第25話 モブ、浴衣の学園アイドルの「来年も、きたいね」で偽彼氏を忘れる
『今日18時な』
矢野からのLINEが来たのは昼過ぎだった。
桜ヶ丘神社の夏祭り。
四人で行こう、と橘が言い出したのは三日前。
俺は一分で了承した。宮田は「暑いからやだ」と渋ったらしいが、橘の猛攻に二十分で陥落した——と、橘が嬉しそうにLINEしてきた。
……二十分も保ったのか。俺は一分だったぞ。
鏡の前で、三枚目のTシャツに腕を通す。
一枚目は首元がヨレてた。二枚目は柄が変だった。三枚目は——普通の黒い無地。
祭りだぞ。誰も俺のTシャツなんか見ない。
なのになんで三枚も試してんだ。
……もういい。これで行く。
◇
商店街の入口。
矢野が先にいた。
いつもの半目で、コンビニの前に立ってる。
「おー」
「おう」
「暑いな」
「な」
矢野がペットボトルの水を飲んだ。
俺もコンビニで麦茶を買う。矢野のレジ袋にはポテチが入ってた。
こいつ、祭りでもポテチかよ。
スマホを取り出してLINEを開く。
無理やり作らされた四人のグループLINE。うさぎが謝ってるスタンプと、宮田の文字だけのメッセージが並んでいた。
「橘、遅れるってさ」
「だな」
「ま、少し待つか」
矢野と駄弁りながら待っていると。
「あ、いたいた!」
商店街の奥の方から、宮田が歩いてきた。
デニムのショートパンツに白いノースリーブ。サンダル。普通の夏の格好だ。
「橘は?」
俺が聞いた。
「着付け。帯がうまくいかないって」
「着付け?」
宮田がこっちを見た。
「浴衣。聞いてないの?」
「……聞いてない」
「ふーん」
宮田の口の端が、ほんの少し上がった。
浴衣。橘が。浴衣。
……心の準備をさせてくれ。
「ごめんごめん、待った!?」
声が聞こえた。
商店街の奥から、小走りで来る人影。
淡い紺地に、白い花の模様。
髪がいつもと違う。上で結んでる。うなじが見えてる。
下駄がカランと鳴った。
橘が、三人の前で立ち止まった。
少し息が上がっている。
髪を上げたせいで、耳が見えてる。いつもは髪に隠れてるのに。
橘が、両手を少し横に広げた。
「……どうかな?」
裾が、風に揺れた。
——止まった。
「紗月、かわいいじゃん」
宮田が先に言った。
俺はまだ、何も言えてない。
「悠真くん?」
橘が、小首をかしげた。
耳の横の後れ毛が揺れた。
「…………」
「悠真くん、どうしたの?」
「……いや」
声が出た。かろうじて。
「……いい、んじゃないか」
それだけ絞り出すので精一杯だった。
「ほんと!? えへへ、よかったぁ」
……一言でそんな喜ぶな。
橘が笑った。浴衣で笑うと、いつもと同じ笑い方なのに、なんか違う。
何が違うのか、わからない。わからないけど、目が離せない。
「悠真」
矢野が、横から小声で言った。
「顔」
「……うるせえ」
◇
商店街から参道にかけて、屋台が並んでいる。
焼きそば、りんご飴、射的、金魚すくい。
提灯の灯りがオレンジで、浴衣の人も私服の人もごちゃ混ぜだ。
「わあ、りんご飴!」
橘が屋台に駆け寄った。
下駄で小走りするな。転ぶだろ。
「悠真くん、どれがいい?」
「別にいらない」
「えー、お祭りなのに!」
橘は赤いりんご飴を二本買って、一本を俺に差し出した。
「はい!」
「……だから要らないって」
「もう買っちゃったし!」
……受け取った。
仕方ねえ。もう買っちまったもんは捨てられないだろ。
矢野が隣でりんご飴を齧りながら、何も言わずにこっちを見ている。何も言わないのが一番怖い。
「あたしのは?」
宮田が橘に言った。
「玲奈、りんご飴好きだっけ?」
「別に。聞いただけ」
「じゃあ焼きそば! ね、矢野くん、あそこの焼きそば美味しそうじゃない?」
「俺に振るな」
「四人で分けよう!」
「分けるサイズじゃねえだろ」
結局、焼きそばを二パック買って四人で突っついた。
「あっちのたこ焼きも気になるんだけど」
「橘、お前胃袋どうなってんだ」
「お祭りは別腹だよ、矢野くん!」
「別腹って何個あんの」
「数えたことない!」
「数えろよ」
矢野が呆れた顔で割り箸を動かした。
「紗月は昔からそう。お祭りになると胃袋が三倍になるよね」
宮田が淡々と追加情報を出した。
「三倍って、そんなに食べないよ!」
