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「この人が彼氏です!」と学園アイドルに言われたモブ、逃げられなくなる  作者: もりぞー
第二部

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第76話 悠真、覚悟を決めて切り出した瞬間、親父に醤油を頼まれる

 六月に入って、最初の土曜。


 矢野に言って、紗月にも言って、まだ一週間も経ってない。

 なのに、今日までがやたら長く感じた。


 うちは両親とも、平日は夜が遅い。

 三人が同じテーブルに座れるのは、週末くらいだ。


 だから、昨日の夜、二人にLINEで約束を取り付けた。


 ……おかげで緊張してよく寝れなかった。


 顔を洗って台所に行くと、ベーコンの焼ける音がしてる。


「悠真、先に食べてなさいよ」


「いや、待つ」


「あら」


 母さんが皿を持ってきて、俺の顔をちらっと見た。

 でも、何も聞かなかった。


 座る前にテレビを消す。

 なんとなく、消えてたほうがいい気がした。


 親父がリモコンのほうを一瞬見た。

 けど、文句は言わなかった。


 親父が新聞をたたんで、俺の正面に座る。

 その隣に、母さんも座った。


 ヤバい、なんかめちゃくちゃ緊張してきた。


 親父は納豆をかき混ぜてる。

 さっきからずっと混ぜてる。


 混ぜすぎだろ……。


 ていうか、言うタイミングがわからん。


 いや……覚悟、決めてきただろ、俺!


