第27話 モブ、学園アイドル専用の付箋を暴かれて「私のために?」と満面の笑みを食らう
「夏休み、あっという間だったなぁ」
橘がメロンソーダのストローをくわえたまま言った。
駅前のファミレス。ボックス席に四人。
俺と矢野が片側、向かいに橘と宮田。テーブルの上には問題集とドリンクバーのコップが散らばっている。
夏休みもあと五日。
「宿題やれ」
「やるよー。でもさ、楽しかったなぁ。海行って、お祭り行って、お料理して——」
橘が指を折り始めた。
やめろ。ここで並べるな。
「……それ、全部水野と?」
宮田が英語の問題集から顔を上げた。半目。
「うん!」
即答。
この四人の前でそれを何の躊躇もなく言うな。
「ふーん」
宮田の「ふーん」の圧がすごい。
「あと、夏休み入ってからもLINEでいっぱい宿題教えてもらった!」
「いっぱいって何問よ」
「数えてないけど……結構!」
「結構、ね」
宮田が問題集に視線を戻した。
矢野はメロンソーダの二杯目を啜りながら、何も言わない。
こいつが黙ってるときは、だいたいろくなことを考えてない。
「はい、じゃあ始めよ!」
橘がノートを開いて、シャーペンを構えた。
三秒。
シャーペンが止まった。
「悠真くん、ここわかんない!」
橘がノートをこっちに突き出してきた。確率だ。
「場合の数から数えろ。組み合わせじゃなくて順列」
「えっと……こう?」
「そう。で、分母がこっち」
「あ、できた!」
一問解いただけで笑うな。
橘が次のページを開いた。
「悠真くん、ここわかんない」
「関数。xに値入れるだけ」
「……なんでそんなすぐわかるの?」
「見りゃわかる」
橘はあっさり納得して、シャーペンを走らせ始めた。
式を書いて、値を代入して——途中で止まった。
「悠真くん、ここのマイナスって——」
「括弧ごと二乗する。マイナスが消える」
「あ! そっか!」
◇
一時間が経った。
橘は数学を半分終わらせた。
三問に一回のペースで聞いてくるのは中間の勉強会と同じだ。
宮田は英語の問題集を七割終わらせている。普通に優秀だ。
矢野はメロンソーダの三杯目。
宮田が、ふと問題集から顔を上げた。
「……なんか、距離近くない?」
「橘はもともと近いだろ」
「いや、そうじゃなくて……」
宮田が言い淀んだ。
矢野がストローから口を離した。
「空気だろ」
「……何が」
「悠真の空気が、特に変わったな」
心臓が一回跳ねた。
「変わってねえよ。いつも通りだ」
矢野は何も言わずにストローを戻した。
橘がこっちを見ていた。きょとんとした顔。
でも、口元がちょっとだけゆるんでいる。
「嬉しそうだね、あんた」
宮田が橘を見て言った。
「え? そんなことないよ?」
嬉しそうに見える? 気のせいだろ……。
——っていうか、俺の空気が変わったってなんだよ。
橘から目をそらすように問題集に目を落とした。
◇
「装飾班、夏休み何回かあったんだろ」
矢野が聞いてきた。
「看板のデザイン決めたくらいだ」
「お前が看板デザインとか、想像つかねえ」
「お前のほうが得意だろうな」
橘がシャーペンを置いて、伸びをした。
「ねえ、文化祭楽しみだなぁ」
「先に宿題」
宮田がツッコんだが、橘は聞いちゃいない。
「メイド喫茶、何着るか決めなきゃ。ねえ悠真くん、どんなのがいいと思う?」
「知らねえよ」
「えー、意見くらいあるでしょ」
「ねえよ」
「むー」
橘が頬を膨らませた。膨らますところじゃないだろ。
矢野が俺の問題集に手を伸ばした。
「ちょっと見せろ」
「は? 何で」
「解き方、こっちの参考書と違うか確認」
まぁ、別にいいけど。
問題集を渡した。
矢野がページをぱらぱらめくる。
——あ。
まずい。
「悠真」
「……何」
「これ」
矢野が問題集を開いて見せた。
ページの端に、小さな付箋が何枚も貼ってある。
『ここ聞かれそう』『順列と組み合わせ混同注意』『マイナスの括弧』
全部、俺の字だ。
「お前これ、橘が詰まるとこ全部マークしてあるだろ」
テーブルが静かになった。
宮田が問題集を覗き込んだ。
「……何これ。全部紗月用?」
「違う。自分用にまとめただけだ。効率がいいから——」
「普通はやらねえよ」
矢野が短く言った。
橘が、俺の問題集をじっと見ていた。
付箋の一枚一枚を、目で追っている。
「悠真くん、これ……私のために作ってくれたの?」
「だから違う——」
「でも、『ここ聞かれそう』って書いてあるよ?」
返す言葉がない。
「悠真くん——」
「勉強しろ。宿題、まだ半分残ってるだろ」
「ありがとう!」
橘が満面の笑みで言った。
礼を言うな。俺がやばいんだよ。
矢野と宮田が一瞬だけ目を合わせた。
すぐに二人とも視線を戻した。
俺だけが、まだ心臓がうるさい。
◇
五時を過ぎた。店を出ると、八月の夕方はまだ暑い。
「じゃあ私と玲奈はこっちだから! 悠真くん、今日もありがとね!」
「おう」
橘が手を振って、宮田と改札の方に歩いていった。
宮田が橘に何か言っている。橘が「違うってば!」と声を上げたのが聞こえた。
矢野と並んで反対方向に歩き出した。
「メイド喫茶、見に行くんだろ」
「行かねえよ」
「問題集に付箋貼って予習してくるやつが?」
返す言葉がなかった。
「……それとこれは関係ないだろ」
「はいはい」
矢野がポケットに手を突っ込んで、角を曲がっていった。片手だけ上げて。
一人になって、歩く。
八月の空はまだ明るいのに、影だけがやけに長い。
夏休み、あと五日。
二学期が始まったら、文化祭の準備が本格化する。装飾班の作業。橘のメイド喫茶。四人でまた昼を食う日常。
問題集の付箋が、鞄の中でかさっと音を立てた気がした。
……剥がしとけばよかった。




