第62話 悠真、紗月にベッドで「まだ、やだ」と引き止められて動けなくなる
二月に入って、最初の週。
俺は今日も、紗月んちのダイニングで飯を食ってた。
冬休みが終わってからは、紗月のお母さんも家にいることがたまにあった。
料亭が一段落ついたのか、いつの間にか帰ってきてることがある。
今日はその、『たまに』の日だ。
六人掛けのやたら長いテーブル。
その端っこに、俺と紗月が並んで座ってる。
お母さんは、紗月の前。
味噌汁の最後の一口をすする。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま! ねえ、今日のお味噌汁、味噌といたの私なんだよ。ちゃんとできてたでしょ?」
紗月が空になった茶碗を置いて、得意げに胸を張った。
「ああ。ダマもなかったしな。前より、だいぶマシになってんな」
「でしょ? えへへ」
最近、こいつ、ちょっとずつだけど、できることが増えてる。
今日は味噌を溶くだけだったけど、まあ、進歩は進歩だ。
「水野くん、今日もごちそうさま。……いつも、ありがとうね」
お母さんが軽く頭を下げる。
勝手に作りに来てるのは俺の方だから、むしろ申し訳ない……。
お母さんが一緒に食べるようになった最初のとき、俺がそう言ったら、静かに笑って『いいのよ』って流された。
あの笑顔、なんか怖えんだよな……。
「……いえ。今日も台所とか使わせていただいてありがとうございます」
無難に返事をする。
お母さんとのやり取り、まだ慣れねぇ……。
「あ、そうだ。悠真、部屋くる?」
「は?」
いきなり、紗月がそう言った。
「えー、部屋だよ部屋! 見てってよー!」
「……なんでだよ」
「なんとなく!」
「なんとなくで言うなよ!」
脈絡なさすぎだろ、いつものことだけど……!
「えー、いいじゃん。ちょっとだけ!」
いや、別に、部屋に行くのが嫌とか、そういうんじゃねえんだけど。
俺は声を落として、お母さんのほうをちらっと見た。
「……おい。お母さんいんだろ。いいのかよ、その……部屋とか」
「いるよ? なんで?」
「なんで、って……」
なんでって聞かれると、困る。
いや、彼女の部屋に上がるってだけで、母親が下にいたら、普通気まずいだろ。
「あらあら。……ごゆっくり」
お母さんがそういって席を立ち、食器を片付け始めた。
なんかその言い方、逆に怖いんですが!
「……いや、ごゆっくりって……」
「ほら、行こ。早くー」
紗月がもう立ち上がって、俺の腕を引っ張る。
迷ってる暇もねえ。
お母さんは笑顔でこっちに手を振ってる。
……ほんとにいいのかよ、これ。
◇
階段を上がる。
二階の廊下が無駄に静かだ。
一歩ごとに軋む音がやけにでかく聞こえる気がして、俺は変に足音を気にしてた。
下にお母さんがいる。
その状況で、彼女の部屋に上がってる。
これ、どう考えてもヤバいだろ……!
「……ほんとに入るのかよ」
紗月の部屋のドアの前で止まる。
「ほら、早く早く!」
紗月は平然としたまま、ドアを開けた。
こいつ……なんも気にしてねぇな……。
「どうぞー! 散らかってないでしょ?」
「……あー」
入り口から中を見る。
白っぽい部屋。
こいつの誕生日の時以来だけど、なんとなくあの時を思い出す。
「どしたの? ほら、座って座って!」
座ってって言われても。
とりあえず中に入って、ベッドのそばまで進む。
前の時とは立場が違うせいか、どこにいればいいのか迷う……。
「……なあ。前に来たときと、なんか違う気がすんな、ここ」
「前? ……あ、私の誕生日のときだ!」
「あんときは、まだ偽の彼氏だっただろ。緊張で死んでたんだよ、俺」
当時はボロが出ないようにするので必死で、部屋がどうとか見てる余裕すらなかった。
「ふふっ、そんなに緊張してたんだ。……じゃあ、今は?」
「……今は、別に」
「ほんとに?」
「……っ」
別に、緊張なんかしてねえ。
……いや、してるけど。
あんときとは、種類が違うっつーか。
ごまかすように、目を逸らす。
その先、ベッドの枕元に、見覚えのあるものが、ちょこんと座ってた。
「……って、みけじゃねえか」
いびつな、三毛猫のぬいぐるみ。
耳の大きさが左右で微妙に違う、あれだ。
文化祭の射的で、俺が取ったやつ。
「うん、みけ! 夜はずっと、枕元にいるの」
「……そんなとこに置いてんのか」
持ち歩いてるのは知ってた。
紗月にさんざん見せられたからな……。
けど、枕元って。
……寝るとき、ずっと隣に置いてんのか、これ。
なんか、恥ずい……!!
「だって、悠真が取ってくれたやつだもん。お気に入りなんだから!」
「たまたま当たっただけだろ、それ」
「たまたまでも、嬉しかったんだもん!」
……そうかよ。
たまたま当てただけのやつを、わざわざ、枕元に置いて、寝てる。
……考えんな、俺!
「んー、やっぱりおうちが一番落ち着くなあ」
紗月がベッドに、ぽふっと腰を下ろした。
そのまま、足をぶらぶらさせてる。
気が抜けすぎだろ、おい。
「……お前、ほんと気ぃ抜けてんな」
「えへへ、だって悠真と二人っきりだもん」
「……なんだよ、それ」
言葉に詰まる。
やめろよ、二人っきりとか言うの!
