第5話 モブ、初デートで「逃げねえから」と口走る
眠れない。
布団に包まって1時間。
天井の模様を数えるのも、羊を数えるのも、全部試した。ダメだ。
明日の10時。駅前。私服。
橘との「打ち合わせ」が、あと9時間後に迫っている。
打ち合わせだ。打ち合わせ。兄対策の作戦会議。それだけだ。
——なのに心臓がうるさい。
俺はスマホを手に取った。
明日の天気でも調べて落ち着こう。
晴れ。最高気温22度。風は穏やか。
デート日和——じゃなくて、打ち合わせ日和だ。
天気を閉じた。
それで終わりのはずだった。
なのに指が勝手に検索欄を開いて、「駅前 カフェ おすすめ」と打ち込んでいる。
星4.2、雰囲気◎、ランチセットあり。
星4.5、窓際席が広い、スイーツが人気。
星3.8、コスパは良いが土曜は混む——
……。
時計を見たら、1時半だった。
なんで俺は金曜の深夜に、駅前のカフェの口コミを比較してんだ。
頼まれてもないのに。
「……下調べだ。あいつに任せると無駄に歩かされそうだしな。偽彼氏の自己防衛だ」
誰もいない部屋で、また言い訳した。
説得力は、昨日から一ミリも上がっていない。
◇
土曜の朝。目覚ましより20分早く目が覚めた。
鏡の前に立つ。クマがひどい。
当たり前だ、3時まで寝付けなかった。
モブはモブらしく目立たない服でいいのに、「たぶん着ないけど」と一人で言い訳しながら引っ張り出した白いシャツを、今まさに着ている自分が恨めしい。
デニムに合わせて、普段よりは十秒だけ長く鏡を見て寝癖を直して——。
「打ち合わせだ」
三回目の念仏を唱えて、俺は家を出た。
◇
駅前に着くと、橘はもう待っていた。
白いブラウスにプリーツスカート。
カーディガンを肩にかけて、小さなバッグを片手に持っている。
いつもの制服姿とは全然違う。
——なんで学園のアイドルってやつは、私服になるとさらに眩しくなるんだ。
すれ違ったカップルの男の方が思いっきり二度見して、隣の彼女に脇腹を小突かれている。
足早に駅へ向かっていた男ですら、露骨に速度を落としていた。
……お前ら、わかりやすすぎるだろ。
いや、あの破壊力なら気持ちは痛いほどわかる。
俺だってちょっと足が止まったし。
……いや、止まったのはちょっとだけだ。絶対に見惚れてなんかいない。
「水野くん! おはよう!」
橘が手を振って駆け寄ってくる。
朝から元気だ。いつも通りだ。
俺だけが寝不足でフラフラしている。
「……よう」
「ちゃんと来てくれた!」
「言ったからには来るだろ、普通に」
「あ、水野くんも白じゃん。なんかカップルのお揃いみたいだね!」
橘が無邪気に指差してくる。
言われてみれば、俺のシャツと橘のブラウス、見事に色が被っている。
「ぐっ……偶然だ! 帰って着替えてくる!」
「細かいことは気にしない! それより水野くん、その服似合ってるよ。なんだかんだ言って、ちゃんと気合入れて選んでくれたんだね〜」
「気合なんて入れるわけないだろ。……別に選んだわけじゃない、一番上にあったのを適当に着ただけだ」
橘は俺の顔をじっと覗き込んだ。
「寝てないでしょ? 目の下すごいよ」
「……うるさい」
「緊張した?」
「してない」
嘘だ。
3時まで『窓際席が最高』とかいうレビューを熟読していたなんて、死んでも言えない。
「じゃあ行こっか。今日の打ち合わせ、項目いっぱいあるからね!」
「お前の言う項目って、最後に書いてあった『楽しむ』とかいうやつも含まれてるんだよな」
「当然。一番大事な項目だよ!」
「お前の中で一番大事なのがそれかよ!」
橘は聞いちゃいない。もう歩き出している。
俺は渋々その後を追った。
◇
駅前のショッピングモール。
土曜の午前中だから、人はそれなりにいる。
「じゃあまず、写真ね!」
橘がスマホを構えて、ぐいっと寄ってきた。
「近い! 距離感!!」
「カップルっぽい写真でしょ? 離れてたら意味ないじゃん」
「もうちょっと段階ってもんがあるだろ!」
「細かいことは気にしない!」
出た。こいつの必殺技。
「はい、笑って!」
「笑えるか!」
「じゃあ普通の顔で。はい、いくよ〜!」
パシャ。
橘が画面を確認して、ぷっと噴き出した。
「水野くん、めっちゃ硬い顔してる」
「当たり前だろ……」
「もう一枚いこ。今度はもうちょっとリラックスしてね?」
「リラックスできる状況じゃねえんだよ!」
「じゃあこうしよ」
橘がピースサインで俺の横に並んだ。
距離がゼロ。肩が触れている。
