第26話 モブ、学園アイドルの母親に「大事にしてあげてね」と微笑まれて箸が止まる
インターホンを押した。
何回目だ、ここ。
さすがにもう慣れた——と言いたいところだが、毎回この門柱の圧に負けそうになる。
ピンポーン、の残響が消える前に、カチャ、と玄関の鍵が開いた。
早い。
また橘が外まで出てきて——
「あら、水野くん。いらっしゃい」
違った。
ドアの向こうに立っていたのは、セミロングの髪をゆるくまとめた女性だった。
アイボリーのブラウスに、淡いグリーンのカーディガン。上品で落ち着いた雰囲気。
橘の母親だ。
「こ、こんにちは、お母さん。お邪魔します……」
「どうぞ、上がって。紗月、キッチンで張り切ってるわよ」
穏やかな微笑み。声は柔らかい。
でも。この人の前に立つと、なんだろう。背筋が勝手に伸びる。
「朝からね、玉ねぎがどうとか、ひき肉がどうとか、ずっと冷蔵庫を開けたり閉めたりしてたの」
そこまで報告しなくていいだろ。
お母さんはそう言って、先にリビングへ戻っていった。
奥から、聞き慣れた声が飛んでくる。
「悠真くーん! こっちこっち!」
「はいはい、今行く」
靴を脱いで、中に入った。
リビングを通り抜ける。ソファの端で、お母さんがカップを手に本を開いていた。
こっちをちらりと見て、小さく微笑む。
奥のアイランドキッチンに、エプロン姿の橘が立っていた。
ポニーテール。まな板も包丁もボウルも、全部並べてある。
「今日こそハンバーグだからね! 準備万端!」
「万端って言うなら、まず玉ねぎのみじん切りからだぞ」
「……みじん切り、できるようになったもん」
「ほんとかよ」
「ほんとだもん!」
◇
準備をして、俺は橘の横に移動した。
「玉ねぎ、繊維を断つ方向な」
「わかってるよ! 前に教えてもらったもん!」
橘が包丁を握った。以前より持ち方がマシになっている。握り込みじゃなくて、ちゃんと人差し指を添えてる。
一応、覚えてたのか。前は包丁の握り方からだったのに。
トン、トン、トン。
危なっかしいけど、一応切れている。みじん切りと呼んでいいかは微妙だが。
「どう?」
「……前よりマシだな」
「褒めてよ!」
「褒めてるだろ」
「褒めてない!」
うるさい。いいから次だ。
「ひき肉に塩こしょう。あと卵。割れるか?」
「割れる! 卵は得意になった!」
橘が卵を手に取って、ボウルの縁にコンと当てた。
殻が入らずに中身だけ落ちる。
「ね?」
「……おう」
素直に感心した。前は殻が入ってたのに。
練習したのか、こいつ。
「こねるの、やってみたい!」
「手、洗ったか」
「洗った!」
橘がひき肉に手を突っ込んだ。
粘りが出るまでこねるんだぞ、と言いかけた瞬間——
「うわっ、冷たい! ねばねばする!」
「当たり前だろ」
「悠真くん、手伝ってよー」
「自分でやれ」
「えー」
口をとがらせる。
俺はボウルが動かないように押さえた。
近い。
いつものことだけど、近い。こんなに広いキッチンなのに、肩が触れそうな距離で橘がひき肉をこねている。
集中しろ。ハンバーグだ。
橘の手元を見た。粘りが出てきてる。もうちょっとだ。
——なのに、目を上げた先に、リビングのソファにお母さんがいる。
絶対こっち見てる。
そんな事を考えながら橘のフォローをしてたら、お母さんがキッチンに入ってきた。
「お茶、淹れようと思って」
そう言って、カウンターの電気ケトルに手を伸ばす。
「——あら、上手にできてるじゃない」
「見て見て、お母さん! 悠真くんが教えてくれたの!」
「そう」
ケトルのスイッチを入れてから、こっちを見た。
「水野くんって、お料理するのね」
「あ、はい。親が忙しいので、自分で作ることが多くて」
「そう。偉いわね」
穏やかに微笑んで、一呼吸。
「紗月はね、家では全然作らないの」
「お母さん——」
「なのにあなたとだけ一緒に作りたがるのよ。面白いわよね」
——あなたとだけ?
