今のだ! 火、弱めるね」
ぼこ、ぼこ、と大きくなった音を聞いて、紗月が自分で火を弱める。
手を拭いて隣へ行くと、もう鍋の音は小さくなっていた。
「覚えてたのか」
「うん! 前とおんなじだった!」
「ちゃんとできてんな」
「でしょ!」
紗月が胸を張った。
前はこっちを見て、やっていいか聞いてきたのにな。
鍋の中では、じゃがいもの隙間から小さな泡が出ていた。
さっきみたいに、具がぐらぐら動いていない。
「……ああ。これなら書けるか」
「書けるの?」
「弱めるって書いてあるけど、どこまでか書いてねえ」
紙の丸を指してから、鍋を見た。
今のを見てないやつに、この紙だけ渡したらどうなるんだ?
「火、もっと小さくするの?」
「いや、今のままでいい。ほら、じゃがいもはあんまり動いてないだろ」
「ほんとだ。さっきはぐるぐるしてた」
「でも、端んとこ見てみ」
「ふつふつしてる!」
「そう。このくらいで煮たいんだよな」
二人でしばらく覗いていても、小さな泡は出続けていた。
蓋を少しずらして載せてから、もう一度手を拭いて紙のところへ戻る。
丸の脇に、具が大きく動かず、煮汁が静かに沸くくらいまで、と書き足した。
毎回見てたはずなのに、今やっと書けた。
……なんか、うれしいな。これ。
紗月も横から紙を覗き込んだ。
「うん、さっきの鍋だ! 私が弱めたとこだね!」
「そうだな。音のほうは、もうちょい考えるけど」
「やったね、悠真!」
紗月が笑ったので、俺も少し笑った。
紙とペンを片づけ、煮えるまでの間に二人分の皿を出す。
じゃがいもに箸がすっと通るようになったところで、火を止めた。
肉じゃがを皿に盛る。
「持ってくぞ」
「はーい!」
紗月と一皿ずつ持って、食卓へ運んだ。
◇
夕飯を食べ終えて食器を片づけると、紗月がテーブルに学校から持ち帰った冊子を広げた。
俺も麦茶を持って、隣に座る。
「見てほしいって言ってたの、これか?」
「うん! こっちは見学したとこの。あとね、まだ行ってない大学もあるの!」
紗月がスマホを横に置いた。
画面にはデザイン系の授業紹介が開いている。
冊子のほうは、青い縁の器に印がついていた。
スマホには、変わった形の椅子の写真が並んでいる。
「器と、椅子か」
「どっちも自分で作れるんだなって思って。ここ、面白そうでしょ!」
紗月が写真を指した。
背もたれが丸かったり、脚が外へ広がっていたり。
色々なやつが並んでるな。
「私、この形好きなんだ。ほら、横からだと……あれ?」
紗月が写真の下へ指を滑らせた。
「小さい模型、だって」
「本物の椅子じゃねえの?」
「うん。下に書いてある。形を変えて試してるんだって」
説明を読んで、紗月がまた写真を大きくする。
「あ、だからいっぱいあるんだ! 同じ人が、こっちも作ってる!」
俺も顔を近づけた。
端に写っている椅子は、背もたれの先が外へ反っている。
これも途中なのか。
最初は、どんな形だったんだろうな。
「何回も変えて試せるの、面白そう。でも、本物の椅子とか作る授業もあるのかな」
紗月は画面を少し下へ動かした。
「ここ、模型のことしか書いてないね」
スマホの横へ冊子を寄せる。
印をつけた器と、小さな椅子が並んだ。
「この前、金属の板を叩いて、だんだんお皿にしてくの、楽しかったんだ」
「ああ。最初、全然変わらなかったけどな」
「そう! ああいうのも、もっとやってみたいの。こっちの器も作りたいし、形を考えるのも……」
紗月は冊子の端を押さえた。
「でも、どっちを選んで、何をやりたいかっていうと……」
そこから先が、出てこない。
俺は麦茶を持ったまま、紗月の顔を見た。
……あれ。さっきまで、あんなに楽しそうだったのに。
「好きなものに印つけてたら、増えちゃった」
紗月が小さく笑って、器の写真を指でなぞった。
この前、皿を持ち上げて喜んでたのを見て、俺までうれしくなってた。
見つかったんだなって、ちょっとほっとしてた、けど。
好きなものがあっても、まだ選べない……か。
麦茶をテーブルへ置くと、紗月がスマホを引き寄せた。
「これ、聞いてみたい」
「模型のやつ?」
「うん。模型だけじゃなくて、本物を作れる授業があるのか。ここだけだと、わかんないもん」
紗月は授業紹介の下にあった、受験生向けの相談案内を開いた。
「学科の授業のことも、ここから聞いていいんだって!」
「そっか」
フォームを開いて、紗月が打ち始める。
「よし。送る!」
送信したことを知らせる表示に変わる。
紗月がスマホを置きかけたところで、俺は声をかけた。
「なあ。さっきの椅子、もう一回見せてくれ」
「椅子?」
「端っこの、背もたれが反ってたやつ。あれも同じ人が作ってんだろ。ほかの写真、まだある?」
紗月がこっちを向いた。
「気になった?」
「ああ。最初のと、全然違う形だったから」
「そうなの! 私もそこ、見せたかった!」
声が弾んだと思ったら、紗月が俺のほうへ身を寄せてきた。
二人の間にスマホを持って、さっきの写真を開き直す。
近い。
髪が腕に触れて、画面を指そうとした手が止まった。
「ほら、こっち! 横から見ると、支えてるとこも違うんだよ!」
「お、おう」
「ここがこうなってて……悠真、見てる?」
「見てる。けど、ちょっと待て」
紗月が顔を上げた。
俺を見て、にっと笑う。
「今、私のほう見てた?」
「近づいてくるからだろ」
「だって、悠真も見たいって言ってくれたから!」
それで、もうちょっと肩を押しつけてくる。
見たいとは言った。
言ったけど、こっちの顔まで見なくていいだろ。
「……次の写真、ゆっくりな」
「うん! 一緒に見よ!」
俺も体を寄せて、次の写真を覗き込んだ。
……こんなにうれしそうに見せられたら、まだ見てたいだろ。




