第78話 悠真、宮田の一言で止まった紗月に、なにも言えない
月曜の夕方。
紗月んちの台所に、量りを持ち込んだ。
三月にマフィンを焼いたときのやつだ。
棚の奥にあったのを、朝、引っぱり出してきた。
まな板の横にルーズリーフとボールペン。シンクの脇にキッチンタイマー。
……調理実習みたいだな、これ。
「悠真ー、なにそれ」
ダイニングから紗月が首を伸ばしてくる。
「量り」
「知ってるよ! うちにもあるのに、なんで持ってきてるの」
「どこにあるか言えんのか、お前」
「……たぶん、そこの棚のどっか!」
「たぶんのやつ探してる時間がもったいねえんだよ」
「むー。……じゃあ、その紙は?」
「宿題だっつっただろ。肉じゃが三回の、一回目」
「あっ、今日から!?」
紗月が椅子から立ち上がりかけたので、手のひらを向けて止める。
「座ってろ」
「見るだけ!」
「見るのはいい。触んな」
「触んないもん」
言いながら、紗月がテーブルに頬杖をついた。
……ぜったい途中で来るだろ、こいつ。
玉ねぎを二個、量りに乗せる。
三百八十。
書く。
……いや待て。皮、まだむいてねえぞ。
むいて、もう一回乗せた。三百二十。
さっきの数字に線を引いて、横に書き直す。
めんどくせえ。まだ玉ねぎだぞ、これ。
「悠真、なんか怒ってる?」
「怒ってねえ。玉ねぎに負けただけだ」
「なにそれー」
じゃがいももにんじんも、先に皮をむいてから乗せた。
じゃがいも、三個で三百六十。
にんじん、一本で百二十。
豚肉は、パックのシールをそのまま写した。二百五十。
肉は楽だな……。
鍋に入れて、水。
いつもなら、ひたひた、で終わりだ。
それが通じねえのは、こないだ嫌ってほど言われた。
計量カップを出して、四百五十を二回。
九百。書く。
醤油。
瓶を持って、鍋の上で止まった。
いつもは、ここでぐるっと回し入れる。
鍋の色を見て、そのへんで止める。
……回し入れ、って何グラムだよ。
「悠真ー、固まってるよー」
「うるせえ。今、醤油と戦ってんだよ」
「勝てそう?」
「負けてる」
大さじを出して、一杯ずつ数えた。
四杯で、いつもの色になった。
醤油、大さじ四。
みりん三、酒三、砂糖二。
書く。
四杯って、こんなに少なかったのか。
火をつける。中火。
タイマーを押す。
……中火って、なんだ?
つまみの位置か。炎の大きさか。
鍋の底に炎が届くくらい、って書いて、それで伝わんのか。
とりあえず「中火(鍋の底くらい)」と書いた。
我ながら雑だ。
「いいにおいー!」
「来んなっつっただろ」
「においは行ってもいいでしょ?」
「においは、まあ、いい」
「じゃあ私も、においだけ嗅ぎに行く」
「行くな。そっちで嗅げ」
「えー。じゃあ、紙だけ見る」
結局、紗月が来た。
においだけのはずが、俺の真横まで来て、肩をくっつけてルーズリーフを覗き込んでくる。
「三百二十……なにこれ、暗号?」
「玉ねぎ」
「玉ねぎ三百二十!?」
「二個でな」
「ふうん……ねえ、悠真、字きたない」
「うるせえ。手ぇ濡れてんだよ」
紗月が笑って、テーブルに戻っていく。
ぐつぐつ言い出した鍋の音が、途中でちょっと変わった。
煮立ちすぎだ。
火を弱めて、蓋をずらす。
タイマーを見る。七分。
七分で弱火、と書いた。
……いや、七分だからじゃねえよな。
音が変わったから弱めたんだ。
音って、なんだよ。
紙に「音が変わったら弱める」って書いて、それ読んだやつが、同じ音を待てんのか。
書いた。書いたけど、丸で囲んだ。
あとで考える。
二十分煮て、火を止めた。
箸を刺すと、すっと通る。
「できた」
「わー!」
皿に盛って運ぶと、紗月が課題を端に寄せた。
「いただきます!」
「おう」
紗月が、じゃがいもを口に入れて――止まった。
「……ん」
「なんだよ」
「んー……」
「まずいのか」
「ちがう! おいしい! おいしいけど……」
こいつが言葉を探してんの、珍しいな。
「昨日のと、おんなじ味がする」
思わず箸が止まった。
……本当かよ。
「そりゃ、まぁ、同じもの作ったからな」
「うん。でも、そうじゃなくて」
紗月が、じゃがいもをもう一口食べた。
「昨日のは、悠真が適当に作ったやつでしょ。今日のは、ぜんぶ量ったやつ」
「……ああ」
「なのに、おんなじなんだよ」
「……お前の舌、だいぶ適当だからな」
「ひどい!」
「褒めてる」
「褒めてないよ、それ!?」
まあ、こいつの一口で決まるような話じゃねえ。
……でも、うれしかったのは、ほんとだ。