「中学の文化祭、クレープ三個食べてたじゃん」
「あれは二個!」
「三個。あたしが三個目のチョコバナナ持ってるの見た」
「…………」
橘が焼きそばに集中し始めた。黙々と麺を口に運んでいる。
敗北の沈黙だ。
橘は割り箸で麺を取ろうとして、浴衣の袖が容器に触れそうになるたび「あっ」と声を上げている。
「橘、袖」
俺が言うと、橘が袖を片手で押さえた。
「えへへ、慣れないね、浴衣って」
「着たことないのか」
「あるよ! でもこういうお祭り、久しぶりで」
橘が笑いながら焼きそばを口に運んだ。
頬に青のりがついた。
「橘。ほっぺ」
「え?」
「青のり」
橘が慌てて手の甲で擦った。全然違う場所。
「……そっちじゃない。右」
「ここ?」
「もうちょい上」
「ここ!?」
「取れてない」
もう。
俺は自分のハンカチを出して、橘の頬に手を伸ばした。
——触れた瞬間、橘の肩が小さく跳ねた。
「……取れた」
「あ、ありがと」
橘が小さく笑った。
いつもより、ちょっとだけ声が小さい。
……なんで俺、ハンカチなんか出した。
「水野、あんた意外と自然にやるよね」
宮田が焼きそばを食べながら、半目でこっちを見た。
「……何がだよ」
「別に」
宮田はそれ以上言わなかった。
矢野は麦茶を飲んで、空を見上げている。
「金魚すくいやりたい!」
橘が、焼きそばを食べ終わる前に次の屋台を指差した。
「悠真くん、やろ!」
「……一回だけな」
「やった!」
ポイを受け取って、水面を見る。金魚は思ったより速い。
橘は早速ポイを突っ込んで、一発で破いた。
「あー!」
「突っ込みすぎだ」
「もう一回!」
「お前のはもう破けてるだろ。……次、俺な」
慎重に狙って——すくえなかった。
「水野もだめじゃん」
後ろから宮田が覗き込んでいた。
「うるせえ」
「あたしやろっか?」
宮田がポイを受け取って、涼しい顔で一匹すくった。
「えっ、玲奈すごい!」
「昔から得意」
「玲奈ってたまにこういうとこすごいよね!」
「たまにって何よ。今のは普通でしょ」
「普通じゃないだろ」
俺がつい言ってしまった。宮田が半目でこっちを見た。
「水野だってやればできるでしょ。力入れすぎなだけ」
「力加減の問題か?」
「大体そう。あんたは色々力入れすぎ」
……なんか別のこと言ってないか、今。
……色々、ってなんだよ。
矢野が横で「お前ら騒がしいな」と言いながら、射的の景品を眺めている。こいつは参加する気がない。
橘が宮田のすくった金魚を覗き込んで、「かわいい!」とはしゃいでいる。
宮田は袋に入った金魚を橘に渡して、「あんたが持ってなよ」と言った。
四人で屋台を回りながら、参道を登っていく。
橘は金魚の袋を大事そうに持ちながら、人混みの中で俺の腕を掴んだ。
「はぐれちゃうから」
——掴むな。
掴むなって毎回思ってるのに、毎回振り払えない。
半袖の下、素肌に指先が触れてる。
浴衣で、金魚の袋持って、俺の腕掴んで笑ってるこいつは——
学園のアイドルには、とても見えなかった。
◇
ドーン、と低い音が鳴った。
「あ、花火!」
橘が空を見上げた。
参道の上の方、神社の鳥居の向こうに、花火が一つ上がった。
「始まったな。どっか行くか」
矢野がスマホをポケットにしまいながら言った。
「上の方に、いい場所知ってるの!」
橘が参道の先を指差した。
「あたしはここでいいや。暑いし」
宮田が屋台の横のベンチを示した。
「え、玲奈も一緒に——」
「あんたたち行ってきなよ。あたし座ってる」
矢野がちらっと宮田を見た。宮田がちらっと矢野を見た。
一瞬だけ目が合って、すぐに逸れた。
「じゃ、俺もここで」
矢野がベンチの隣に腰を下ろした。
「矢野くんも!?」
「疲れた。お前ら行ってこい」
「えー、みんなで見たほうが楽しいのに!」
「花火はどこで見ても同じだろ」
「同じじゃないよ! 場所で全然違うよ!」
「紗月、行くなら早く行きなよ。場所なくなるよ」
宮田がスマホを見ながら言った。
……お前ら。
二人が同時に残ったのは、偶然じゃない。
……こいつら、またやってるだろ。
でも今さら「俺も残る」とは言えなかった。
橘がもう、石段の方を向いてるから。
「行こ、悠真くん!」
腕を引かれた。
矢野が、ベンチからこっちを見ていた。
