第69話 悠真、紗月とソファで朝を迎え、母親の包丁に言い訳を切られる
「四月からは教室でも一緒だし、今日は夜まで映画だし、いいことばっかりだね!」
うちのソファに当たり前みたいに座って、紗月がにこにこしてる。
三日前、掲示板の前で決まった約束の日だ。
春休みの午後。母さんは仕事で、帰りは夜。
つまり今、この家には俺と紗月しかいない。
……いや、意識すんな。映画観るだけだろ。
俺はリモコンを握って、テレビの選択画面を送っていく。
「これこれ、前から観たかったやつ! ……あ、でも待って、こっちも気になってたんだよね!」
紗月が画面へ身を乗り出す。
「見たいのがあるんじゃなかったのかよ」
送る手を止めた。
「えーだってせっかく二人で観るんだもん、ちゃんと選ばないと」
言ってるそばから、候補がまた一本増えた。再生から遠ざかってんぞ、それ。
「待て待て、いつまで居座るつもりだよ」
「え~、いいじゃん」
「よくねぇ」
「もう、悠真は固いなぁ……じゃあこれ!」
で、結局、最初に観たかったやつに戻った。
この時間はなんだったんだよ。
「んじゃ再生するぞ」
「うん!」
返事と同時に、隣がずいっと詰まった。
肩が触れる。近っ。
「あのな……」
「このほうが画面、よく見えるでしょ?」
言うだけ言って、一ミリも動かない。
「まぁ、いいけどよ……。そういや、お前のお母さんには、今日のこと言ってあるのか?」
ため息まじりに聞いとく。
「うん、夜まで映画っていってあるよ! 楽しんできなさいって言われた!」
楽しんできなさい、って。
……お母さん、それでいいのか。
「あ、ほら始まるよ!」
部屋の照明を少し落として、画面に向き直る。
ローテーブルには、昼間に二人で買い込んだ菓子と飲み物が並んでる。
映画が始まった。隣のぬくもりは、そのままだ。
……まあ、いいか。これくらいは。
◇
夜。
途中で母さんが帰ってきて、飯を挟んだ。飯っつっても、昼間に俺が仕込んどいたやつだけどな。
挨拶もそこそこに、飯が終わると母さんはさっさと自分の部屋へ引っ込んでいった。
……気を遣われてる感じが、逆に落ち着かねえんだよ。
で、映画が観終わったのが、今だ。
「面白かったー……最後のあの子、学生のときと別人だったね」
エンドロールの流れるリビングで、紗月がぐっと伸びをした。
俺はリモコンをローテーブルに置く。
「……ああ。悪くなかったな」
地味だった子が、あとで化けて出てくるやつだった。
「あのね、私も中学のとき、けっこう地味だったんだよ?」
ふと思い出したみたいに、紗月が言った。
「……想像できねえんだけど、それ」
思ったまま返す。今のこいつから、地味なんて単語は一個も出てこねえだろ。
「ほんとだって! 誰も信じてくれないけど、ほんとなの!」
むっとした顔で身を乗り出してくる。
「地味って、どのレベルの話だよ」
「えっとね、友達は玲奈くらいで、休み時間もだいたい二人きりだった」
指を折りながら数えてる。
玲奈——宮田か。こいつら、中学から一緒なんだよな。
「玲奈にはしょっちゅう『近いんだけど』って言われてたなぁ」
ちょっと懐かしそうに笑ってる。
「それでね、高校に入ったら、急にみんな優しくなったの。告白とかもいきなりいっぱいされて、びっくりした」
「……なんだそれ。急すぎだろ」
眉が寄った。本人だけ置いてけぼりで、周りだけ変わったのかよ。
「なんでだろうね? ……ねえ、悠真はなんでだと思う?」
首をかしげて、こっちを見てくる。
「知らねえよ……俺に聞くな」
目を逸らした。
……逸らしたのに、視線が刺さったままだ。まっすぐ答えを待つ目。こういうとき、こいつは引かねえ。
「…………髪型、じゃねえの」
画面のほうを見たまま、絞り出した。
ぶはっ、と隣で噴き出す音がした。
「笑うなら聞くな」
こっちは真剣に捻り出したんだぞ。
……にしても、そうか。
「宮田、中学から突っ込んでたんだな。……でも、それ一ミリも直ってねえぞ」
「?」
「俺が思いっきり体験したからな」
自分を指さして言ってやる。
最初っから距離が近いんだよ、お前は。……あの頃を思い出すわ。
「そうかな? ほら~、これくらいが普通でしょ」
ニヤニヤしながら、ずいっと隣へ詰めてくる。
肩どころか、腕までくっついた。
「まぁ今はいいけどよ……」
逃げずに、そのまま受けた。
……心臓には、わりと悪い。
「そ、そうなんだ……」
勝ち誇るのかと思ったら、紗月のほうが固まった。
みるみる耳まで赤くなっていく。
え、なんでお前が照れんの。
「え、えっとね、玲奈がいたから、中学もちゃんと楽しかったんだよ。……でも、今は、もっと楽しい……から……」
言い訳みたいに早口で言って、最後は消え入った。