余計意識すんだろ……。
思わず視線を逸らすついでに、部屋を見回す。
この家、やっぱ無駄にでかいよな。
そういや、紗月の父親ってほとんど帰ってこないんだったか。
……まあ、今は、いいか。深く考えるのは、やめておく。
机の上で紗月のスマホが、ぴこん、と光った。
「あ、玲奈かな」
俺はつられて、スマホに目をやった。
光った画面が目に入る。
……って、ちょ!!
「おい紗月!」
「ん?」
「それロック画面にしてんのかよ!?」
ロック画面の画像。
メイド服を着た紗月が、俺にぐいっと顔を寄せてる、ツーショット。
文化祭で、こいつがメイド服のままいきなり撮ったやつだ。
不意打ち食らって顔を赤くしてる俺が写ってる……!
「これ? かわいいでしょ?」
紗月が、けろっと言った。
「かわいいでしょ、じゃねえよ! 俺、あんとき消せって言ったよな!?」
「言ってたね。でも、ロック画面にするなとは言われてないもん」
「揚げ足取んな!」
なんでよりにもよってロック画面にしてんだこいつ!
「もう遅いよ。お気に入りだもん」
「……はー、もう知らねえ」
がっくりくる。
こいつには勝てねえんだよ。いつも。
……くそ。
「悠真、顔赤いよ?」
ベッドから紗月がくすっと笑って、俺を見上げてくる。
「うるせえ」
「もー、赤くなってるくせに。ほら、突っ立ってないで、座ってってば!」
それでも動かない俺に焦れたのか、紗月がベッドに座ったまま手を伸ばして、俺の腕をぐいっと引いた。
「……っ、おい——!」
引っ張られて、俺は前へのめる。
その勢いのまま、紗月ごと、ベッドに倒れ込む。
覆いかぶさる手前で、俺はとっさに両手をついた。腕を突っ張って、止める。
仰向けになった、紗月の、顔が、すぐ、目の前にあった。
「……っ」
紗月がぴたっと固まった。
目を、まんまるにして。
「……わ、悪い、今すぐ——」
動けない。
紗月の顔が、みるみる、耳まで真っ赤になっていく。
「……な、なんで倒れてくるのー!」
「いや、お前が引いたんだろ、今!」
「ひ、引いたけど! こんな、倒れ込んでこいとは言ってないもん!」
お互いしどろもどろになりながら慌てる。
っていうか、どうすればいいのかわからん……!
顔が近い、いいにおいがする……。
いや、見るな、嗅ぐな、落ち着け俺!!!
「ど、退くぞ」
腕に力を入れて、起き上がろうとする。
その瞬間。
「……だめ」
紗月がとっさに、俺の袖を掴んだ。
「……っ」
過去一の近さだ。
こいつまつ毛なげーなとかどうでもいいこと思うくらいに考えがまとまらない。
喉がからからで、うまく息ができない。
「……どっちだよ」
どけって言ったり、だめって言ったり。
どっちなんだ、ほんとに。
余裕ないから勘弁してくれよ……。
「……わかんない。……でも、まだ、やだ」
袖を掴んだまま、紗月が、目を逸らして、小さく言った。
……俺だって、わかんねえよ。
息が、詰まる。
頭はパニックなのに、なんでかそれが心地いい。
「……知らねえよ、もう」
入れてた力を、ふっと抜く。
もう、退かなかった。
「……えへへ」
ぎゅっと抱き着いてくる。
息がかかるくらい、近い。さっきより、ぜんぶ伝わってくる。
ほんと心臓の音うるせぇ。
もう何もわかんねぇ。
潤んだ目が、すぐそこにあって——
紗月が、ゆっくり、目を閉じた。
そのまま——。
「紗月ー、お風呂沸いたわよー」
下からお母さんの声が、飛んできた。
「……っ、うぉ!」
一瞬で現実に引き戻された感じがして飛び起きる。
「は、はーい。今いくー!」
紗月も、はっと体を起こした。
「……お母さんいるの、完全に忘れてたよ……」
俺も頭からすっ飛んでた。
っていうか考える余裕がなかった……!
「悠真、めっちゃ慌ててる!」
頬を火照らせたまま、紗月がぷっと噴き出した。
「慌てるわ! あんな……!」
慌てないほうがどうかしてるだろ!
「あはは、顔まっか!」
「お前だって真っ赤だろ!」
二人して言い合いながら、紗月の部屋を出た。
◇
「あら、もう帰るの。気をつけてね、水野くん」
一階に降りると、お母さんが穏やかに声をかけてきた。
「……はい。お邪魔しました」
玄関で鞄を取って、マフラーをつけながら会釈する。
……まともに、顔が見れねえ。
紗月が玄関まで見送りに出てきた。
なんか、声が上ずりそうになる。
「……今日も、来てくれて、ありがと」
「……改まって言うなよ」
「また明日もくる?」
「……まあ、飯つくりにな」
「うん。……待ってる」
紗月がぱあっと、でもどこか照れたままそう言った。
俺はもう一回だけ会釈して、玄関を出た。
夜の空気を吸い込むと、火照った頬がすっと冷えていく。
マフラーに顎をうずめて、駅のほうへ歩き出す。
……いや、なんなんだよ、今日は。
心臓が、まだ、ちょっと、うるさい。
◇
お風呂から上がって、まだ少し湿った髪のまま、ベッドに転がって、みけをぎゅっと抱きしめる。
さっきまで悠真がいた空気が、まだこの部屋に残ってる気がして、なんだか落ち着かない。
いつもの私の部屋なのに、今日だけ、ちょっとだけ、世界がちがって見える。
……ねえ、みけ。私、悠真のこと、好きだよ。今日はドキドキがすごかったんだ。
明日も、ぜったい来てもらお。お味噌汁、もっと上手に作れるようになって、びっくりさせるんだから。