「……あのさ」


 親父が顔を上げた。


「悠真。醤油」


 こっちに手を出してくる。

 ちょ、タイミング……。


「……はい」


 醤油を渡す。

 親父はそれを納豆にひとまわしして、また食い始めた。


 もう一回、息を吸う。


「……あのさ。話がある」


 今度は、二人ともこっちを見た。


 喉がからからだ。


「進路。決めた」


 箸を止めたのは、母さんが先だった。

 親父は、まだ食ってる。


 ……なんか言えよ。


 いや、言うのは俺か。


「料理の専門学校、行きたい」


 母さんが、箸を置いた。


「……料理?」


「料理」


「……いつから、そう思ってたの」


「……前から」


 それきり、母さんは黙った。


 親父の手が止まった。


 ……止まったな。


 時計の秒針が、やたらでかく聞こえる。


 テレビ、つけたままにしとけばよかったかもしれん。


 でも、ここで黙ったら終わりだ。


「……前はさ。なんも決まってなかったんだよ、俺」


 言いながら、自分でも順番がぐちゃぐちゃなのがわかる。


「将来何やりたいかも、行きたい大学も、なんも出てこねえんだよ。三年になっても」


「うん」


「だけど、料理作ってるときだけ、決まるんだよ。次これ、次これって」


 母さんは、なにも言わずに待ってる。


「……で、うまくできたときは……楽しいし、嬉しいんだよ……」


 耳が熱い。


「……それだけ」


「大学は、受けないのか」


 いきなり親父が言った。

 いつの間にか、親父も箸を置いてこっちを見てる。


「……受けない」


「そうか」


 それだけだった。


 次の言葉を、少し待った。

 けど、なにも来なかった。


 母さんが口を開く。


「別に、あんたが昨日今日で思いついたとは思ってないけどね」


「ああ」


 思いつきじゃねぇ。

 それだけはハッキリしてる。


「料理って、仕事にすると、けっこうしんどいわよ」


 母さんが、真剣な目で、まっすぐこっちを見た。


「それ、想像できてる?」


 その言葉に、息が止まった。


 ……想像。


 できてる、と言おうとして、できなかった。


 俺が知ってんのは、うちの台所と、紗月んちの台所だけだ。

 焦がしても、ちょっと不味くても、笑って食える範囲の話。


 店で毎日作るっていうのが、どういうことなのか。


 知らない人が来て、知らない人の分を、毎日。


 うまくできなかった日も、たぶん、出さなきゃならない。


 ……きっと、それだけじゃないだろうな。


「……できてない」


 自分で言って、ちょっとへこんだ。


 けど、続けた。


「でも、やめない」


 母さんは、一回だけまばたきをした。


 親父は特に反応はない。けど、ずっとこっちを見てる。


「……そう」


 それだけ言って、自分の茶碗を持って台所へ行く。


 流しで水を出しながら、言う。


「お金は、大学に行くつもりで用意してた分があるから。今すぐどうこうって話じゃないわよ」


「……」


 思わず、手が止まった。


 大学に行くつもりで、準備、してもらってたのか……。


 ……そこまで考えてなかった。


「専門でいくらかかるかは知らないけどね。それはあんたが調べてきて」


「……大学より、安いのか?」


「知らないわよ。それも込みで調べてきなさい」


「……わかった」


 言ってから、気づいた。


 実際、俺はまだ何も調べてない。


 学校の名前も、どういう科があるのかも、費用がいくらいるのかも。

 専門卒業後の、進路も。


「学校とか、まだ全然決まってねえ。どこがいいのかも、わかってない」


「だろうな」


 親父が味噌汁を持ち上げながら言った。


 ……そこは驚けよ。


「悠真、味噌汁ほとんど残ってるけど」


「……あとで飲む」


「冷めるわよ」


「飲むっつの」


 その横で、親父が空になった茶碗を、無言で母さんのほうへ差し出した。


「自分でよそって」


「……」


 親父がのそっと立ち上がって、炊飯器のほうへ歩いていく。


 俺はぬるくなった味噌汁を、そのまま飲んだ。


 ……言うだけは、言った。


 ちゃんと伝わったかは、わかんねえけど。


 学校も、金も、将来の進路も、これから調べる。


 でも、それより先に考えることがある。


 店で作るってのが、どういうことなのか。


 毎日、それで食っていくってのが、どういうことなのか。


 ……知らねえなら、聞くしかねえよな。


 実際にそれで働いてる人に。



 日曜の朝。


 起きて台所に降りたら、流しの横に新聞紙が敷いてあった。


 その上に、砥石。


 水を張った洗い桶と、うちの包丁が二本、並べて置いてある。

 新聞紙の端が、少し濡れてた。


 ……なんだこれ。


 一本、持ち上げてみた。


 刃の色が、変わってる。


 もう一本も見た。

 同じだ。


 うちの包丁が切れなくなってるのは、前から知ってた。

 トマトは潰れるし、鶏の皮は引っかかる。


 どうすっかなって思って、ずっとそのままにしてたやつだ。


 親父はソファで新聞を広げてた。

 テレビでは野球のニュースが流れてる。


「……これ、親父がやったのか」


「ん」


 顔も上げない。


「……なんで」


「切れてなかっただろ、あれ」


 それで終わりだった。

 ていうか、知ってたのか……。


「砥石なんて、うちにあったのか?」


「あった」


「……そうかよ」


 母さんがトーストをかじりながら、通りすがりに言う。


「朝の六時から、しゃこしゃこやってたわよ」


「……六時」


 俺は包丁を持ったまま、しばらく突っ立ってた。


 流しで刃を洗って、水気を拭き取る。


 野菜室を開けて、ねぎを一本出す。


 まな板に置いて、切ってみた。


 ……やば。


 すっと落ちる。


 押してる感じが、まったくしない。


 音も違う。

 とんとん、じゃなくて、すとん、すとん、だ。


 自分でやったら、絶対ここまでいかねえ。


 どうやったらこうなるんだよ、これ。


 親父は、昨日の話について何も言ってない。


 なのに、これだ。


 ……ずるいだろ。


 こういうのだけ、はえーんだよ。


 息を吸って、ゆっくり吐いた。


 ねぎを、もう一本出す。


 もう一回、切りたかった。


「悠真、ねぎばっかり切ってどうすんの」


「……味噌汁」


「昨日の残ってるけど」


「……」


「ねぎ、そんなにいらないでしょ」


「……いる」


「まあ、いいけど」


 母さんが笑って、鍋を出してくれた。


 鍋に水を入れて、火にかける。

 だしの袋を放り込んで、切ったねぎを全部入れた。


 ……あ。


 入れすぎた。


「悠真、それもう、ねぎの味噌汁じゃない」


「うるせえ」


 包丁を置いて、ソファのほうを見る。


「親父」


「ん」


「……ありがとな」


「ああ」


 親父は、新聞をめくる手を止めない。

 こっちは、一度も見ない。


 ……こっち見ろっての。


 なんも言わずにこれやられると、こっちが動くしかなくなるだろ。


 ……橘兄に、聞くしかないな。


 包丁を洗って、元の場所に戻した。


 鍋が、こぽこぽ言いはじめてる。


「悠真、吹くわよ」


「わかってる」


 ねぎだらけの味噌汁は、いつもより少し、うまい気がした。

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