顔、まっかだ。
「……そうかよ」
つられて、こっちまで熱くなってきた。
自分から迫っといて、自爆すんなよな……。
照れくさい空気のまま、二人してしばらく黙った。
と、紗月がぱっと顔を上げて、リモコンに手を伸ばした。
「ね、ねえ、もう一本だけいい? さっき気になってたこっち、まだ残ってるんだもん!」
……照れ隠しか? まあ、気持ちはわからんでもねえ。
スマホで時刻を確かめる。八時前。
短めのやつだし、観終わってから送っても、遅くはならねえな。
「……一本だけだぞ。観終わったら、送ってく」
立ち上がって、別室の母さんに、もう一本観たら送っていくとだけ声をかけて戻る。
戻ったときには、もう二本目が再生されてた。行動はえーよ。
「ふふ、こっちも当たりだね……」
序盤から満足そうだ。そりゃよかったよ。
◇
そのまま、しばらく映画は進んだ。
途中で気づいた。
隣の相槌の間隔が、少しずつ、のびていってる。
「……ん……」
横を見る。まばたきが長い。長いっていうか、もうほとんど開いてない。
そのまま紗月は、ソファの背もたれにこてっと沈んだ。
静かな寝息だけが、聞こえる。
……寝たな、こいつ。
俺はリモコンを取って、映画を止めた。
「……紗月——」
呼びかけて、止めた。
スマホを見る。予定じゃ、観終わってから送ってくはずだった。
まだ間に合う時間ではある。起こすなら、今だ。
……でもなあ。
午後からずっとはしゃいでたし、疲れも出るだろ。
少しくらい寝かせといても大丈夫か。
俺は自分の部屋のクローゼットから、予備の薄手の毛布を持って戻った。
毛布を広げて、かけようとして——近くで見えた寝顔と、静かな呼吸に、手が一瞬止まった。
……なんつー気の抜けた顔で寝てんだよ、人んちで。安心しすぎだろ……。
顔のそばには手を出さないようにして、肩から足元まで、そっとかける。
毛布の重みに、紗月がわずかに身じろいだ。
「……寝てろ」
小声で言って、毛布の端を整える。
それから距離を戻して、ソファの反対端に座った。
少ししたら起こして、送る。それまでの、つもりで——。
◇
……ん。
なんか、あったかい。
近くで、何かが動く気配がした。
それから、小さく笑う声。
「……えへへ」
……えへへ?
目を開ける。
まず、紗月の顔。ソファの反対の端で、毛布から顔だけ出してこっちを見てる。
次に、毛布。……で、窓の外が、思いっきり明るい。
……朝?
「……っ、は!?」
掠れた声が出た。
「あ……おはよ」
紗月が、毛布の中から小さく手を振ってくる。
おはよ、じゃねえ。いや、おはようなんだけど。
待て。俺は、少ししたら起こして送るつもりで——そのまま寝たのか。朝まで。二人で。
やっちまった……!
「これ、悠真が……?」
紗月が毛布の端をつまんで、聞いてくる。
「……夜、冷えるだろ。それだけだ」
目を逸らして返した。
それだけだ。それだけなんだよ。
二人でほぼ同時に体を起こそうとして、ソファの上で動きがぶつかりかけた。
「わっ。……ご、ごめん」
紗月の顔が近い。
と。
とんとん、と包丁の音がした。
対面キッチンのほうから、まな板の音と、食器の音。
ばっと顔を向けると、母さんが普通に朝飯を作ってた。
「母さ——いつから、そこ」
声が出きらない。
「さっきからよ、朝ごはんの支度。——ゆうべ、帰る時間を過ぎても静かだから見に来たら、二人揃ってぐっすりだったの」
手は止めないまま、あっさり言われた。
見られたのはいい。
いや、よくないけど、起こしてくれよ……!
「紗月ちゃんのお母さんには連絡してあるわよ。そのまま寝かせてあげてって、あちらも言ってくれたから」
言い終えて、母さんはコンロへ向き直る。
「え……あ、連絡……!」
毛布を握ったまま、紗月が固まった。
「……ありがとうございます。あの、ほんとに、すみませんでした……!」
毛布ごと、勢いよく頭を下げる。
「いいのよ。紗月ちゃんの分もあるから、座ってなさい」
振り向かないまま、母さんはそう返した。
……いつもの俺への態度と違いすぎねえ?
「わりぃ、起こせばよかったな……」
頭を下げ続ける紗月に、そう言っとく。
起こさなかったのも、そのまま寝たのも、俺だからな。
……いや、待てよ。そうだ、ちゃんと言っとかねえと。
「あっ、母さん! これは——」
「はいはい。顔洗ってらっしゃい、朝ごはんできちゃうわよ」
説明という名の言い訳は、包丁の音に切られた。
「……そうだけど。そうだけども……!」
俺は顔を覆った。
隣で紗月が、毛布を抱えたまま、ちょっと笑ってる。
笑いごとじゃねえんだよ、こっちは。
台所からは、湯気と味噌汁のにおい。
春休みの朝は、母さんに全部握られたまま始まった。




