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「この人が彼氏です!」と学園アイドルに言われたモブ、逃げられなくなる  作者: もりぞー
第二部

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第77話 悠真、橘兄に目分量を全部突かれ、紗月に彼女割をねだられる

 日曜の昼前。

 スマホを開いて、閉じて、また開いた。


 連絡先の一覧の、橘兄のところで指が止まる。


 ……いや、聞くって決めただろ、俺。


 息を吸って、打った。


『橘さん、水野です。相談したいことがあります。進路のことで』


 送信。


 既読がついたのは、昼飯を食い終わったあとだった。


『今日の午後、実家に寄る。台所にいろ』


 ……台所にいろ。


 人んちの台所を当たり前みたいに指定してくるのはどうなん——いや、あの人の実家か。


 ……俺の家じゃねえんだけどな、あそこ。


 紗月にも打っておく。


『今日、早めに行く。橘さんと進路の話する』


 返信は、秒で来た。


『お兄ちゃんと進路の話!? 聞きたい!!』


『でも私、課題まだ半分なんだけど!』


『あ、家にはいるよ! いつでも来て!』


 相変わらず文字だけでも勢いがすごいなこいつ。


『お前は課題やってろ、終わんねえだろ。これから行くわ』


 それだけ打ってスマホを置いた。


 スマホが震えてたけど、とりあえず無視だ、無視。


 皿を洗って、着替えて、家を出る。


 坂を上って、紗月んちに着いたのは一時過ぎだった。


 インターホンを押すより先に、ドアが開いた。


「いらっしゃい!」


「……はえーな、出てくんの」


「玄関で待ってたもん」


 待つな。っていうか。


「課題、まだ半分なんだろ? 終わらねえぞ……」


 靴を脱いで、廊下を歩きながら紗月と話す。


「……もうちょっと進んだ」


「ちょっとかよ」


「はーい、上でやってきます。終わるまで降りてこないから!」


 紗月は台所で麦茶をコップに注いで、そのまま階段を駆け上がっていった。


 ……ほんとに終わるのかよ、あれ。


 まあ、今日はそのほうが助かる。


 手を洗って、冷蔵庫を開ける。

 じゃがいもと玉ねぎとにんじん、あと豚こま。今日は肉じゃがだ。


 じゃがいもの皮をむいてるところで、玄関が開いた。

 インターホンもなくて、鍵の音だけ。


 ……えっ、もしかして、もう来たのか。


「水野」


 後ろで声がして、じゃがいもを落としかけた。


 ……びっくりした。気配ねえんだよ、この人。


 振り返ると、橘兄が台所の入口に立っていた。


「わざわざ、すいません」


「寄る日だ。ついでだ」


 ついでで来られると、こっちの緊張の行き場がない。


 二階で、どたどた音がした。


「お兄ちゃん来たのー!?」


 階段の途中まで降りてくる気配がする。


「ねえ、課題まだ半分なんだけど、降りていい!?」


「だめだ。終わらせろ」


 橘兄が即断で言う。


「えー」


 紗月の足音が、しぶしぶ上がっていった。


 妹にも即答なんだな、この人。


「あの、座って——」


「手を止めるな。続けろ」


「……はい」


 包丁を持ち直す。

 背中に視線が刺さってるのが、わかる。


 やりづらすぎるだろ、これ。


「話は」


「あ、はい。……料理の専門学校に、行きたくて」


「紗月は知っているのか」


 賛成とも、反対とも、来なかった。


「知ってます。先週、言いました」


「いつから考えていた」


「……はっきり決めたのは先週です。ぼんやり考えてたのは、たぶん、もっと前で」


「そうか」


 それだけだった。

 しばらく、包丁の音しかしない。


「三月の件は」


「……三月?」


「マフィンだ。六つ焼けと言った」


 思い出すのに少しかかった。

 いや、忘れてたわけじゃない。忘れてたわけじゃないけど……。


「……焼きました。一回目は焦がして、二回目で六つ」


「渡したのは」


「……箱に詰めたんで、四つくらいです」


「くらい、か」


 詰めた本人が、くらい、はねえよな。


「……四つです」


「……覚えておく」


 いちいち覚えとくのかよ、そんなん。


「先に言っておく」


 橘兄が、俺の手元に目を落としたまま言った。


「俺は菓子だ。お前がやろうとしてるのは料理だ。別の仕事だ」


「……はい」


「同じだと思って聞かれると困る。俺が渡せるのは、重なってる分だけだ」


 先に、線を引かれた。

 なんつーか、この人らしいな。


