第72話 悠真、大学を学食で選ぶ紗月の正論に折れかける
朝、駅の東口。いつもの交差点で、紗月が信号待ちしてた。
いや、いるのはいつも通りなんだけどな。
立ち位置が、微妙に遠い……気がする。
「お、おはよ」
「……おう」
声も、微妙に小さい。
まあ、俺も人のこと言えねえけど。
この前のこと……いや、やめやめ!
朝から思い出すな、俺!
「……あのね、悠真。こないだの——」
「言うな」
「まだ何も言ってないよ!」
「顔でわかんだよ」
紗月が、むっとした顔で見上げてくる。
そのまま、すぐ噴き出した。
「えへへ。悠真、耳あかいよ」
「……朝が寒いんだよ」
四月の朝に言うことじゃなかった。
信号が青になって、紗月が、するっと腕を組んでくる。
「行こ!」
……いつも通り。いつも通りだ。
意識すんな、俺!!
並木道に出ると、制服の列がだんだん増えて、後ろから自転車が抜いていった。
「今日のお昼、屋上でいいよね?」
「ああ、もう暖かいしな」
「矢野くん、またちゃんと来てくれるかな~」
「あいつは変なところ律儀だし、大丈夫だろ」
校門をくぐるころには、紗月はもう完全にいつもの調子だった。
◇
朝のホームルームで、担任がプリントの束を抱えて入ってきた。
「進路希望調査、配るぞー。今日書けとは言わん。持って帰っていいから、家で相談してこい。締切は金曜な」
紙が後ろへ回ってくる。
進路希望調査票。
第一希望、第二希望、第三希望。理由を書く欄。備考。
欄が、やたら多い、な。
教室のあちこちで紙をめくる音がした。
もう書き始めてるやつもいれば、見もしないで二つ折りにして鞄へ突っ込んでるやつもいる。
後ろの席から、背中をつつかれた。
振り返ると、宮田がこっちを見ていた。
「水野、それ持って帰って、頭抱える派でしょ」
「……なんでわかんだよ」
「顔でわかるよ」
それだけ言って、宮田は自分の紙に目を落とした。
二人して、顔、顔って。
俺の顔、どうなってんだよ。
紙を二つ折りにして、鞄に入れる。
薄い紙のはずなのに、入れるとき、なんか重かった。
……いや、気のせいだろ。
◇
昼休み。紗月と宮田と三人で、屋上に上がった。
いつもの手すりの前に並んで、弁当を広げる。
「矢野くん、おそいね」
「ポテチでも買ってるんじゃねぇの」
言ってるそばから、扉が開いた。
「おせえ」
「ポテチ補充してた」
マジで買ってたのかよ。
矢野はそのままポテチの袋を開けた。
今日はコンソメらしい。
「なあ悠真。うちのクラス、朝イチでもう三人出したらしいぞ」
「進路か? 早すぎんだろ……」
「な。焦るわ」
「焦ってるやつの顔じゃねえだろ、それ」
「焦ってるって。だから俺も書いた」
矢野がポケットから四つ折りの紙を出す。
「進路希望。ほら」
広げられた紙を、三人でのぞき込む。
第一希望、大学。
第二希望、大学。
第三希望、大学。
「……」
「三回書く意味ある?」
宮田が箸を止めて言った。
「保険だろ、保険」
「一個も保険になってねえだろ」
「学部が違うんだよ、学部が」
もう一回見た。学部の欄は、三つとも空いてる。
っていうか、そもそも学校名も書いてねぇだろ。
「空欄でしょ、それ」
「これから決めんだよ」
矢野は半目のままポテチを食べてた。
っていうか、本当にただ書いただけだったなコイツ……。
「私も書いたよ!」
紗月がぱっと顔を上げて、鞄から紙を出す。
「え、紗月もう書けたの?」
「書けるとこは!」
広げた紙を、こっちに向けてくる。
第一希望、大学。学部の欄は、空白。
で。その下の、備考欄。
『ごはんがおいしいところ』
「……」
さっきの矢野と同レベルな気がするぞ、おい。
「……なにこれ」
「条件!」
「学食で決めんのかよ」
「だって四年間だよ! 毎日食べるんだよ!」
宮田が、紙と紗月を見比べた。
「学食で大学選ぶ人、初めて見た」
「玲奈だって、まずいごはんが毎日続くのはやでしょ?」
「……それは、まあ」
「な。それはちょっと正論だわ」
矢野が真顔でうなずいた。
「矢野が落ちてる」
「落ちてねえ。認めただけだ」
「同じでしょ、それ」
いやいや、マジでこれで出す気じゃないよな?