「ねえ。三回目も、おんなじ味になるの?」
「……なるようにすんだよ」
「わかんないんだ?」
「わかんねえよ、まだ」
「ふうん」
「なんだよ」
「ううん。じゃあ、三回目、楽しみだね」
わかんねえっつったばっかだろ、俺。
食い終わって、皿を片付けたあと。
ルーズリーフをもう一回見た。
数字は、それなりに埋まってる。
埋まってないのは、丸で囲んだところだけだ。
音が変わったら弱める。
肉の色が変わったら、次。
だいたい、このへんで味見。
……全部、俺の中にしかないやつだ。
あと二回。
二回で、これが人に渡せる紙になるのかよ。
……なるわけねえだろ、たぶん。
まあ、やるけど、な。
◇
数日後。
放課後の三年B組は、もう半分くらい空になってた。
そんな中、俺と紗月は進路の話をしていた。
宮田は俺の後ろの席で、ノートを広げている。
「ねえ悠真、この辺って、大学どこがあるの」
「知らねえよ。見てねえもん、俺」
「えー」
「えー、じゃねえだろ。お前が調べろよ」
「調べてるもん。……でも、どこ見ればいいのか、わかんなくて」
紗月がスマホをこっちに向けてくる。
大学の名前が、上から下までずらっと並んでた。
「これ、上から順に見てくやつじゃねえだろ」
「じゃあ、どこから見るの」
「知らねえよ。俺、大学のほうは、もう見てねえんだって」
「あっ、そっか。悠真、専門だもんね」
言われて、ちょっと変な感じがした。
この前まで、俺のほうが進路が空欄だったのに。
「学部は?」
宮田が、ノートから顔を上げた。
しっかり聞いてたのか。
「……えっと」
「まだ決まってないの」
「うん。でも大学は行くよ! お母さんもそう言ってるし……玲奈は?」
「英語」
「おー! かっこいい!」
「かっこよくはないでしょ。ほかが全部だめだっただけ」
「消去法ってこと?」
「そう。残ったのがそれだっただけ」
言い方に、迷いがねえな。
コイツの中ではもう、決まってることなんだな。
「じゃあ玲奈、大学はどこにするの?」
「英語で、今より選べるものが増えるとこ」
「あ、そっか」
紗月が、うんうんとうなずいて、それから俺のほうを向いた。
「私はね、悠真の学校の近く!」
「は?」
「決まったら教えてね? その近くにするから」
「……まだ決めてねえよ」
「うん、待ってる!」
「待たれても困るだろ」
宮田が、シャーペンを止めた。
「紗月」
「んー?」
「大学は、お母さんが言ったから」
「うん」
「場所は、水野がいるから」
「うん!」
「あんたんち、お店でしょ。継ぐとかは?」
「うち? お兄ちゃんも継がないし、私がどうこうって話じゃないよ。誰にも言われてないし」
「ふうん」
紗月んちのことは、俺もよく知らねえ。
和食の店をやってるのと、家が無駄にでかいことくらいだ。
宮田が、紗月を見た。
「……それ、紗月が決めたのってどこ?」
紗月が、笑おうとした。
えへへ、の途中で、それが止まる。
紗月は、笑いかけた形のままだった。
それから口を閉じて、スマホを両手で持ち直す。
「……あれ」
「なに」
「今の、ぜんぶ……悠真と、お母さんだ」
「うん」
「……私のは」
そこで、声が止まった。
俺も、なんか言おうとして、やめた。
……俺が決めることじゃねえ。
言えるのは、これくらいだ。
「……俺の学校も、まだ決まってねえぞ」
「うん」
「近くにしようがねえだろ、それじゃ」
「……そっか」
紗月が、スマホを伏せた。
「ねえ、悠真はさ。どうやって決めたの?」
「……なんも決まってねえよ。学校も、金も、なんも」
「そうじゃなくて。料理のほう」
「あー……」
どう言えばいいんだ、それ。
「作ってたら、そうなっただけだ」
「それ、答えになってないよー」
「なってねえな」
「もー」
「別に、今日決めろって話じゃないでしょ」
宮田がノートを閉じながら言った。
「まだ六月だし」
「……うん」
「玲奈、ちょっと怖い顔してる」
「してないでしょ」
「してたよー!」
「……してた、かもね」
紗月が、スマホをもう一回開いた。
なにも言わずに、閉じてポケットに入れる。
「ね、悠真。二回目っていつ?」
「なにが」
「肉じゃが!」
「……今日」
「えっ! 食べる!」
「味見な」
「えー!」
鞄を持って、三人で廊下に出る。
紗月がいつもみたいに横に並んできた。
いつもの声だ。
歩くのだけ、ちょっと遅い。
……なんて言えばよかったんだ、俺。
わかんねえ。
わかんねえけど、飯は作る。
そっちは、決まってる。