……だめだ。顔が近い。シャンプーのいい匂いがする。
モブの許容量を軽く超えている。
抵抗する間におかしくなりそうだ……もういい。
パシャ。
「あ、いい感じ〜。ほら見て!」
画面の中で、橘は最高の笑顔だった。
俺は——まあ、さっきよりはマシな顔をしていた。
「お兄ちゃんに見せたら安心するかな」
……これ完全にデートの写真だろ。
兄を安心させるどころか火に油だろ。
◇
「次、カフェね。お昼にしよ〜!」
橘に引っ張られるまま、モール内のカフェエリアへ向かう。
「ねえ、どこがいいかな?」
「どこでもいいだろ」
言いながら、俺の目は無意識に右奥へ向いていた。
昨夜、星4.5をつけたレビュアーが「窓際席が最高」と書いていたあの店の方向だ。
「あ、あっちに良さそうなの発見。行ってみよ!」
橘が指差したのは——その店だった。
偶然だ。偶然に決まっている。
もし橘が「水野くん、ここ知ってた?」と聞いてきたら、俺は終わる。
星4.5のレビューを夜中に読み漁っていた男の尊厳は、粉々に砕け散る。
「ここ、なんか雰囲気いいね!」
橘は何も気づいていない。助かった。
窓際の席に座り、メニューを開く。
橘はパンケーキを即決し、俺はコーヒーとサンドイッチを注文した。
料理を待つ間、橘が向かいの席から身を乗り出してくる。
「ねえ、水野くんってこういうお店よく来る?」
「来ない。モブはフードコートで十分だ」
「じゃあ今日は特別だね!」
「……特別じゃない。打ち合わせだ」
「うんうん、打ち合わせね!」
橘は俺の否定など全く聞いていない様子で笑った。
やがて運ばれてきたパンケーキを、橘はさっそく幸せそうな顔で頬張った。
——ただの打ち合わせの昼飯だぞ。なんでそんな顔ができるんだ。
内心呆れつつも、目の前で美味そうに食べる姿を眺めていると、不思議と居心地の悪さは消えていた。
……嫌じゃない。
この空間にいるのが、嫌じゃない。
そう思った自分がやばくて、俺は慌ててコーヒーを飲んだ。
熱い!
ホットコーヒーなの忘れてた……。
◇
「見てみて〜。お揃いのキーホルダーあるよ!」
雑貨屋で橘がキーホルダーの棚に張り付いている。
「いや、これは必要か?」
「お揃いのキーホルダーとか見てみたいの!」
「『見てみたい』であって『買う』とは書いてなかったよな?」
「これとか可愛くない?」
聞いてない。ほんっとうに聞いてない。
小さな猫のキーホルダー。
二つで一組になっていて、並べると尻尾がハートの形になるやつだ。
「偽彼氏にお揃いのキーホルダーは過剰装備だろ」
「いいじゃん。形から入るの大事だよ〜!」
「形が本物すぎるんだよ!」
「決まりだね! じゃあ水野くんはどっちの猫がいい?」
「選ぶ前提で話を進めるな!」
……結局、猫のキーホルダーを二つ買った。
橘が「わー!」と子供みたいに喜んでいるのを見て、まあ安いし、別にいいか……と思ってしまった自分が一番怖い。
「はい、水野くんの分!」
橘が片方を差し出した。
「……どうも」
偽彼氏の過剰装備だ。
カバンの一番下にでも適当に押し込んでおけばいい。
——はずなのに。気がつけば俺の手は、カバンを素通りしてズボンのポケットにそれを滑り込ませていた。しかも傷つけないよう、そっと。
……なんで俺、こんな扱い方してんだよ。
橘がぐいっと顔を覗き込んできた。
「ねえ、なんでカバンじゃなくてポケットなの?」
「……カバン開けるのが面倒だったから、とりあえず突っ込んだだけだ」
「ふーん? ……もしかして、大事にしてくれようとした?」
無自覚に図星を突かれて、呼吸が止まりかけた。
「違っ……! だから面倒だっただけだっての!」
「へぇ〜?」
にやにやしている。最悪だ。
「にやにやすんな」
「してないよ?」
してる。絶対してる。
◇
モール内を歩く。写真、カフェ、キーホルダー。
橘の「打ち合わせ項目」はほぼ消化した。
残るは最後の項目——『楽しむ!!!!』。
……楽しんでいる。
認めたくないが、俺はたぶん、今日を楽しんでいる。
橘が隣でキーホルダーを鳴らしながら歩いている。鼻歌混じりに。
打ち合わせの空気じゃない。これは完全に——
「紗月」
男の声が、背後から飛んできた。
頭の中が、一瞬で真っ白になった。
低い。重い。聞き覚えのない声。
でも、橘の反応で誰だかすぐにわかった。
橘の足がピタリと止まった。
肩が強張る。さっきまでの笑顔が一瞬で消えた。
「お、お兄ちゃん……!?」
振り返ると、長身の男が立っていた。