何も言わない。ポテチの袋を開ける音だけが聞こえた。
◇
石段を上がっていく。参道には人が多い。浴衣の人、子供連れ、ビール片手のおじさん。提灯の灯りに照らされて、橘の浴衣の紺が揺れる。
本殿の前を通り過ぎた。ここで止まると思ったのに、橘はさらに奥へ引っ張っていく。
「おい、どこ行くんだ」
「もうちょっと!」
本殿の裏手に回って、木の間を抜ける。もう一段だけ石段があった。
上がった先は、小さな踊り場だった。
参道からは木で隠れて見えない。でも街の方は、遮るものが何もなかった。
提灯の列が下に光っていて、その先に駅の灯りがある。
花火が上がるたびに、空が明滅する。
橘が石段の一番上に座った。
「ここ! ここがいい!」
「……なんでこんな場所知ってんだよ」
「小さいとき、お兄ちゃんと来てたの。お兄ちゃんが見つけたんだよ」
「ほら、座って座って」
俺もその隣に、少し間を空けて座る。
祭りの喧騒が下から聞こえるだけで、ここは静かだ。
「きれい……」
橘が、空を見上げたまま言った。
花火の光が、橘の横顔を照らした。
髪を上げてるせいで、いつもと印象が全然違う。
——目が、逸らせない。
教室で叫んで、海ではしゃいで、俺を振り回す——全部同じ人間のはずなのに。
浴衣で花火を見上げてるこいつは、初めて会った人みたいだ。
「ねえ、悠真くん」
「……ん」
「今日、お兄ちゃんいないんだ」
「……そうなのか」
「うん。出張だって。ほんとは来たかったんじゃないかな、お兄ちゃん、お祭り好きだから」
橘兄がスーツで焼きそばを食べてる画が浮かんだ。
普通に怖い。いなくてよかった——とは、言わない。
「来年は来るかもね」
橘がくすっと笑った。
ドーン、と一際大きな花火が上がった。
赤と金の火花が、夜空に広がって、ゆっくり消えていく。
橘が、膝の上で金魚の袋を両手で包んだ。
「……来年も、きたいね」
花火を見上げたまま、ぽつりと。
来年も。
来年の夏、俺はまだ——こいつの隣にいるのか。偽物なのに?
「……ああ」
それだけ、返した。
それしか出てこなかった。
橘が少しだけ笑って、また空を見上げた。
偽彼氏の契約に「来年」なんて書いてない。そもそも契約書なんかないけど。
でも、来年もここに座ってる自分が——想像できてしまった。
それが一番、やばい。
橘が、膝の上の金魚の袋をそっと揺らした。
花火の光が消えて、一瞬だけ暗くなった。
暗闇の中で、橘の肩が近くにあった。
触れてはいない。でも、あと少し動いたら触れる距離。
……なんで俺、こいつの隣がこんなに——。
言葉にならなかった。
ならないまま、次の花火が上がった。
◇
帰り道。
石段を下りて、参道を戻る。
矢野と宮田はベンチにまだいた。矢野はポテチを食べ終わって、宮田は自分のスマホを見ていた。
「おー、帰ってきた」
「……ああ」
「花火、どうだった?」
「……普通」
「はいはい」
矢野はそれ以上聞かなかった。
四人で参道を下りて、商店街の方に向かう。
橘は金魚の袋を持って、宮田の横を歩いている。
「名前何にしよう」「金魚に名前つけんの」「つけるよ!」とやっている。
俺と矢野が少し後ろを歩く。
矢野は何も言わない。
いつもならここで何か突っ込んでくるのに、今日は何も言わない。
それが、逆に——
「矢野」
「ん?」
「……なんでもない」
「そうか」
矢野がポケットに手を突っ込んで、前を向いたまま歩いた。
前を歩く橘の後ろ姿が、提灯の光に照らされている。
浴衣の背中が、少し揺れるたびに、さっき石段で見た横顔が頭に戻ってくる。
忘れられると思ってない。
もう、そういう段階じゃないことくらい、わかってる。
わかってるのに、言葉にできねえ。
——なんなんだよ、これ。
◇
悠真くんが、花火を見てた。
——ううん、違う。花火は私も見てた。
でも途中から、悠真くんがこっちを見てるの、わかってた。
知らないふり、しちゃった。
だってなんか、いつもと違った。悠真くんの目が。
怖いとかじゃなくて。
なんだろう。
……石段で並んで座ってるとき、すごく静かだった。
いつもは「うるせえ」とか「距離」とか言うのに。
ふふっ。
——あの横顔、花火の光で、ちょっとだけきれいだった。
……変なの。