紗月の顔を見ると大まじめだ。
「紗月、これ学校に出す紙だぞ。担任が読むんだぞ」
「だって、大事なことだもん!」
紗月が胸を張る。
こいつもマジかよ……。
……まあ、昼飯は、毎日食うもんな。
変な説得力があるのが微妙なところだ……。
「で、悠真は」
矢野が袋の底を漁りながら聞いてくる。
「……まだ」
「どこまで書いた」
「一文字も」
矢野は「ふーん」とだけ言って、最後の一枚を口に入れた。
紗月が俺のほうを見た。
「悠真の、見せて」
「見せねえっての。白紙だっつってんだろ。そもそもここに持ってきてねぇ」
「見たいのー!」
言ってから俺の顔を見て、紗月がちょっと止まった。
「……私もね、まだおいしいごはん以外は空っぽなんだ」
「……そうなのか」
っていうか、学食は確定なのか……。
「うん。大学は行くよ! それは決めてるの。でも、そのあと何やるとこかは……えへへ、まだ考え中!」
いつもの明るいままだった。
声はいつも通りに、聞こえた。
宮田が箸を止めたまま、しばらくその紙を見てた。
「……ま、金曜まで時間あるしね」
「玲奈、やさしい!」
「別に。事実だし」
そういや宮田は英語活かせるところって言ってたっけ……。
真っ白は、俺だけ、か……。
◇
放課後。
校門を出て、いつもの道に入る。
「悠真、今日どうする? うち来る?」
「行く。冷蔵庫、なんか残ってたか」
「んー……たまごと、キャベツ!」
「それだけかよ」
紗月がえへへと笑う。
しばらく歩いてから、鞄の中の紙を思い出した。
言うか、迷う。
……いや、黙ってるほうが変だろ。
「あのさ。俺、あれ、ほんとに何も書けてねえんだよ」
「うん。お昼に言ってたね」
「……大学、とか。就職、とか」
「うん」
「そういうの書いときゃ、それで済むんだよな」
言いながら、自分で情けなくなってくる。
「……でも、それ、俺の答えじゃねえ気がして」
紗月が、隣で足を止めた。
俺も止まる。
「……うん」
それ以上、紗月はなにも言わなかった。
こうしたら、とか。こうすれば、とか。
言われると思ってたのに、言われない。
「あ、でもね」
紗月が、こっちを見上げて言う。
「金曜まで、一緒に考えるのはいいでしょ?」
「考えるって、お前も空欄みたいなもんだろ……」
「うん! だから二人ぶん!」
「二人分か」
紗月がふふっと笑って、俺の袖を引っぱった。
「ほら、行こ! あ、たまご、二個ずつ使っていい?」
「お前んちの食材だろ」
そういって苦笑して、紗月と一緒に紗月んちに向かった。
◇
紗月んちの台所。
炊飯器をセットして、フライパンを出す。
紗月がキャベツを抱えて隣に立った。
「今日はね、私、たまごやる!」
「割るだけだろ」
「割るだけって言うけどね、悠真。私、片手で割れるようになったんだから!」
「ほんとかよ」
紗月がボウルを構えて、卵を持つ。
こつん、と縁に当てて——ぱき、と割れた。
殻が、ぱらっと落ちた。
「……殻」
「取れるもん!」
紗月が指で追いかける。逃げる。追いかける。逃げる。
「箸使え」
「あっ」
俺は油を引いて、火を強くした。
キャベツを放り込むと、じゅっと音が立って、湯気が上がる。
鍋肌に当たる音。まな板を叩く音。換気扇。
この台所の音、たぶん俺、けっこう好きなんだよな。
ふと、進路調査票の紙が思い浮かんだ。
……なんでだよ。
けど、フライパンの中は待ってくれねえ。俺は塩を振った。
「悠真、あのね」
紗月が横からのぞき込んでくる。
「作ってるときの悠真、顔ちがうよ」
「どんな顔だよ」
「んー……まじめな顔!」
「なんだそりゃ」
「でも、いい顔!」
まじめでいい顔ってなんだよ。
しばらく二人で料理して、皿に盛ってダイニングに運ぶ。
米もよそって、二人で並んで食べる。
「ねえ悠真。金曜までって、あと何回ごはん食べられるかな」
「……は?」
「明日と、あさってと……朝と夜と、お弁当も入れて」
「なんで飯で数えんだよ」
「だって、そっちのが数えやすいもん!」
「お前らしいな」
思わず笑う。
「なんで笑うの! あ、これおいしい」
紗月が、ふにゃっとした顔でそう言う。
この顔を見ると、なんでか満足するな、俺。
◇
あのあと紗月んちを出て、家に帰って、風呂に入って、親父と母さんの作り置きも仕込んで、部屋。
あとは寝るだけのタイミングで、鞄から二つ折りの紙を出して、机に置く。
しわを伸ばして、シャーペンを持った。
第一希望。
書こうと思えば書ける。大学でも、就職でも、書くだけなら一瞬だ。
……なんでか、書けない。
シャーペンの先を、紙から離した。
耳の奥に、さっきの音がまだ残ってる。
じゅっと鳴った音と、換気扇と、こつん、って卵の音。
それと、紗月がうまそうに食べる笑顔。
あれが何なのかは、まだわかんねぇ。
わかんねぇもんを、それっぽい名前にして書くのは、たぶん違う。
……俺は、なにがしてえんだ。
わかんねぇ。
わかんねぇけど、これ、誰かに埋めてもらう欄じゃねえよな。
紙をもう一回折って、机の端に置いた。
締切は、金曜だ。