ラフなシャツにスラックス。
私服だが、体格のせいで空気の占有率が違う。
肩幅が広い。腕が太い。そして目が——まっすぐこちらを射抜いている。
これが、橘の兄。
LINEで『逃げるな』と送ってくる人物。
胃が一瞬で縮み上がった。
「こんなところで何をしている」
声は荒げていない。なのに、周囲の空気が一段重くなった。
「デートだよ! 彼氏と!」
橘が強気に返す。が、声がいつもより半音高い。
兄の視線が、橘から俺に移った。
一瞬、俺の手元に目が留まった——気がした。
「お前が——彼氏か」
品定めの目だ。目の奥が冷たい。笑いも怒りもない、ただ淡々と俺を見てくる。
怖い。シンプルに怖い。
「あ……えっと、お兄さ——」
兄の目が、わずかに細くなった。
一言も発してないのに、「その呼び方は違う」と全身で伝わってくる。
「……橘さん。はじめまして、水野悠真です」
「ああ」
それだけだった。頷きすらない。
「お兄ちゃん、今日はたまたまでしょ? 用がないなら——」
「用はある」
兄が一歩近づいた。俺に向かって。
「近いうちに、改めて話をさせてもらう」
通告だった。兄はそれだけ言うと、背を向けた。
大きな背中が、ゆっくりと人混みへ向かって歩き出す。
足はすくんでいる。どう見てもモブの手に負える相手じゃない。
黙って背中を見送れば、逃げてやり過ごせる。
ふと隣を見ると、橘が自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめていた。
見捨てられるんじゃないか——そう怯える目で、俺を見上げている。
あの橘が、何も言えずに立ち尽くしている。
いつもの強気な言葉も出てこない。
——ここで黙って見送ったら。
俺は安全圏にこもって、こいつを一人にして逃げることになる。
「……逃げねえから」
ぽつりとこぼした呟きに、橘がビクッと肩を揺らした。
「お前が俺を強引に引っ張り回したんだろ。……勝手に逃げたりしねえよ」
橘の目が、これ以上ないくらいに丸くなる。
と、次の瞬間。
ピタリと、去りゆく兄の足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
——いや聞こえてたんかい!?
今の完全にこっちだけのボリュームだっただろ!
どんだけ地獄耳なんだよ!
兄が俺を見つめている。無表情。
俺の心臓が、先ほどの十倍の速度で跳ねた。
永遠にも思える数秒間。
「……覚えておく」
それだけ言って、今度こそ背を向けた。
大きな背中が人混みに消えていく。
俺は大きく息を吐いた。膝が少し笑ってる。
——なんで俺、あんなこと言ったんだ……!?
言った直後に盛大な後悔が押し寄せてくる。
「……水野くん」
橘の声がした。
見ると、橘が少しだけ俯き加減でこちらを見ていた。
いつもの底抜けに明るい笑顔じゃない。
どこかホッとしたような、柔らかい表情だった。
「あ、いや! 今のは——逃げないってのは偽彼氏として、その、途中で投げ出さないっていうか——」
「ありがとう」
いつも強引な彼女からは想像もつかないくらい、真っ直ぐな声だった。
返す言葉が、出てこなかった。
◇
帰り道。
橘とは改札で別れた。
「じゃあね、水野くん。今日はほんとにありがとう!」
声はいつも通りだった。笑顔もいつも通りだった。
手を振って、人波の中に消えていった。
それなのに、帰り道の頭の中では、さっきの「ありがとう」ばかりがしつこくループしている。
……最悪だ。
ただの厄介事のはずなのに、完全にペースを崩されている。
電車の座席に沈み込んで、スマホを開いた。
矢野からLINEが来ている。
ニヤけた犬のスタンプが一つ。
その下に一言。
『で、初デート(仮)の成果はどうよ?』
デートじゃねえ。
……と打ちかけて、消した。
今日の出来事を全部説明するのは無理だ。
矢野に送ったら一生いじられる。
結局送ったのは「疲れた」の二文字だった。
3秒で既読。
『楽しかったんだな』
断定で来た。疑問形ですらない。
……だぁーっ! 返せるか、こんなもん!!
素直に否定できるならとっくにしてるし、かといって肯定なんてした日には、どんな顔で学校に行けばいいのか分からなくなるだろが!
俺は既読無視を決め込み、スマホの画面を乱暴にオフにした。
ズボンのポケットにねじ込むと、一緒に入っていた猫のキーホルダーがカチャリと鳴る。
——俺の平和な高校生活、完全に終わったじゃねえか……!




