第113話
「ムー……セムー」
その信号を感知したのは、何か長い夢──中枢帯の自己修復機能による疑似実験効果にさらされた後のようだった。
意識はどこか遠く、敢えて表現するならば「ほんわか」した感じの状態だ。あるいは「ふんわり」した状態か。いずれにせよ、それはなかなか悪くない感じだ。
「セムー!」
だがその声はびしり、と、硬度の高い物質でできた棒のように厳しく叩きつけにきた。
はっと認識を開く。
「あ……」しかし次にどうすればいいのか、すぐに判断ができなかった。何を言う? どこを見る? 何が聞こえる? どこを動かす?
「意識戻った? 私がわかる?」左手方向から自分に向けられているらしい問いかけが聞こえてくる。「ていうか、自分がわかる?」
「あ」ここで初めて自個体を動かす。呼び掛けの聞こえた方向に視覚を移動させた。「──ベルー?」
そして現況が一気に押し寄せ検知帯をフル活動させた。頭頂の双葉が激しく回転するのが判る。
「今私たちは、シャチの頭の上に乗せられて運ばれているようだわ」コードベルーが冷静に現況を説明する。
確かに今、自分は地球産動物の体の上に乗った状態で高速移動している。海の上だ。乗せられているのはシャチ。黒い体躯の表面が水に濡れて光っている。
「ねえ、セムー」ベルーが問う。「私たちしばらく眠っていたようなんだけど、何か体調に変化を感じることはない?」
「変化?」コードセムーは問い返した。「──どんな?」
「──」ベルーは少し答えに迷う様子を見せた。「なんていうか……そう……例えば、なんだか体が、重くなった、ような」
「え?」セムーは訝しく思った。体が重くなるなど、一体どういうことが起きればそんなばかげた現象になる?「何言って」
「君ら、起きたかね」その時シャチの声が、下の方から届いた。
「どうも」セムーが言葉を発せずにいる間、先にベルーの方が返事を──挑戦的な声音で、返した。「ここはどこら辺り? それとこれから私たちをどこに連れて行くつもり?」
「ただ周回している」シャチは穏やかに答えた。「君らを観察しながらね」
「ああ、そう」ベルーは頷く。「私たちは、実験動物なのね。今どういう状態なのか、あなた方から見てどう見えるのかしら?」
「そうだな」シャチは少し考察を巡らせる様子を見せた。「死んではいない」
「──」ベルーは言葉を見失ったようだった。
「動けないわ」ここで初めてセムーは、自分の状態の変化について気付きを述べた。「外殻をコントロールできない」
「ええ」ベルーが肯定する。「私も同じよ」
「どう、なってるの」セムーはそして、しばらく忘れていた恐怖という情動が自己内に蘇りだすのを如実に感知した。「何これ」
「私たち恐らく、打ち込まれたのよ」ベルーが同様に恐怖を感じているのかどうか、その低い声からは判断がつきかねた。「あのいかれ細菌野郎に」
「打ち込まれ──」セムーが考えを整理するよりも先に、
「カルバペネムの所為でしょう」ベルーが答を言った。「あれの所為でこうなったんだと思うわ」
「──抗生物質の?」
「ええ。私たちの細胞表面で活動している細菌たちが、あれにやられたんだと思うわ」
「そのようだね」シャチも口を挟む。「君たちの体を動かしてる信号系統が遮断されたんだと思うよ」
「うん、恐らくね」傍らで一緒に泳ぐ別のシャチも考えを述べる。「今はまだ、こうしてものを言うことぐらいはできるようだけど、その内それもできなくなるかも知れないね」
「おあいにくさま」ベルーが、恐怖を打ち払うための強がりなのかわからないが、それでも凛とした声で言い放つ。「私たちの構成分子はそうやすやすと破滅しないわ。現に今私たちの意識は、元通り正常に戻っている。外殻制御システムの復旧も、時間の問題よ」
「ねえ、待って」セムーが突然叫んだ。
何故、今それを突然思い出したのか、自分でもわからない。けれどきっと何かが、それを忘れてはだめだ、と彼女に向かって叫んだのだ。見えない何かが──誰かが。
それは、そう、きっとあの人だ。
「私の中には、子どもがいるの」セムーは叫びを続けた。「私の体が麻痺しているってことは、その子どもにも悪い影響を及ぼすんじゃないかしら?」
彼女の問いに、ベルーも、シャチらも、他の何者も答えを与えることができずにいた。