「その玉ねぎは、何グラムだ」


「……量ってないです」


「じゃがいもは」


「三個です」


「個数は量じゃない」


 うっ。


「味つけは」


「……醤油と砂糖とみりんを、目分量で」


「目分量は認めないと言ったな」


 ……三月に言われたやつだ。


「水は」


「……ひたひた、くらいで」


「ひたひたは、お前の鍋の話だ」


 ……ぐうの音も出ねえ。


 鍋に豚こまを広げて、その上に野菜を重ねた。

 いつもこの順だ。


「なぜ先に肉を入れた」


「え。……そっちのほうが、うまかったんで」


「いつの話だ」


「……この前」


「何と比べた」


「……あー」


 比べてない。

 一回それでうまくいったから、そのままだ。


「……比べてないです」


 橘兄は、それには何も返さなかった。


 怒鳴られたほうが、まだ楽だな、これ。


 鍋に水を入れて、火をつける。

 蓋をして、しばらくして、ふつっと音が立ちはじめた。


 ……ちょっと早いな、これ。


 火を弱めて、蓋を少しずらす。


「今、何をした」


「……煮えるのが早そうだったんで、弱めました」


「なぜ早いと思った」


「……音です。いつもより、鳴るのが早かったんで」


 橘兄が、はじめて手元から目を上げた。


「そこはいい」


「……はい?」


「鍋を見て途中で変えられるやつと、変えられないやつがいる。お前は変えられる」


 褒められた、のか。今の。


「ただし、そこで止まるやつも多い」


 ……褒められてなかった。


「お前の料理は、全部お前の中にある。量も、順番も、理由もだ」


「……はい」


「今日のこれを、明日も同じに作れるか」


「……たぶん」


「たぶんで、人には出せない」


 橘兄が、腕を組んだ。


「学校は入口だ。卒業したところが始まりになる」


「……はい」


「一人前と呼ばれるまで、十年は見ておけ」


 十年。


 ……十年か。


「短いと思うか」


「……いや。長えな、と」


 敬語がどっか行った。


「やめるか」


「……いや」


 これは、迷わなかった。

 自分でもちょっと意外なくらい、迷わなかった。


「そうか」


 橘兄が、腕を組んだまま続ける。


「向いてるかどうかは、俺は言わない」


「……」


「今そう言えるやつがいたら、そいつは嘘つきだ」


 橘兄が、鍋のほうへ目を移した。


「課題を出す」


 ……出るのか、やっぱり。


「今日のこれでいい。同じものを、三回作れ」


「三回」


「全部量れ。グラム、分、火の強さ。全部だ」


「……全部」


「そして紙に書け。その紙を見た人間が、お前と同じものを作れるようにしろ」


 手が止まった。


 それ、めちゃくちゃ難しくないか。

 俺、自分がなんでこうしてるのか、半分もわかってねえぞ。


「……けっこう、しんどいやつじゃないですか、それ」


「当然だろう」


 当然だった。


「ではな」


 言うだけ言って、橘兄はもう廊下に出ていた。

 ほんとに、来て、見て、帰る人だ。


 火を止めて、手を拭いて、追いかける。


 玄関で、靴を履いてる背中に声をかけた。


「あの、ありがとうございました」


「ああ」


 こっちを見ないまま、片手だけ上がった。


 ドアノブに手をかけたところで、その手が止まる。


「紗月は、まだ卵の殻を入れるのか」


「……最近は、入れてないです」


「そうか」


 間があった。


「……そうか」


 ドアが閉まった。


 ……なんで二回言ったんだよ。


 台所に戻って、火をつけ直す。

 醤油、砂糖、みりん。いつもの順で、いつもの手つきで回し入れる。

 ひと煮立ちさせてから、蓋を取ると、湯気が上がった。


 じゃがいもに箸を入れると、すっと通る。


 うまくできてる。

 できてるんだけど。


 ……量ってねえな、なんも。



 夕方、肉じゃがを温め直していると、紗月が課題を抱えて降りてきた。


「いいにおいー!」


「終わったのかよ」


「半分!」


「胸張るな」


 二人で食う。

 紗月が、じゃがいもを箸で割って、はふはふ言いながら口に入れる。


「んー、おいしい。ほくほくしてる」


「そりゃよかったな」


「ねえ悠真」


「……ん」


「悠真がお店の人になったらさ、私、毎日食べに行くね」


 箸が止まった。


 ……こいつ、ぜんぜん疑ってねえんだな。


「……金取るぞ」


「えっ、彼女割は」


「ねえよ、そんなもん」


「えー。それだと、お小遣いなくなっちゃう……」


「来なくていいっての」


「行くけどね!」