橘が、止まった。
手がひき肉の中に突っ込まれたまま、動かない。
「……そんなことないよ? 料理、前から興味あったし」
橘はそう言って、また手を動かし始めた。
いつもの声、いつものテンション。
でもさっき一瞬——止まったよな、こいつ。
「あら、本当のことでしょう?」
「もう、お母さん! 変なこと言わないでよ!」
ケトルからカップにお湯を注ぎながら、小さく笑った。
「ごめんなさいね、水野くん。紗月が騒がしくて」
「いえ……」
カップを持って、ソファに戻っていった。
なんとなく緊張感から解放されて、ようやく息がつけた。
「……お前の母さん、やっぱなんか怖い」
「えー? 優しいでしょ?」
「優しいのは知ってる。知ってるけど」
「けど?」
「……いいから、ハンバーグ丸めるぞ」
◇
ハンバーグは、なんとか形になった。
「三つ分な」
「三つ? 二人なのに」
「お母さんの分」
橘の手が一瞬止まって、それから「あ」と小さく声を出した。
「……そっか。うん、三つ」
橘が作ったのは少しいびつで、俺が作ったのはまあ普通。
三つ並べてフライパンに載せると、じゅう、と音がした。
「焼けてる! 焼けてるよ悠真くん!」
「騒ぐな。ひっくり返すの失敗するぞ」
「任せて!」
橘がフライ返しを構えた。持ち方がなんか危うい。
案の定、フライパンに差し込む角度がおかしい。
「……貸せ」
「えー、もうちょっとやらせてよ!」
「崩れるから。貸せって」
フライ返しを受け取って、ハンバーグをひっくり返す。
焦げ目がちょうどいい。橘が「おおー」と声を上げた。
蓋をして、弱火。蒸し焼き。
しばらく待つ。
炊飯器のタイマーを確認した。三回目ともなると、この家の炊飯器の操作も覚えた。
橘が隣で、フライパンの中をじっと見ている。
焼ける匂いが、キッチンに広がった。
ふと振り返ると、ダイニングテーブルにサラダが並んでいた。
お母さんがいつの間にか用意したらしい。音も立てずに、一人で。
……うちなら母さんが「悠真ー、サラダお願いー」って声飛ばしてくる頃だぞ。
この家、広いのに静かだ。
◇
三人でダイニングテーブルについた。
六人掛けのテーブルに、三人。
橘が「悠真くんこっち!」と隣の椅子を引いた。向かいの席には橘のお母さんが座っている。
残りの三席は、空のままだ。
皿の上には、ハンバーグ。味噌汁は俺が作った。もう慣れたもんだ。
「いただきます」
三人で手を合わせた。
橘が箸でハンバーグを割った。断面から肉汁がじわっと出る。
「すごい! ちゃんとハンバーグだ!」
「ちゃんとって何だよ。ハンバーグ作ったんだからハンバーグだろ」
「だって前は卵焼きしか作れなかったのに!」
それは言うな。
橘は俺の方を向いたまま、こねるの大変だった話、フライ返し持ちたかった話、次は煮込みハンバーグがやりたい話を一気に喋っている。
お母さんは、静かに食べていた。
時々「そう」と相槌を打って、小さくうなずく。
「お母さん、どう? 美味しい?」
「美味しいわ」
「私が作ったんだよ! 悠真くんに教えてもらって!」
「ええ、上手にできたわね」
お母さんは箸を置いた。
「お父さんにも取っておきましょうか」
「……いいよ。いつ帰るかわかんないし」
「そう」
それだけだった。
橘も、それ以上何も言わない。
一瞬だけ、テーブルが静かになった。
——さっきまであんなに喋ってたのに。
俺の方を向いてる時と、母親と話す時とで、なんかテンポが違う。
お母さんがこっちを見た。
「水野くん、ありがとうね。紗月のために来てくれて」
「いえ、約束したんで……」
「紗月は昔から、気を許した人にしか本当の顔を見せない子なの」
お母さんは穏やかに笑っている。声のトーンも変わらない。
なのに——さっきまでとは、なんか違う。
「あなたに見せてるのは、きっと本当の紗月よ。大事にしてあげてね」
箸を持つ手が、止まった。
何て返せばいい。
大事にって——いや、俺は料理を教えに来ただけで——
「お母さん、もう! 恥ずかしいこと言わないでよ!」
橘が頬を赤くして、声だけ一段上がった。
「あら。お母さん、思ったことを言っただけよ?」
「思っても言わないで!」
お母さんは小さく笑って、味噌汁に手を伸ばした。
「大丈夫よ、紗月。お母さん、もう余計なこと言わないから」
「ほんとに?」
「ええ」
橘はまだ頬を膨らませている。
俺は、ハンバーグを口に入れた。
うまい。普通にうまい。
橘と一緒にこねた肉が、ちゃんとハンバーグになっている。
でも、さっき言われたことが、まだ頭の隅に引っかかってる。
◇
食後、お母さんが食器を片付けてくれた。
「お客さんはいいの。座ってて」と言われて、座っているしかなかった。
橘が玄関まで送ってきた。
「今日、ハンバーグできたね!」
「おう」
「煮込みハンバーグ、いつにする?」
「……気が早いだろ」
「えー、早くやりたいんだもん」
橘がサンダルをつっかけて、玄関の外に出た。
門の前。夕方の風が吹いた。
「ね、お母さんどうだった?」
「……優しい人だとは思うけど」
「けど?」
「なんか、あの人の前だと、ごまかしが効かない気がする」
「ごまかし? 悠真くん、何ごまかしてるの?」
「……別に。何も」
橘が首をかしげて、「変なの」と笑った。
「じゃあね、悠真くん。また連絡する!」
「おう」
門を出た。
坂を一歩下りかけて、ふと思い出す。
キッチンで、あの人が「あなたとだけ」と言ったとき。
橘の手が、ひき肉の中で、一瞬だけ止まった。
あれ、なんだったんだ。
考えても、わからなかった。
スマホが震えた。橘からだ。
『今日のハンバーグ、ちゃんとハンバーグだった!! あとお母さんが変なこと言ってたけど気にしないでね!!』
ビックリマーク二つ。いつもの橘だ。
……なんで俺、約束だから来たって、さっきから自分に言い聞かせてんだ。
坂を下りた。