「どっちだよ」


 店どころか学校も決まってねえんだけどな。

 そこは言わないでおいた。


「ねえ、お兄ちゃんとなんの話してたの?」


「進路」


「えー、私も聞きたかったのに! 追い返されたんだからね、私!」


「課題は」


「……半分です」


「だろうな」


 紗月と夕飯を食べ終わって、皿を片付けたあと。


 テーブルにスマホを置いて、検索した。


 料理 専門学校。


 ……多いな。


 聞いたこともない名前が、ずらっと出てくる。

 上から順に、いくつか開いた。


 学科がいくつもある。調理とか、製菓とか、カフェとか。

 二年のところもあれば、一年のところもある。


 ……学科って、入る前に決めるのか、これ。


 母さんに調べてこいって言われたとき、お金の話だと思ってた。

 お金の前に、決めることが山ほどあるやつだった。


 入学案内のところを押したら、見たことのない言葉が並んでた。


 AO入試。

 エントリー。


 ……なんだこれ。


 読んでみる。

 読んでも、半分もわからん。


 わかったのは、面接だのなんだのがあるってことと、そのだいぶ前に「エントリー」ってやつを出すらしい、ってことだけだ。


 で、そのエントリーってのが、思ってたよりずっと早い。


 夏だ。

 夏には、もう始まる学校がある。


 ……三年の夏なんて、すぐだろ。


「紗月。紙、一枚くれ」


「はーい。なにするの?」


「メモ」


 紗月がルーズリーフを一枚抜いて、こっちに滑らせてきた。


 学校の名前。エントリーがいつからか。あと、お金。


 三つ書いて、下に線を引く。


 ……中身が、なんもねえな。


 まあ、そりゃそうだ。今から埋めるんだから。


「悠真ー、これ教えて」


 紗月が、プリントをこっちに見せてくる。


「まず自分でやれよ」


「やったもん!」


「どこまで?」


「……名前まで」


「名前は問題じゃねえだろ」


「でもここ、いちばん間違えないとこだよ」


「威張るとこじゃねえぞ」


 プリントを引き寄せて、一問目を指で叩く。


「読んでみろよ」


「読んだ」


「声に出してな」


 紗月が、しぶしぶ読み上げる。

 途中で、止まった。


「……あ。わかったかも」


「だろ?」


 目で追うだけだと、意外と読み飛ばしてんだよな。

 ……俺もあとで、ノート、読んでみるか。


 紗月がシャーペンを走らせる。


「私さ、中学のときはこれ全部一人でやってたんだよ」


「ん」


「教えてくれる人いなかったし。お母さん、夜いなかったし」


 どう反応していいか、迷った。


 ……そりゃ、そうだよな。この家、夜は静かだし。


「……そうかよ」


「けっこうできてたんだからね。自分で言うのもなんだけど!」


「……いや、それは、すげえだろ」


「えっ」


 紗月がシャーペンを止めて、こっちを見る。


「えへへ、そう? えらい?」


「……まあ、えらいんじゃねえの」


「今のほう、雑ー!」


 紗月がふふんと笑って、シャーペンを持ち直した。


 二問目に入ったところで、その手が止まる。


「……あれ」


「なんだよ」


「今は、ぜんぶ悠真に聞いてる。……変なの」


 変なのか?

 っていうか、全部聞く前提にすんなよ……。


「……まあ、いっか。悠真が教えてくれるんだもん」


「よくねえだろ」


「よくない?」


「よくねえ。自分でやれ」


「えー」


 紗月が笑って、プリントに戻る。

 シャーペンの音が、また鳴りはじめた。


 俺は、さっきの紙をもう一回見る。


 空欄が三つ。

 その下に、もう一行だけ足した。


 肉じゃが 三回 全部量る


「なに書いてるの?」


 紗月が身を乗り出して、紙を覗き込んでくる。


「肉じゃが、三回……? なにこれ」


「宿題。橘さんに出された」


「えっ、悠真も宿題あるんだ! 三回とも作るの!?」


「作る」


「食べる!」


「食う側から入るなよ」


「じゃあ一緒に作る!」


「……三回目な。一回目は、俺が一人で量って作っから」


「えー!」


 紗月が口を尖らせて、それからすぐ笑った。


「じゃあ三回目、ぜったい呼んでね」


「……わかったよ」


 今日のは量ってねえから、一回目にはならない。


 三月にマフィンを焼いたときの量りがある。

 あれ、どこにしまったんだっけ。


 あんときは、量れって言われたから量った。


 ……俺の飯は、一回も量ってねえ。


 明日が、一回目だ。

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